【仏教用語/人物集 索引】

「正法眼蔵」洗浄(せんじょう)

投稿日:1239年10月23日 更新日:

仏祖の護持しきたれる修証あり、いはゆる不染汚なり。
南嶽山観音院大慧禅師、因六祖問、還假修証不(また修証を假るや不や)。
大慧云、修証不無、染汚即不得(修証は無きにあらず、染汚することは即ち不得なり)。
六祖云、只是不染汚、諸仏之所護念。汝亦如是吾亦如是、乃至西天祖師亦如是云々(只是の不染汚、諸仏の所護念なり。汝もまた如是、吾もまた如是、乃至西天の祖師もまた如是なり云々)。

大比丘三千威儀経云、浄身者、洗大小便、剪十指爪(浄身とは、大小便を洗ひ、十指の爪を剪るなり)。

しかあれば、身心これ不染汚なれども、浄身の法あり、心あり。ただ身心をきよむるのみにあらず、国土樹下をもきよむるなり。国土いまだかつて塵穢あらざれども、きよむるは諸仏之所護念なり。仏果にいたりてなほ退せず、廃せざるなり。その宗旨、はかりつくすべきことかたし。作法これ宗旨なり、得道これ作法なり。

華厳経浄行品云、
左右便利、当願衆生、蠲除穢汚、無婬怒癡(便利を左右せんには当に願ふべし、衆生、穢汚を蠲除きて婬怒癡無からんことを)。
已而就水、当願衆生、向無上道、得出世法(已に水に就かんには当に願ふべし、衆生、無上道に向ひて出世の法を得んことを)。
以水滌穢、当願衆生、具足浄忍、畢竟無垢(水を以て穢を滌がんには当に願ふべし、衆生、浄忍を具足して畢竟垢無からんことを)。

水かならずしも本浄にあらず、本不浄にあらず。身かならずしも本浄にあらず、本不浄にあらず。諸法またかくのごとし。水いまだ情非情にあらず、身いまだ情非情にあらず、諸法またかくのごとし。仏世尊の説、それかくのごとし。

しかあれども、水をもて身をきよむるにあらず。仏法によりて仏法を保任するにこの儀あり。これを洗浄と称ず。仏祖の一身心をしたしくして正伝するなり。仏祖の一句子をちかく見聞するなり。仏祖の一光明をあきらかに住持するなり。おほよそ無量無辺の功徳を現成せしむるなり。身心に修行を威儀せしむる正当恁麼時、すなはち久遠の本行を具足円成せり。このゆゑに、修行の身心本現するなり。

十指の爪をきるべし。十指といふは、左右の両手の指のつめなり。足指の爪、おなじくきるべし。

経にいはく、つめのながさもし一麥ばかりになれば罪をうるなり。
しかあれば、爪をながくすべからず。爪のながきは、おのづから外道の先蹤なり。ことさらつめをきるべし。

しかあるに、いま大宋国の僧家のなかに、参学眼そなはらざるともがら、おほく爪をながからしむ。あるいは一寸両寸、および三四寸にながきもあり。これ非法なり。仏法の身心にあらず。仏家の稽古あらざるによりてかくのごとし。有道の尊宿はしかあらざるなり。あるいは長髪ならしむるともがらあり、これも非法なり。大国の僧家の所作なりとして、正法ならんとあやまることなかれ。

先師古仏、ふかくいましめの言葉を、天下の僧家の長髪長爪のともがらにたまふにいはく、不会浄髪、不是俗人、不是僧家、便是畜生。古来仏祖、誰是不浄髪者。如今不会浄髪箇、真箇是畜生(浄髪を会せざらんは、是れ俗人にあらず、是れ僧家にあらず、便是畜生なり。古来の仏祖、誰か是れ浄髪せざる者ならんや。如今浄髪箇を会せざらんは、真箇是畜生なり)。

かくのごとく示衆するに、年来不剃頭のともがら、剃頭せるおほし。

あるいは上堂、あるいは普説のとき、弾指かまびすしくして責呵す。いかなる道理と知らず。胡乱に長髪長爪なる、あはれむべし、南閻浮の身心をして非道におけること。近来二三百年、祖師道廃せるゆゑにしかのごとくのともがらおほし。

かくのごとくのやから、寺院の主人となり、師号に署して為衆の相をなす、人天の無福なり。いま天下の諸山に、道心箇渾無なり、得道箇久絶なり、祇管破落儻のみなり。

かくのごとく普説するに、諸方に長老の名をみだりにせるともがら、うらみず、陳説なし。しるべし、長髪は仏祖のいましむるところ、長爪は外道の所行なり。仏祖の児孫、これらの非法をこのむべからず。身心をきよらしむべし、剪爪剃髪すべきなり。

