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ブッダ最後の旅【 第1章 】3、旅に出る

投稿日:1999年2月15日 更新日:

【 第1章 】

3、旅に出る

13 そこで尊師王舎城に心ゆくまでとどまって、それから若き人アーナンダに告げた。

「さあ、アーナンダよ。我らはアンバラッティカーの園(庵婆蘗林/Ambalatthikā)に行こう」と。
「かしこまりました」と、若き人アーナンダ尊師に答えた。そこで尊師は多くの修行僧たちと共にアンバラッティカーの園に赴いた。

14 そこで尊師は、アンバラッティカーの園にある王の別荘にとどまった。そこでも尊師は、修行僧たちのために、このように数多くの法に関する講話をなされた。

「戒律とはこのようなものである。精神統一とはこのようなものである。精神統一とはこのようなものである。智慧とはこのようなものである。戒律と共に修行して完成された精神統一は大いなる果報をもたらし、大いなる功徳がある。精神統一と共に修養された智慧は偉大な果報をもたらし、大いなる功徳がある。智慧と共に修養された心は、諸々の汚れ、すなわち欲望の汚れ、生存の汚れ、見解の汚れ、無明の汚れから完全に解脱する」と。

15 さて、尊師は、アンバラッティカーの園に心ゆくまでとどまって、それから若き人アーナンダに告げた。

「さあ、アーナンダよ。我らはナーランダに行こう」と。
「かしこまりました」と、若き人アーナンダ尊師に答えた。
そこで尊師は多くの修行僧の群れと共に、ナーランダに赴いた。そのナーランダにおいて尊師は、富商パーヴァーリカのマンゴー林にとどまった。


(2005年に管理人が撮影したナーランダ大学遺跡)

16 そこでサーリプッタ長老(舎利子、舎利弗/智恵第一)は、尊師のいますところに近づいた。近づいてから、尊師に挨拶して、一方に坐した。一方に坐したサーリプッタ長老尊師に次のように言った。

「尊い方よ。わたくしは尊師に対してこのように信じています。修行者であろうとも、バラモンであろうとも、尊師よりもさらにすぐれた、悟りに関してさらに熟知せる人は、尊師の他には、過去にもいなかったし、未来にもいないであろう、また現在にも存在しないであろう」と。

サーリプッタよ。お前の発したこの言葉は堂々としていて、雄大である。確かにはっきりと理解して師子吼をした。

どうだ、サーリプッタよ。過去の長い時に渡って真人・正しく悟った人々がいたが、それら全ての尊師のことを、心に関して、心でもって、それらの尊師たちはこれこれの戒律を保っていたとか、これこれの教えを説いていたとか、これこれの智慧があったとか、これこれの暮らしをしていたとか、これこれの解脱を得ていたとかいうことまでも、お前は知っていたのか?」

「そうではありません。」

サーリプッタよ。未来の長い時に渡って真人・正しく悟った人々がいるであろうが、それら全ての尊師のことを、心に関して、心でもって、それらの尊師たちはこれこれの戒律を保つであろうとか、これこれの教えを説くであろうとか、これこれの智慧があるであろうとか、これこれの暮らしをするであろうとか、これこれの解脱を得るであろうとかいうことまでも、お前は知っているのか?」

「そうではありません。」

サーリプッタよ。今わたしは真人・正しく悟った人々であるが、そのわたしのことを、心に関して、心でもって、尊師はこれこれの戒律を保っているとか、これこれの教えを説いているとか、これこれの智慧があるとか、これこれの暮らしをしているとか、これこれの解脱を得ているとかいうことまでも、お前は知っているのか?」

「そうではありません。」

「では、サーリプッタよ。過去・未来・現在の真人・正しく悟った人々についての他人の心の有様を知る智(他心通)がお前には存在しない。それでは、サーリプッタよ。『わたくしは尊師に対してこのように信じています。修行者であろうとも、バラモンであろうとも、尊師よりもさらにすぐれた、悟りに関してさらに熟知せる人は、尊師の他には、過去にもいなかったし、未来にもいないであろう、また現在にも存在しないであろう』と言って、お前が、堂々としていて、雄大であるこの言葉を発し、確かにはっきりと理解して師子吼をしたのは、何故であるか?

17 「尊い方よ。過去・未来・現在の真人・正しく悟った人々についての、心の有様を知る智(他心通)はわたくしにはありません。しかしわたくしには、事柄を推知することを知っています。たとえば、王国の辺境に都市があり、堅固な城壁と堅固な塁・城門を巡らしていたが、門扉はだだ一つだけあったとしましょう。そこに賢くて熟練し聡明な一人の門衛がいて、見知らぬ者をせき止め、知っている者を入らせるとしましょう。彼がその城郭の周囲の道をあまねく経めぐって歩いて行ったとしても、城塁の継ぎ目も、城塁の裂け目も、ないし猫のはい出るほどの裂け目をも見出さないとしましょう。そこで彼は次のように思ったとしましょう。『いかなる大きな生き物がこの都市に入ったり出たりするにしても、彼らはすべてこの門扉から入ったり出たりするのであろう』と。尊い方よ。事柄を推察することとは、このようなものであるとわたくしは知りました。

尊い方よ。過去の長い時に渡って真人・正しく悟った人々がいたが、それら全ての尊師は、五つの蓋(おおい)を捨て去って、人を弱くする心の煩悩を明らかに知って、四つのことを心に思い浮かべる修行(四念処)の内に心をしっかりと安立し、七つの悟りの事柄(七覚支)を如実に修行して、無上の正しい悟りを完成するでしょう。

尊い方よ。現在においてもまた、真人・正しく悟った人である尊師は、五つの蓋(おおい)を捨て去って、人を弱くする心の煩悩を明らかに知って、四つのことを心に思い浮かべる修行(四念処)の内に心をしっかりと安立し、七つの悟りの事柄(七覚支)を如実に修行して、無上の正しい悟りを完成しておられます」と。

18 そこで尊師ナーランダパーヴァーリカのマンゴー樹林にとどまって、修行僧たちのために、このように数多くの、法に関する講話をなされた。

「戒律とはこのようなものである。精神統一とはこのようなものである。精神統一とはこのようなものである。智慧とはこのようなものである。戒律と共に修行して完成された精神統一は大いなる果報をもたらし、大いなる功徳がある。精神統一と共に修養された智慧は偉大な果報をもたらし、大いなる功徳がある。智慧と共に修養された心は、諸々の汚れ、すなわち欲望の汚れ、生存の汚れ、見解の汚れ、無明の汚れから完全に解脱する」と。

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※このページは学問的な正確性を追求するものではありません。前知識のない一般の方でも「読んでみよう!」と思ってもらえるよう、より分かりやすく読み進めるために編集しています。漢字をひらがなに、旧字体を新字体に、送り仮名を現代表記に、( )にふりがなをつけるなど、原文に忠実ではない場合があります。

なお、底本としてパーリ語経典長部の『大般涅槃経』(マハー・パリニッバーナ・スッタンタ)を使用していますが、学問的な正確性を追求する場合、参考文献である『「ブッダ最後の旅」中村元訳 岩波文庫』を読むようおすすめします。なお、章題/節題は比較しやすいよう同じにしました。

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