【仏教用語/人物集 索引】

「正法眼蔵」神通(じんづう)

投稿日:1244年11月16日 更新日:

かくのごとくなる神通は、仏家の茶飯なり、諸仏いまに懈倦せざるなり。これに六神通あり、一神通あり。無神通あり、最上通あり。朝打三千なり、暮打八百なるを為体とせり。与仏同生せりといへども仏にしられず、与仏同滅すといへども仏をやぶらず。上天に同条なり、下天にも同条なり、修行取証、みな同条なり。同雪山なり、如木石なり。

過去の諸仏は釈迦牟尼仏の弟子なり、袈裟をささげてきたり、塔をささげきたる。このとき釈迦牟尼仏いはく、諸仏神通不可思議なり。しかあればしりぬ、現在未来も亦復如是なり。

大潙禅師は、釈迦如来より直下三十七世の祖なり、百丈大智の嗣法なり。いまの仏祖、おほく十方に出興せる、大潙の遠孫にあらざるなし、すなはち大潙の遠孫なり。

大潙あるとき臥せるに、仰山来参す。大潙すなはち転面向壁臥す。
仰山いはく、慧寂これ和尚の弟子なり、形迹もちゐざれ。
大潙おくるいきほひをなす。仰山すなはちいづるに、大潙召して寂子とめす。
仰山かへる。
大潙いはく、老僧ゆめをとかん、きくべし。
仰山かうべをたれて聴勢をなす。
大潙いはく、我がために原夢せよ、みん。
仰山一盆の水、一条の手巾をとりてきたる。
大潙つひに洗面す。洗面しをはりてわづかに坐するに、香厳きたる。
大潙いはく、われ適来寂子と一上の神通をなす。不同小小なり。
香厳いはく、智閑下面にありて、了了に得知す。
大潙いはく、子、心みに道取すべし。
香厳すなはち一椀の茶を点来す。
大潙ほめていはく、二子の神通智慧、はるかに鶖子目犍連よりもすぐれたり。

仏家の神通をしらんとおもはば、大潙の道取を参学すべし。
不同小々のゆゑに、作是学者、名為仏学、不是学者、不名仏学(是の学を作す者を名づけて仏学と為し、是の学にあらざれば仏学と名づけず)なるべし。嫡々相伝せる神通智慧なり。さらに西天竺国の外道二乗の神通、および論師等の所学を学することなかれ。

いま大潙の神通を学するに、無上なりといへども、一上の見聞あり。いはゆる臥次よりこのかた、転面向壁臥あり、起勢あり、召寂子あり、説箇夢あり、洗面了纔坐あり、仰山又低頭聴あり、盆水来、手巾来あり。
しかあるを、大潙いはく、われ適来寂子と一上の神通をなすと。

この神通を学すべし。仏法正伝の祖師、かくのごとくいふ。説夢洗面といはざることなかれ、一上の神通なりと決定すべし。すでに不同小々といふ、小乗小量小見におなじかるべからず、十聖三賢等に同ずべきにあらず。

彼らみな小神通をならひ、小身量のみをえたり。仏祖の大神通におよばず。これ仏神通なり、仏向上神通なり。この神通をならはん人は、魔外にうごかざるべからざるなり。

経師論師いまだきかざるところ、きくとも信受し難きなり。二乗外道経師論師等は小神通をならふ、大神通をならはず。仏は大神通を住持す、大神通を相伝す。これ仏神通なり。仏神通にあらざれば、盆水来、手巾来せず。転面向壁臥なし、洗面了纔坐なし。

この大神通のちからにおほはれて、小神通等もあるなり。大神通は小神通を接す、小神通は大神通を知らず。小神通といふは、いはゆる毛呑巨海、芥納須弥なり。また身上出水、身下出火等なり。又五通六神通、みな小神通なり。

これらのやから、仏神通は夢也未見聞在なり。五通六神通を小神通といふことは、五通六神通は修証に染汚せられ、際断を時処にうるなり。在生にありて身後に現ぜず、自己にありて他人にあらず。此土に現ずといへども他土に現ぜず。不現に現ずといへども、現時に現ずることをえず。