洗大小便おこたらしむることなかれ。舎利弗この法をもて外道を降伏せしむることありき。外道の本期にあらず、身子が素懐にあらざれども、仏祖の威儀現成するところに、邪法おのづから隠れるるなり。

樹下露地に修習するときは起屋なし、便宜の溪谷河水等によりて、分土洗浄するなり。これは灰なし、ただ二七丸の土をもちゐる。二七丸をもちゐる法は、まづ法衣をぬぎてたたみおきてのち、くろからず、黄色なる土をとりて、一丸のおほきさ、大なる大豆許に分して、いしのうへ、あるいは便宜のところに、七丸をひとならべにおきて、二七丸をふたへにならべおく。

そののち、磨石にもちゐるべき石をまうく。そののち屙す。屙後使籌、あるいは使紙。そののち水辺にいたりて洗浄する、まづ三丸の土をたづさへて洗浄す。一丸土を掌にとりて、水すこしばかりをいれて、水に合してときて、泥よりもうすく、漿ばかりになして、まづ小便を洗浄す。つぎに一丸の土をもてさきのごとくして大便処を洗浄す。つぎに一丸の土をさきのごとくして略して触手をあらふ。

寺舎に居してよりこのかたは、その屋を起立せり。これを東司と称ず。ふるきには圊といひ、廁といふときもありき。僧家の所住にかならずあるべき屋舎なり。

東司にいたる法は、かならず手巾をもつ。その法は、手巾をふたへにをりて、ひだりのひぢのうへにあたりて、衫袖のうへにかくるなり。すでに東司にいたりては、浄竿に手巾をかくべし。かくる法は、臂にかけたりつるがごとし。もし九条七条等の袈裟を著してきたれらば、手巾にならべてかくべし。おちざらんやうに打併すべし。倉卒になげかくることなかれ。

よくよく記号すべし。記号といふは、浄竿に字をかけり。白紙にかきて月輪のごとく円にして、浄竿につけ列せり。しかあるを、いづれの字に我が直はおけりとわすれず、みだらざるを記号といふなり。衆家おほくきたらんに、自他の竿位を乱すべからず。

このあひだ、衆家きたりてたちつらなれば、叉手して揖すべし。揖するに、かならずしもあひむかひて曲躬せず。ただ叉手をむねのまへにあてて気色ある揖なり。東司にては、直裰を著せざるにも、衆家と揖し気色するなり。

もし両手ともにいまだ触せず、両手ともにものをひさげざるには、両手を叉して揖すべし。もしすでに一手を触せしめ、一手にものを提せらんときは、一手にて揖すべし。一手にて揖するには、手をあふげて、指頭すこしきかがめて、水を掬せんとするがごとくしてもちて、頭をいささか低頭せんとするがごとく揖するなり。他、かくのごとくせば、おのれかくのごとくすべし。おのれかくのごとくせば、他またしかあるべし。

褊衫および直裰を脱して、手巾のかたはらにかくる法は、直裰をぬぎとりて、ふたつのそでをうしろへあはせて、ふたつのわきのしたをとりあはせてひきあぐれば、ふたつのそでかさなれる。このときは、左手にては直裰のうなぢのうらのもとをとり、右手にてはわきをひきあぐれば、ふたつのたもとと左右の両襟と、かさなるなり。

両袖と両襟とをかさねて、又たてざまになかよりをりて、直裰のうなぢを浄竿の那辺へなげこす。直裰の裙ならびに袖口等は、竿の遮辺にかかれり。たとへば、直裰の合腰、浄竿にかくるなり。つぎに竿にかけたりつる手巾の遮那両端をひきちがへて、直裰よりひきこして、手巾のかからざりつるかたにて又ちがへてむすびとどむ。両三匝もちがへちがへしてむすびて、直裰を浄竿より落地せしめざらんとなり。あるいは直裰にむかひて合掌す。

つぎに絆子をとりて両臂にかく。つぎに浄架にいたりて、浄桶に水を盛て、右手に提して浄廁にのぼる。浄桶に水をいるる法は、十分にみつることなかれ、九分を度とす。廁門のまへにして換鞋すべし。蒲鞋をはきて、自鞋を廁門の前に脱するなり。これを換鞋といふ。

禅苑清規云、欲上東司、応須預往。勿致臨時内逼倉卒。乃畳袈裟、安寮中案上、或浄竿上(東司に上らんと欲はば、須らく預め往くべし。臨時にして内に逼めて倉卒に致すこと勿れ。乃ち袈裟を畳みて寮中の案上あるいは浄竿の上に安ずべし)。

