【仏教用語/人物集 索引】

「正法眼蔵」八大人覚(はちだいにんがく)

投稿日:1253年1月6日 更新日:

諸仏是大人也、大人之所覚知、所以称八大人覚也。覚知此法、為涅槃因(諸仏は是れ大人也。大人の覚知する所、所以に八大人覚と称ず。此の法を覚知するを、涅槃の因と為)。

我本師釈迦牟尼仏、入般涅槃夜、最後之所説也(我が本師釈迦牟尼仏、入般涅槃したまひし夜の、最後の所説也)。

一者少欲。於彼未得五欲法中、不広追求、名為少欲(一つには少欲。彼の未得の五欲の法の中に於て、広く追求せざるを、名づけて少欲と為す)。

仏言、汝等比丘、当知、多欲之人、多求利故、苦悩亦多。少欲之人、無求無欲、則無此患。直爾少欲尚応修習、何況少欲能生諸功徳。少欲之人、則無諂曲以求人意、亦復不為諸根所牽。行少欲者、心則坦然、無所憂畏、触事有余、常無不足。有少欲者、則有涅槃、是名少欲

(仏言はく、汝等比丘、当に知るべし、多欲の人は、多く利を求むるが故に苦悩も亦た多し。少欲の人は、求むること無く欲無ければ則ち此の患ひ無し。直爾の少欲なるすら尚ほ応に修習すべし、何に況んや少欲の能く諸の功徳を生ずるをや。少欲の人は、則ち諂曲して以て人の意を求むること無く、亦復諸根に牽かれず。少欲を行ずる者は、心則ち坦然として、憂畏する所無し、事に触れて余あり、常に足らざること無し。少欲有る者は則ち涅槃有り。是れを少欲と名づく)。

二者知足。已得法中、受取以限、称曰知足(二つには知足。已得の法の中に、受取するに限りを以てするを、称じて知足と曰ふ)。

仏言、汝等比丘、若欲脱諸苦悩、当観知足。知足之法、是富楽安穏之処。知足之人、雖臥地上猶為安楽。不知足者、雖処天堂亦不称意。不知足者、雖富而貧。知足之人、雖貧而富。不知足者、常為五欲所牽、為知足者之所憐愍。是名知足

(仏言はく、汝等比丘、若し諸の苦悩を脱れんと欲はば、当に知足を観ずべし。知足の法は、即ち是れ富楽安穏の処なり。知足の人は、地上に臥すと雖も猶ほ安楽なりと為す。不知足の者は、天堂に処すと雖も亦た意に称はず。不知足の者は、富めりと雖も而も貧し。知足の人は、貧しと雖も而も富めり。不知足の者は、常に五欲に牽かれて、知足の者に憐愍せらる。是れを知足と名づく)。

三者楽寂静。離諸憒鬧、独処空閑、名楽寂静(三つには楽寂静。諸の憒鬧を離れ、空閑に独処するを、楽寂静と名づく)。

仏言、汝等比丘、欲求寂静無為安楽、当離憒鬧独処閑居。静処之人、帝釈諸天、所共敬重。是故当捨己衆他衆、空閑独処、思滅苦本。若楽衆者、則受衆悩。譬如大樹衆鳥集之、則有枯折之患。世間縛著没於衆苦、辟如老象溺泥、不能自出。是名遠離

(仏言はく、汝等比丘、寂静無為の安楽を求めんと欲はば、当に憒鬧を離れて独り閑居に処すべし。静処の人は、帝釈諸天、共に敬重する所なり。是の故に当に己衆他衆を捨して、空閑に独処し、苦本を滅せんことを思ふべし。若し衆を楽はん者は、則ち衆悩を受く。譬へば、大樹の、衆鳥之に集まれば、則ち枯折の患有るが如し。世間の縛著は衆苦に没す、辟へば老象の泥に溺れて、自ら出ること能はざるが如し。是れを遠離と名づく)。

四者懃精進。於諸善法、懃修無間、故云精進。精而不雑、進而不退(四つには懃精進。諸の善法に於て、懃修すること無間なり、故に精進と云ふ。精にして雑ならず、進んで退かず)。