この大神通はしかあらず。諸仏の教行証、おなじく神通に現成せしむるなり。ただ諸仏の辺に現成するのみにあらず、仏向上にも現成するなり。神通仏の化儀、まことに不可思議なるなり。有身よりさきに現ず、現の三際にかかはれぬあり。

仏神通にあらざれば、諸仏の発心修行菩提涅槃いまだあらざるなり。いまの無尽法界海の常不変なる、みなこれ仏神通なり。毛呑巨海のみにあらず、毛保任巨海なり、毛現巨海なり、毛吐巨海なり、毛使巨海なり。一毛に尽法界を呑却し吐却するとき、ただし一尽法界かくのごとくなれば、さらに尽法界あるべからずと学することなかれ。

芥納須弥等もまたかくのごとし。芥吐須弥および芥現法界、無尽蔵海にてもあるなり。毛吐巨海、芥吐巨海するに、一念にも吐却す、万にも吐却するなり。万一念、おなじく毛芥より吐却せるがゆゑに。毛芥はさらになによりか得せる。

すなはちこれ神通より得せるなり。この得、すなはち神通なるがゆゑに、ただまさに神通の神通を出生するのみなり。さらに三世の存没あらずと学すべきなり。諸仏はこの神通のみに遊戲するなり。

龐居士蘊公は、祖席の偉人なり。江西石頭の両席に参学せるのみにあらず、有道の宗師おほく相見し、相逢しきたる。あるときいはく、神通竝妙用、運水及搬柴。

この道理、よくよく参究すべし。いはゆる運水とは、水を運載しきたるなり。自作自為あり、他作教他ありて、水を運載せしむ。これすなはち神通仏なり。しることは有時なりといへども、神通はこれ神通なり。人のしらざるには、その法の廃するにあらず、その法の滅するにあらず。人はしらざれども、法は法爾なり。運水の神通なりとしらざれども、神通の運水なるは不退なり。

搬柴とは、たきぎをはこぶなり。たとへば六祖のむかしのごとし。朝打三千にも神通と知らず、暮打八百にも神通とおぼへざれども、神通の現成なり。

まことに諸仏如来の神通妙用を見聞するは、かならず得道すべし。このゆゑに一切諸仏の得道、かならずこの神通力に成就せるなり。しかあれば、いま小乗の出水、たとひ小神通なりといふとも、運水の大神通なることを学すべし。

運水搬柴はいまだすたれざるところ、人さしおかず。ゆゑにむかしよりいまにおよぶ、これより彼につたはれり。須臾も退転せざるは神通妙用なり。これは大神通なり、小々とおなじかるべきにあらず。

洞山悟本大師、そのかみ雲巖に侍せりしとき、雲巖とふ、いかなるかこれ价子神通妙用。
時に洞山叉手近前而立。
又雲巖とふ、いかならんか神通妙用。
洞山時に珍重而出。

この因縁、まことに神通の承言会宗なるあり。神通の事存凾蓋合なるあり。まさにしるべし、神通妙用は、まさに児孫あるべし、不退なるものあり。まさに高祖あるべし、不進なるものなり。いたづらに外道二乗にひとしかるべきとおもはざれ。

仏道に身上身下の神変神通あり。いま尽十方界は、沙門一隻の真実体なり。九山八海、乃至性海、薩婆若海水、しかしながら身上身下身中の出水なり。又非身上非身下非身中の出水なり。乃至出火もまたかくのごとし。ただ水火風等のみにあらず、身上出仏なり、身下出仏なり。身上出祖なり、身下出なり。身上出無量阿僧祇なり、身下出無量阿僧祇なり。身上出法界海なり、身上入法界海なるのみにあらず、さらに世界国土を吐却七八箇し、呑却両三箇せんことも、またかくのごとし。

いま四大五大六大諸大無量大、おなじく出なり没なる神通なり。呑なり吐なる神通なり。いまの大地虚空の面々なる、呑却なり、吐却なり。芥に転ぜらるるを力量とせり、毛にかかれるを力量とせり。識知のおよばざるより同生して、識知のおよばざるを住持し、識知のおよばざるに実帰す。まことに短長にかかはれざる仏神通の変相、ひとへに測量を挙して擬するのみならんや。