廁内にいたりて、左手にて門扉を掩す。つぎに浄桶の水すこしばかり槽裏に瀉す。つぎに浄桶を当面の浄桶位に安ず。つぎにたちながら槽にむかひて弾指三下すべし。弾指のとき、左手は拳にして、左腰につけてもつなり。[禅苑清規、三千威儀経文事、入べし]

つぎに袴口衣角ををさめて、門にむかひて両足に槽唇の両辺をふみて、蹲居し、屙す。両辺をけがすことなかれ、前後にそましむることなかれ。このあひだ默然なるべし。隔壁と語笑し、声をあげて吟詠することなかれ。涕唾狼藉なることなかれ、怒気卒暴なることなかれ。壁面に字をかくべからず、廁籌をもて地面を劃すことなかれ。

屙屎退後、すべからく使籌すべし。又かみをもちゐる法あり。故紙をもちゐるべからず。字をかきたらん紙、もちゐるべからず。浄籌触籌わきまふべし。籌はながさ八寸につくりて三角なり。ふとさは手拇指大なり。漆にてぬれるもあり、未漆なるもあり。触は籌斗になげおき、浄はもとより籌架にあり。籌架は槽のまへの版頭のほとりにおけり。

使籌、使紙ののち、洗浄する法は、右手に浄桶をもちて、左手をよくよくぬらしてのち、左手を掬につくりて水をうけて、まづ小便を洗浄す、三度。つぎに大便をあらふ。洗浄如法にして浄潔ならしむべし。このあひだ、あらく浄桶をかたぶけて、水をして手のほかにあましおとし、あましちらして、水をはやくうしなふことなかれ。

洗浄しおわりて、浄桶を安桶のところにおきて、つぎに籌をとりてのごひかはかす。あるいは紙をもちゐるべし。大小両処、よくよくのごひかはかすべし。つぎに右手にて袴口衣角をひきつくろいて、右手に浄桶を提して廁門をいづるちなみに、蒲鞋をぬぎて自鞋をはく。つぎに浄架にかへりて、浄桶を本所に安ず。

つぎに洗手すべし。右手に灰匙をとりて、まづすくひて、瓦石のおもてにおきて、右手をもて滴水を点じて触手をあらふ。瓦石にあててとぎあらふなり。たとへば、さびあるかたなをとにあててとぐがごとし。

かくのごとく、灰にて三度あらふべし。つぎに土をおきて、水を点じてあらふこと三度すべし。つぎに右手に皀莢をとりて、小桶の水にさしひたして、両手あはせてもみあらふ。腕にいたらんとするまでも、よくよくあらふなり。誠心に住して慇懃にあらふべし。灰三、土三、皀莢一なり。あはせて一七度を度とせり。つぎに大桶にてあらふ。このときは面薬土灰等をもちゐず、ただ水にてもゆにてもあらふなり。一番あらひて、その水を小桶にうつして、さらにあたらしき水をいれて両手をあらふ。

華厳経に云く、以水盥掌、当願衆生、得上妙手、受持仏法(水を以て掌を盥ふには当に願ふべし、衆生、上妙の手を得て仏法を受持せんことを)。

水杓をとらんことは、かならず右手にてすべし。このあひだ、桶杓おとをなし、かまびすしくすることなかれ。水をちらし、皀莢をちらし、水架の辺をぬらし、おほよそ倉卒なることなかれ。狼藉なることなかれ。つぎに公界の手巾に手をのごふ。

あるいはみづからが手巾にのごふ。手をのごひをはりて、浄竿のした、直裰のまへにいたりて、絆子を脱して竿にかく。つぎに合掌してのち、手巾をとき、直裰をとりて著す。つぎに手巾を左臂にかけて塗香す。公界に塗香あり、香木を宝瓶形につくれり。その大は拇指大なり。ながさ四指量につくれり。纖索の尺余なるをもちて、香の両端に穿貫せり。これを浄竿にかけおけり。これを両掌をあはせてもみあはすれば、その香気おのづから両手に蝉ず。

絆子を竿にかくるとき、おなじうへにかけかさねて、絆と絆とみだらしめ、乱縷せしむることなかれ。かくのごとくする、みなこれ浄仏国土なり、莊厳仏国なり。審細にすべし、倉卒にすべからず。いそぎをはりてかへりなばやと、おもひいとなむことなかれ。ひそかに東司上不説仏法の道理を思量すべし。

