【仏教用語/人物集 索引】

ブッダ最後の旅【 第2章 】6、ナーディカ村にて

投稿日:1999年2月15日 更新日:

【 第2章 】

6、ナーディカ村にて

5 さて、尊師はコーティ村に心ゆくまでとどまって、それから若き人アーナンダに告げた。
「さあ、アーナンダよ。ナーディカ族のいるところに行こう」と。
「かしこまりました」と、若き人アーナンダ尊師に答えた。
そこで尊師は多くの修行僧の群れと共に、ナーディカ族のいるところに赴いた。そのナーディカでは、尊師はレンガ堂の内にとどまった。


(2004年 管理人撮影/インドの農村)

6 そこで若き人アーナンダ尊師のいますところに近づいた。近づいてから尊師に挨拶して、一方に座した。一方に座した若き人アーナンダ尊師にこのことを告げた。

「尊い方よ。サールハという名の修行僧がナーディカで亡くなりました。彼の行きつくところは何でしょうか?彼はどこに赴いたのでしょうか?尊い方よ。ナンダーという名の尼僧が亡くなりました。かの女性の行きつくところは何でしょうか?かの女性はどこに赴いたのでしょうか?尊い方よ。スダッタという名の在俗信者がナーディカで亡くなりました。彼の行きつくところは何でしょうか?彼はどこに赴いたのでしょうか?尊い方よ。スジャータという名の在俗信女がナーディカで亡くなりました。かの女性の行きつくところは何でしょうか?かの女性はどこに赴いたのでしょうか?尊い方よ。カクダという名の在俗信者がナーディカで亡くなりました。彼の行きつくところは何でしょうか?彼はどこに赴いたのでしょうか?尊い方よ。カーリンガという名の在俗信者が・・・、ニカタという名の在俗信者が・・・、カティッサバという名の在俗信者が・・・、トゥッタという名の在俗信者が・・・、サントゥッタという名の在俗信者が・・・、バッダという名の在俗信者が・・・、バッダという名の在俗信者が・・・、スバッダという名の在俗信者がナーディカで亡くなりました。彼の行きつくところは何でしょうか?彼はどこに赴いたのでしょうか?」

7 「アーナンダよ。修行僧サールハは諸々の汚れが消滅したが故に、すでに現世において汚れの無い心の解脱、智慧による解脱をみずから知り、体得し、具現していました。アーナンダよ。尼僧ナンダーは、人を下界(欲界)に結びつける五つの束縛を滅ぼし尽くしたので、ひとりでに生まれて、そこでニルヴァーナに入り、その世界からもはやこの世界に還って来ることが無い。アーナンダよ。在俗信者であるスダッタは、三つの束縛を滅ぼし尽くしたから、欲情と怒りと迷いとが暫次に薄弱となるが故に、一度だけ帰る人であり、一度だけこの欲界の生存に還って来て、苦しみを滅ぼし尽くすであろう。

アーナンダよ。スジャータという在俗信女は、三つの束縛を滅ぼし尽くしたから、聖者の流れに踏み入った人であり、悪いところに墜することの無い決まりであって、必ず悟りを達成するはずである。アーナンダよ。カクダという在俗信者は、人を下界(欲界)に結びつける五つの束縛を滅ぼし尽くしたので、ひとりでに生まれて、そこでニルヴァーナに入り、その世界からもはやこの世界に還って来ることが無い。アーナンダよ。カーリンガという名の在俗信者は・・・、ニカタという名の在俗信者は・・・、カティッサバという在俗信者は・・・、トゥッタという在俗信者は・・・、サントゥッタという在俗信者は・・・、バッダという在俗信者は・・・、スバッダという在俗信者は・・・、人を下界(欲界)に結びつける五つの束縛を滅ぼし尽くしたので、かしこに生まれて、そこでニルヴァーナに入り、その世界からもはやこの世界に還って来ることが無い。

さらに、アーナンダよ。ナーディカで死んだ五十人以上の在俗信者たちは、人を下界(欲界)に結びつける五つの束縛を滅ぼし尽くしたので、ひとりでに生まれて、そこでニルヴァーナに入り、その世界からもはやこの世界に還って来ることが無い。アーナンダよ。ナーディカで死んだ九十人以上の在俗信者たちは、三つの束縛を滅ぼし尽くしたから、欲情と怒りと迷いとが暫次に薄弱となるが故に、一度だけ帰る人であり、一度だけこの世に還って来て、苦しみを滅ぼし尽くすであろう。アーナンダよ。ナーディカで亡くなった五百人以上の在俗信者たちは、三つの束縛を滅ぼし尽くしたから、聖者の流れに踏み入った人であり、悪いところに墜することの無い決まりであって、必ず悟りを達成するはずである。」