仏言、汝等比丘、若勤精進、則事無難者。是故汝等当勤精進。辟如小水常流、則能穿石。若行者之心数数懈廃、譬如鑽火未熱而息、雖欲得火、火難可得。是名精進

(仏言はく、汝等比丘、若し勤精進すれば、則ち事として難き者無し。是の故に汝等当に勤精進すべし。辟へば小水の常に流るれば、則ち能く石を穿つが如し。若し行者の心数数懈廃せんには、譬へば火を鑽るに未だ熱からざるに而も息めば、火を得んと欲ふと雖も、火を得べきこと難きが如し。是れを精進と名づく)。

五者不忘念。亦名守正念。守法不失、名為正念。亦名不忘念(五つには不忘念。亦た守正念と名づく。法を守つて失せざるを、名づけて正念と為。亦た不忘念と名づく)。

仏言、汝等比丘、求善知識、求善護助、無如不忘念。若有不忘念者、諸煩悩賊則不能入。是故汝等、常当摂念在心。若失念者則失諸功徳。若念力堅強、雖入五欲賊中、不為所害。譬如著鎧入陣、則無所畏。是名不忘念

(仏言はく、汝等比丘、善知識を求め、善護助を求むるは、不忘念に如くは無し。若し不忘念有る者は、諸の煩悩の賊則ち入ること能はず。是の故に汝等、常に念を摂めて心に在らしむべし。若し念を失せば則ち諸の功徳を失す。若し念力堅強なれば、五欲の賊の中に入ると雖も為に害せられず。譬へば鎧を著て陣に入れば、則ち畏るる所無きが如し。是れを不忘念と名づく)。

六者修禅定。住法不乱、名曰禅定(六つには修禅定。法に住して乱れず、名づけて禅定と曰ふ)。

仏言、汝等比丘、若摂心者、心則在定。心在定故、能知世間生滅法相。是故汝等、常当精勤修習諸定。若得定者、心則不散。譬如惜水之家、善治堤塘。行者亦爾、為智恵水故、善修禅定、令不漏失。是名為定

(仏言はく、汝等比丘、若し心を摂むれば、心則ち定に在り。心、定に在るが故に、能く世間生滅の法相を知る。是の故に汝等、常に当に精勤して諸の定を修習すべし。若し定を得ば、心則ち散ぜず。譬へば水を惜しむ家の、善く堤塘を治むるが如し。行者も亦た爾り、智恵の水の為の故に、善く禅定を修して漏失せざらしむ。是れを名づけて定と為す)。

七者修智恵。起聞思修証為智恵(七つには修智恵。聞思修証を起こすを智恵と為す)。

仏言、汝等比丘、若有智恵則無貪著、常自省察不令有失。是則於我法中能得解脱。若不爾者、即非道人、又非白衣、無所名也。実智恵者則是度老病死海堅牢船也、亦是無明黒暗大明燈也、一切病者之良薬也、伐煩悩樹之利斧也。是故汝等当以聞思修慧、而自増益。若人有智恵之照、雖是肉眼、而是明眼人也。是為智恵

(仏言はく、汝等比丘、若し智恵有れば則ち貪著無し、常に自ら省察して失有らしめず。是れ則ち我が法の中に於て能く解脱を得。若し爾らずは、即に道人に非ず、又白衣に非ず、名づくる所なし。実智恵は則ち是れ老病死海を度る堅牢の船なり、亦た是れ無明黒暗の大明燈なり、一切病者の良薬なり、煩悩の樹を伐る利斧なり。是の故に汝等当に聞思修慧を以て而も自ら増益すべし。若し人智恵の照あらば、是れ肉眼なりと雖も、而も是れ明眼の人なり。是れを智恵と為す)。