衆家のきたりゐる面をしきりにまぼることなかれ。廁中の洗浄には冷水をよろしとす、熱湯は腸風をひきおこすといふ。洗手には温湯をもちゐる、さまたげなし。釜一隻をおくことは、焼湯洗手のためなり。

清規云、晩後焼湯上油、常令湯水相続、無使大衆動念(晩後には焼湯し上油して、常に湯水を相続せしめ、大衆を動念せしむること無かれ)。

しかあればしりぬ、湯水ともにもちゐるなり。もし廁中の触せることあらば、門扉を掩して触牌をかくべし。もしあやまりて落桶あらば、門扉を掩して落桶牌をかくべし。これらの牌か彼らん局には、のぼることなかれ。もしさきより廁上にのぼれらんに、ほかに人ありて弾指せば、しばらくいづべし。

清規云、若不洗浄、不得坐僧床及礼三宝。亦不得受人礼拝(若し洗浄せずは、僧床に坐し及び三宝を礼すること得ざれ。また人の礼拝を受くること得ざれ)。

三千威儀経云、若不洗大小便、得突吉羅罪。亦不得僧浄坐具上坐、及礼三宝。設礼無福徳(若し大小便を洗はざれば、突吉羅罪を得。また僧の浄坐具上に坐し、及び三宝を礼すること得ざれ。設礼するとも福徳無からん)。

しかあればすなはち、弁道功夫の道場、この儀をさきにすべし。あに三宝を礼せざらんや、あに人の礼拝をうけざらんや、あに人を礼せざらんや。仏祖の道場かならずこの威儀あり。仏祖道場中人、かならずこの威儀具足あり。

これ自己の強為にあらず、威儀の云為なり。諸仏の常儀なり、諸祖の家常なり。ただ此界の諸仏のみにあらず、十方の仏儀なり、浄土穢土の仏儀なり。少聞のともがらおもはくは、諸仏には廁屋の威儀あらず、娑婆世界の諸仏の威儀は浄土の諸仏のごとくにあらずとおもふ。これは学仏道にあらず。しるべし、浄穢は離人の滴血なり。あるときはあたたかなり、あるときはすさまじ。諸仏に廁屋ありしるべし。

十誦律第十四云、羅睺羅沙弥、宿仏廁。仏覚了、仏以右手摩羅睺羅頂、説是偈言(羅睺羅沙弥のとき、仏の廁に宿す。仏覚し了りて仏右手を以て羅睺羅の頂を摩でて、是の偈を説いて言く)、
汝不為貧窮、
亦不失富貴。
但為求道故、
出家応忍苦。
(汝貧窮の為にあらず、また富貴を失せるにあらず。但だ求道の為の故なり、出家は応に苦を忍ぶべし。)

しかあればすなはち、仏道場に廁屋あり、仏廁屋裏の威儀は洗浄なり。祖々相伝しきたれり。仏儀のなほのこれる、慕古の慶快なり、あひ難きにあへるなり。いはんや如来かたじけなく廁屋裏にして羅睺羅のために説法しまします。廁屋は仏転法輪の一会なり。この道場の進止、これ仏祖正伝せり。

摩訶僧祇律第三十四云、廁屋不得在東在北、応在南在西。小行亦如是(廁屋は東に在り北に在ること得ざれ。南に在り西に在るべし。小行もまた是の如し)。

この方宜によるべし。これ西天竺国の諸精舎の図なり。如来現在の建立なり。しるべし、一仏の仏儀のみにあらず、七仏の道場なり、精舎なり。諸仏の道場なり、精舎なり。はじめたるにあらず、諸仏の威儀なり。これらをあきらめざらんよりさきは、寺院を草創し、仏法を修行せん、あやまりはおほく、仏威儀そなはらず、仏菩提いまだ現前せざらん。もし道場を建立し、寺院を草創せんには、仏祖正伝の法儀によるべし。これ正嫡正伝の法儀によるべし、これ正嫡正伝なるがゆゑに、その功徳あつめかさなれり。仏祖正伝の嫡嗣にあらざれば仏法の身心いまだ知らず、仏法の身心しらざれば仏家の仏業あきらめざるなり。いま大師釈迦牟尼仏の仏法あまねく十方につたはれるといふは、仏身心の現成なり。仏身心現成の正当恁麼時、かくのごとし。

正法眼蔵第五十四

爾時延応元年己亥冬十月二十三日在雍州宇治県観音導利院興聖宝林寺示衆

※このページは学問的な正確性を追求するものではありません。より分かりやすくする為に漢字をひらがなに、旧字体を新字体に、( )にふりがなをつけるなど、原文に忠実ではありません。

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