8 さて、アーナンダよ。人間たるものが死ぬというのは、不思議なことではない。しかし、もしもそれぞれの人が死んだ時に、修行完成者に近づいて、この意義をたずねるとしたら、これは修行完成者にとって煩わしいことである。アーナンダよ。それ故に、わたしはここに法の鏡という名の法門を説こう。それを具現したならば、立派な弟子は、もしも望むならば、みずから自分の運命をはっきりと見極めることが出来るであろう。

わたしくしには地獄は消滅した。畜生の有様も消滅した。餓鬼の境涯も消滅した。悪いところ・苦しいところに堕することもない。わたしは聖者の流れに踏み入った者である。わたしはもはや堕することの無い者である。わたしは必ず悟りを究める者である。と。

9 アーナンダよ。その法の鏡という名の法門とは何であるか?
それを具現したならば、立派な弟子は、もしも望むならば、みずから自分の運命をはっきりと見極めることが出来るであろう。

わたしくしには地獄は消滅した。畜生の有様も消滅した。餓鬼の境涯も消滅した。悪いところ・苦しいところに堕することもない。わたしは聖者の流れに踏み入った者である。わたしはもはや堕することの無い者である。わたしは必ず悟りを究める者である。と。

アーナンダよ。ここに、立派な弟子がいて、ブッダに対して清らかな信仰を起こしている。

かの尊師は、このように、真人・正しく悟りを開いた人・明知と実行とを完成している人・幸いな人・世間を知っている人・無上の人・頑なな男を統御する御者・神々と人間との師・ブッダ(覚った人)、尊師である、と。

また、彼は法に対して清らかな信仰を起こしている。

尊師が見事に説かれた法は、現にありありと見られるものであり、直ちに効き目のあるものであり、実際に確かめられるものであり、理想の境地に導くものであり、諸々の知者が各自みずから証するものである、と。

彼はサンガに対して清らかな信仰を起こしている。

尊師の弟子の集いは真っすぐに実践している。尊師の弟子の集いは正しい道理に従って実践している。尊師の弟子の集いは和敬して実践している。尊師の弟子の集いは、すなわち、二人ずつの四組と八人の人々(四双八輩)とであるが、彼らを敬うべく、尊ぶべく、もてなすべく、合掌すべきであり、世間の最上の福田である、と。

彼は、聖者の愛する、切れ切れではなくて、過ちの無い、まじりの無い、汚れていないで、自在であって、知者の称賛する、汚れの無い、精神統一をあらわし出すような戒律を身に具現している。

アーナンダよ。これこそ法の鏡という名の法門であって、それを具現したならば、立派な弟子は、もしも望むならば、みずから自分の運命をはっきりと見極めることが出来るであろう。

わたしくしには地獄は消滅した。畜生の有様も消滅した。餓鬼の境涯も消滅した。悪いところ・苦しいところに堕することもない。わたしは聖者の流れに踏み入った者である。わたしはもはや堕することの無い者である。わたしは必ず悟りを究める者である。と。」

10 さて、尊師はそのナーディカでレンガ堂の内にとどまって、修行僧たちのために、このように数多くの法に関する講話をなさった。

「戒律とはこのようなものである。精神統一とはこのようなものである。智慧とはこのようなものである。戒律と共に修行して完成された精神統一は大いなる果報をもたらし、大いなる功徳がある。精神統一と共に修養された智慧は偉大な果報をもたらし、大いなる功徳がある。智慧と共に修養された心は、諸々の汚れ、すなわち欲望の汚れ、生存の汚れ、見解の汚れ、無明の汚れから完全に解脱する」と。

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※このページは学問的な正確性を追求するものではありません。前知識のない一般の方でも「読んでみよう!」と思ってもらえるよう、より分かりやすく読み進めるために編集しています。漢字をひらがなに、旧字体を新字体に、送り仮名を現代表記に、( )にふりがなをつけるなど、原文に忠実ではない場合があります。

なお、底本としてパーリ語経典長部の『大般涅槃経』(マハー・パリニッバーナ・スッタンタ)を使用していますが、学問的な正確性を追求する場合、参考文献である『「ブッダ最後の旅」中村元訳 岩波文庫』を読むようおすすめします。なお、章題/節題は比較しやすいよう同じにしました。

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