八者不戲論。証離分別、名不戲論。究尽実相、乃不戲論(八つには不戲論。証して分別を離るるを、不戲論と名づく。実相を究尽す、乃ち不戲論なり)。

仏言、汝等比丘、若種々戲論、其心則乱。雖復出家猶未得脱。是故比丘、当急捨離乱心戲論。汝等若欲得寂滅楽者、唯当善滅戲論之患。是名不戲論

(仏言はく、汝等比丘、若し種々の戲論あらば、其の心則ち乱る。復た出家すと雖も猶ほ未だ得脱せず。是の故に比丘、当に急ぎて乱心と戲論とを捨離すべし。汝等若し寂滅の楽を得んと欲はば、唯当に善く戲論の患を滅すべし。是れを不戲論と名づく)。

これ八大人覚なり。一々各具八、すなはち六十四あるべし。ひろくするときは無量なるべし、略すれば六十四なり。

大師釈尊、最後之説、大乗之所教誨。二月十五日夜半の極唱、これよりのち、さらに説法しましまさず、つひに般涅槃しまします。

仏言、汝等比丘、常当一心勤求出道。一切世間動不動法、皆是敗壊不安之相。汝等且止、勿得復語。時将欲過、我欲滅度、是我最後之所教誨

(仏言はく、汝等比丘、常に当に一心に勤めて出道を求むべし。一切世間の動不動の法は、皆な是れ敗壊不安の相なり。汝等且く止みね、復た語ふこと得ること勿れ。時将に過ぎなんとす、我れ滅度せんとす。是れ我が最後の教誨する所なり)。

このゆゑに、如来の弟子は、かならずこれを習学したてまつる。これを修習せず、しらざらんは仏弟子にあらず。これ如来の正法眼蔵涅槃妙心なり。しかあるに、いましらざるものはおほく、見聞せることあるものはすくなきは、魔嬈によりてしらざるなり。また宿殖善根すくなきもの、きかず、みず。

むかし正法、像法のあひだは、仏弟子みなこれをしれり、修習し参学しき。いまは千比丘のなかに、一両この八大人覚しれる者なし。あはれむべし、澆季の陵夷、たとふるにものなし。如来の正法、いま大千に流布して、白法いまだ滅せざらんとき、いそぎ習学すべきなり、緩怠なることなかれ。

仏法にあふたてまつること、無量にかたし。人身をうること、またかたし。たとひ人身をうくといへども、三洲の人身よし。そのなかに、南洲の人身すぐれたり。見仏聞法、出家得道するゆゑなり。如来の般涅槃よりさきに涅槃にいり、さきだちて死せるともがらは、この八大人覚をきかず、ならはず。いま我ら見聞したてまつり、習学したてまつる、宿殖善根のちからなり。いま習学して生々に増長し、かならず無上菩提にいたり、衆生のためにこれをとかんこと、釈迦牟尼仏に等しくしてことなることなからん。

正法眼蔵八大人覚第十二

本云建長五年正月六日書于永平寺

如今建長七年乙卯解制之前日、令義演書記書写畢。同一校之(如今建長七年乙卯解制の前日、義演書記をして書写せしめ畢んぬ。同じく之を一校せり)。

右本、先師最後御病中之御草也。仰以前所撰假名正法眼蔵等、皆書改、并新草具都盧壹百巻、可撰之云云

(右の本は、先師最後の御病中の御草なり。仰せには以前所撰の假名正法眼蔵等、皆な書き改め、并びに新草具に都盧壹百巻、之を撰ずべしと云云)。

既始草之御此巻、当第十二也。此之後、御病漸漸重増。仍御草案等事即止也。所以此御草等、先師最後教勅也。我等不幸不拝見一百巻之御草、尤所恨也。若奉恋慕先師之人、必書此十二巻、而可護持之。此釈尊最後之教勅、且先師最後之遺教也

(既に始草の御此の巻は、第十二に当れり。此の後、御病漸漸重増したまふ。仍つて御草案等の事も即ち止みぬ。所以に此の御草等は、先師最後の教勅なり。我等不幸にして一百巻の御草を拝見せず、尤も恨むる所なり。若と先師を恋慕し奉らん人は、必ず此の十二巻を書して、之を護持すべし。此れ釈尊最後の教勅にして、且つ先師最後の遺教也)。

※このページは学問的な正確性を追求するものではありません。より分かりやすくする為に漢字をひらがなに、旧字体を新字体に、( )にふりがなをつけるなど、原文に忠実ではありません。

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