【仏教用語/人物集 索引】

『教行信証』信巻21

投稿日:1224年1月1日 更新日:

 報えて道わく、『論の註』に曰わく、「問うて曰わく、『無量寿経』に言わく、「往生を願ぜん者、皆、往生を得しむ。唯、五逆と誹謗正法とを除く」と。『観無量寿経』に「五逆・十悪、諸の不善を具せるもの、亦往生を得」と言えり。此の二経、云何が会せんや。

 答えて曰わく、一経には二種の重罪を具するを以てなり。一には五逆、二には誹謗正法なり。此の二種の罪を以ての故に、所以に往生を得ず。一経は但「十悪・五逆等の罪を作る」と言いて、「正法を誹謗す」と言わず。正法を謗ぜざるを以ての故に、是の故に生を得しむと。

 問うて曰わく、仮使い一人は五逆罪を具して正法を誹謗せざれば、経に得生を許す。復た一人有りて、但、正法を誹謗して、五逆・諸の罪無きもの、往生を願ぜば、生を得るや以不や。

 答えて曰わく、但、正法を誹謗せしめて更に余の罪無しと雖も、必ず生を得じ。何を以て之を言わば、『経』(大品般若経信毀品)に言わく、「五逆の罪人、阿鼻大地獄の中に堕して、具に一劫重罪を受く。誹謗正法の人は阿鼻大地獄の中に堕して、此の劫、若し尽くれば、復た転じて他方の阿鼻大地獄の中に至る。是くの如く展転して百千の阿鼻大地獄を逕。」仏、出ずることを得る時節を記したまわず。誹謗正法の罪極重なるを以ての故なり。又、正法は即ち是れ仏法なり。此の愚痴の人、既に誹謗を生ず。安んぞ仏土に願生するの理有らんや。仮使い、但、彼の安楽に生ずることを貪して生を願ぜんは、亦水に非ざるの氷、煙無きの火を求めんが如し。豈に得る理有らんや。
 問うて曰わく、何等の相か、是れ誹謗正法なるや。

 答えて曰わく、若し「無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法」と言わん。是くの如き等の見をもって、若しは心に自ら解り、若しは他に従いて、其の心を受けて決定するを、皆「誹謗正法」と名づくと。

 問うて曰わく、是くの如き等の計は、但是れ己が事なり。衆生に於いて何の苦悩有ればか、五逆重罪に踰えんや。

 答えて曰わく、若し諸仏・菩薩、世間・出世間の善道を説きて衆生を教化する者無さずは、豈に仁・義・礼・智・信有ることを知らんや。是くの如き世間の一切善法、皆断じ、出世間の一切賢聖、皆滅しなん。汝、但、五逆罪の重たることを知りて、五逆罪の正法無きより生ずることを知らず。是の故に謗正法の人は、其の罪、最重なりと。

 問うて曰わく、業道経に言わく、「業道は称の如し。重き者、先ず牽く」と。『観無量寿経』に言うが如し。「人有りて、五逆・十悪を造り諸の不善を具せらん。悪道に堕して多劫を逕歴して無量の苦を受くべし。命終の時に臨みて、善知識、教えて南無無量寿仏を称せしむるに遇わん。是くの如き、心を至して声をして絶えざらしめて十念を具足すれば、便ち安楽浄土に往生することを得て、即ち大乗正定の聚に入りて、畢竟じて不退ならん。三塗の諸の苦と永く隔つ。」「先ず牽く」の義、理に於いて如何ぞ。又、曠劫より已来、備に諸の行を造れる有漏の法は三界に繫属せり。但、十念を以て阿弥陀仏を念じて便ち三界を出でば、繫業の義、復た云何が欲んとするや。

 答えて曰わく、汝、五逆・十悪・繫業等を重とし、下下品の人の十念を以て軽として、罪の為に牽かれて先ず地獄に堕して三界に繫在すべしと謂わば、今当に義を以て軽重の義を校量すべし。心に在り、縁に在り、決定に在り。時節の久近・多少に在るには不ざるなり。

 云何が「心に在る」と。彼の罪を造る人は、自らが虚妄顚倒の見に依止して生ず。此の十念は、善知識、方便安慰して実相の法を聞かしむるに依りて生ず。一は実、一は虚なり。豈に相比ぶることを得んや。譬えば、千歳の闇室に、光、若し蹔く至れば、即便ち明朗なるが如し。闇、豈に室に在ること千歳にして去らじと言うことを得んや。是れを「在心」と名づく。

 云何が「縁に在る」と。彼の罪を造る人は、自らが妄想の心に依止し、煩悩虚妄の果報の衆生に依りて生ず。此の十念は、無上の信心に依止し、阿弥陀如来の方便荘厳真実清浄無量功徳の名号に依りて生ず。譬えば人有りて、毒の箭を被りて、中る所、筋を截り骨を破るに、滅除薬の鼓を聞けば、即ち箭出け毒除こるが如し 『首楞厳経』に言わく、「譬えば薬有り、名づけて「滅除」と曰う。若し闘戦の時に、用以て鼓に塗るに、鼓の声を聞く者、箭出け毒除こるが如し。菩薩摩訶薩も亦復是くの如し。首楞厳三昧に住して、其の名を聞く者、三毒の箭、自然に抜出す」と。豈に「彼の箭深く毒厲しからん。鼓の音声を聞くとも、箭を抜き毒を去ること能わじ」と言うことを得べけんや。是れを「在縁」と名づく。

 云何が「決定に在る」と。彼の罪を造る人は有後心・有間心に依止して生ず。此の十念は無後心・無間心に依止して生ず。是れを「決定」と名づく。

 三の義を校量するに、十念は重なり。重き者、先ず牽きて、能く三有を出ず。両経、一義なるならくのみと。

 問うて曰わく、幾ばくの時をか、名づけて「一念」とするや。

 答えて曰わく、百一の生滅を「一刹那」と名づく。六十の刹那を、名づけて「一念」とす。此の中に「念」と云うは、此の時節を取らざるなり。但、阿弥陀仏を憶念して、若しは総相、若しは別相、所観の縁に随いて、心に他想無くして十念相続するを、名づけて「十念」とすと言うなり。但し名号を称することも亦復是くの如し。

 問うて曰わく、心、若し他縁せば、之を摂して還らしめて、念の多少を知るべし。但、多少を知らば、復た間無きに非ず。若し心を凝らし想を注めば、復た何に依りてか念の多少を記することを得べきや。

 答えて曰わく、『経』(観経)に「十念」と言うは、業事成弁を明かすならくのみと。必ず須く頭数を知るべからざるなり。「蟪蛄、春秋を識らず。伊虫、豈に朱陽の節を知らんや」と言うが如し。知る者、之を言うならくのみと。十念業成とは、是れ亦、神に通ずる者、之を言うならくのみと。但、念を積み相続して他事を縁ぜざれば、便ち罷みぬ。復た何ぞ仮に念の頭数を知ることを須いんや。若し必ず知ることを須いば、亦方便有り。必ず口授を須いよ。筆点に題することを得ざれ」と。已上

(「信巻」続く)

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