むかし五通仙人、ほとけに事奉せしとき、仙人とふ、仏有六神通、我有五通、如何是那一通(仏に六神通あり、我れに五通あり、如何ならんか是れ那一通)。
ほとけ、時に仙人を召していふ、五通仙人。
仙人応諾す。
仏言、那一通、爾問我。

この因縁、よくよく参究すべし。仙人いかでか仏に有六神としる。仏有無量神通智慧なり、ただ六通のみにあらず。たとひ六通のみをみるといふとも、六通もきはむべきにあらず、いはんやその余の神通におきて、いかでかゆめにもみん。

しばらくとふ、仙人たとひ釈迦老子をみるといふとも、見仏すやいまだしや、といふべし。たとひ見仏すといふとも、釈迦老子をみるやいまだしや。たとひ釈迦老子をみることをえ、たとひ見仏すといふとも、五通仙人をみるやいまだしや、と問著すべきなり。この問処に用葛藤を学すべし、葛藤断を学すべし。いはんや仏有六通、しばらく隣珍を算数するにおよばざるか。

いま釈迦老子道の那一通、爾問我の心、いかん。仙人に那一通ありといはず、仙人になしといはず。那一通の神通塞はたとひとくとも、仙人いかでか那一通を通ぜん。いかんとなれば、仙人に五通あれど、仏有六通のなかの五通にあらず。

仙人通はたとひ仏通の所通に通破となるとも、仙通いかでか仏通を通ずることをえん。もし仙人、仏の一通をも通ずることあらば、この神通より仏を通ずべきなり。仙人をみるに仏通に相似せるあり、仏儀をみるに仙通に相似せることあるは、仏儀なりといへども、仏神通にあらずとしるべきなり。通ぜざれば、五通みな仏とおなじからざるなり。

たちまちに那一通をとふ、なにの用かある、となり。釈迦老子の心は、一通をもとふべし、となり。那一通をとひ、那一通をとふべし、一通も仙人はおよぶところなし、となり。しかあれば、仏迦通と余者通とは、迦通の名字おなじといへども、迦通の名字はるかに殊異なり。ここをもて、

臨済院慧照大師云、古人云、如来挙身相、為順世間情。恐人生断見、權且立虚名。假言三十二、八十也空声。有身非覚体、無相乃真形(臨済院慧照大師云く、古人云く、如来挙身の相は、世間の情に順ぜんが為なり。人の断見を生ぜんことを恐りて、權に且く虚名を立つ。假に三十二と言ふ、八十も也た空しき声なり。有身は覚体にあらず、無相は乃ち真形なり)。

儞道、仏有六神通、是不可思議。一切諸天、神仙、阿修羅、大力鬼、亦有神通、応是仏否。道流莫錯、祗如阿修羅与天帝釈戰、戰敗領八万四千眷属、入藕孔中蔵。莫是聖否。如山僧所挙、皆是業通依通(儞道ふべし、仏に六神通あるは、是れ不可思議なり。一切諸天、神仙、阿修羅、大力鬼も亦た神通あり、応に是れ仏なるべしや否や。道流、錯ること莫れ。ただ阿修羅と天帝釈と戰ふが如き、戰敗れて、八万四千の眷属を領じて、藕孔の中に入りて蔵る。是れ聖なること莫しや否や。山僧の挙する所の如きは、皆是れ業通なり、依通なり)。

夫如仏六通者不然。入色界不被色惑、入声界不被声惑、入香界不被香惑、入味界不被味惑、入触界不被触惑、入法界不被法惑。所以達六種色声香味触法、皆是空相、不能繋縛(けばく)。此無依道人、雖是五蘊漏質、便是地行神道(夫れ、仏の六通の如きは然らず。色界に入つて色に惑はされず、声界に入つて声に惑はされず、香界に入つて香に惑はされず、味界に入つて味に惑はされず、触界に入つて触に惑はされず、法界に入つて法に惑はされず。所以に六種の色声香味触法皆是れ空相なるに達すれば、繋縛(けばく)すること能はず。此れ無依の道人なり。是れ五蘊漏質なりと雖も、便ち是れ地行神道なり)。

