【仏教用語/人物集 索引】

『正法眼蔵随聞記』68、某甲老母現在せり

投稿日:1235年6月11日 更新日:

また僧云く、某甲老母現在せり。我れは即ち一子なり。ひとえに某甲が扶持にて度世す。恩愛もことに深し。孝順の志も深し。是れに依っていささか世に順い人に随って、他の恩力をもて母の衣粮にあづかる。もし遁世籠居せば一日の活命も存じ難し。是れに依って世間に在り。一向仏道に入らざらん事も難治なり。もしなおただすてえて道に入るべき道理あらば、その旨何なるべきぞ。

示して云く、この事難治なり。他人の計らいにあらず。ただ我れ能く思惟して、誠に仏道に志あらば、何なる支度方便をも案じて、母儀の安堵活命をも支度して仏道に入らば、両方倶によき事なり。強き敵、深き色、重き宝なれども、切に思う心ふかければ、必ず方便も出来るようもあるべし。是れ天地善神の冥加もあって必ず成るなり。

曹溪の六祖は新州の樵人、薪を売って母を養いき。一日市にして客の金剛経を誦ずるを聞いて発心し、母を辞して黄梅に参ず。銀三十両を得て母儀の衣粮にあてたりと見えたり。是れも切に思いける故に天の与えたりけるかと覚ゆ。能々思惟すべし。是れ一の道理なり。

母儀の一期を待って、その後障碍なく仏道に入らば、次第本意の如くして神妙なり。知らず、老少は不定なれば、もし老母は久しく止まって我れは前に去る事も出来らん時は、支度相違せば、我れは仏道に入らざる事をくやみ、老母は許さざる罪に沈みて、両人共に益なくして互いに罪を得ん時如何。

もし今生を捨て仏道に入ったらば、老母たとひ餓死すとも、一子を放して道に入れしむる功徳、豈得道の良縁にあらざらんや。我れも広多生にも捨て難き恩愛を、今生人身を受けて仏教に遇える時捨てたらば、真実報恩者の道理、何ぞ仏意に叶わざらんや。一子出家すれば七世の父母得道すと見えたり。何ぞ一世の浮生の身を思って永安楽の因を空しく過ごさんやと云う道理もあり。是れを能々自らはからうべし。

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『正法眼蔵随聞記』

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