道流、真仏無形、真法無相。儞祗麼幻化上頭作模作様、設求得者、皆是野狐精魅、竝不是真仏、是外道見解(道流、真仏は無形なり、真法は無相なり。儞祗麼に幻化上頭に模を作し様を作す。設ひ求得すとも、皆な是れ野狐精魅なり。竝びに是れ真仏にあらず、是れ外道の見解なり)。

しかあれば、諸仏の六神通は、一切諸天鬼神および二乗等のおよぶべきにあらず、はかるべきにあらざるなり。仏道の六通は、仏道の仏弟子のみ単伝せり、余人の相伝せざるところなり。仏六通は仏道に単伝す、単伝せざるは仏六通をしるべからざるなり。仏六通を単伝せざらんは、仏道人なるべからずと参学すべし。

百丈大智禅師云、眼耳鼻舌、各々不貪染一切有無諸法、是名受持四句偈、亦名四果。六入無迹、亦名六神通、祗如今但不被一切有無諸法礙、亦不依住知解、是名神通。不守此神通、是名無神通。如云無神通菩薩、蹤跡不可得尋、是仏向上人、最不可思議人、是自己天(百丈大智禅師云く、眼耳鼻舌、各々一切有無の諸法に貪染せず、是を受持四句偈と名づく、亦た四果と名づく。六入無迹なるを、亦た六神通と名づく。祗今但一切有無の諸法に礙へられず、亦た知解に依住せざるが如き、是を神通と名づく。此の神通を守らざる、是を無神通と名づく。云ふが如き無神通菩薩は、蹤跡尋ぬること得べからず、是れ仏向上人なり、最不可思議人なり、是れ自己天なり)。

いま仏々祖々相伝せる神通、かくのごとし。諸仏神通は仏向上人なり、最不可思議人なり、是自己天なり、無神通菩薩なり。知解不依住なり、神通不守此なり、一切諸法不被礙なり。いま仏道に六神通あり、諸仏の伝持しきたれることひさし。一仏も伝持せざるなし、伝持せざれば諸仏にあらず。

その六神通は、六入を無迹にあきらむるなり。無迹といふは、古人のいはく、六般神用空不空、一顆円光非内外。非内外は無迹なるべし。無迹に修行し、参学し、証入するに、六入を動著せざるなり。動著せずといふは、動著するもの三十棒分あるなり。

しかあればすなはち、六神通かくのごとく参究すべきなり。仏家の嫡嗣にあらざらん、たれかこのことわりあるべしともきかん。いたづらに向外の馳走を帰家の行履とあやまれるのみなり。

又、四果は、仏道の調度なりといへども、正伝せる三蔵なし。算沙のやから、跉跰(りょうび)のたぐひ、いかでかこの果実をうることあらん。得小為足の類、いまだ参究の達せるにあらず。ただまさに仏々相承せるのみなり。

いはゆる四果は、受持四句偈なり。受持四句偈といふは、一切有無諸法におきて、眼耳鼻舌各々不貪染なるなり。不貪染は不染汚なり。不染汚といふは、平常心なり、吾常於此切なり。

六通四果を仏道に正伝せる、かくのごとし。これと相違あらんは仏法にあらざらんとしるべきなり。しかあれば、仏道はかならず神通より達するなり。その達する、涓滴の巨海を呑吐する、微塵の高嶽を拈放する、たれか疑著することをえん。これすなはち神通なるのみなり。

正法眼蔵神通第三十五

爾時仁治二年辛丑十一月十六日在於観音導利興聖宝林寺示衆
寛元甲辰中春初一日書写之在於越州吉峰侍者寮 懐奘

※このページは学問的な正確性を追求するものではありません。より分かりやすくする為に漢字をひらがなに、旧字体を新字体に、( )にふりがなをつけるなど、原文に忠実ではありません。

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