【仏教用語/人物集 索引】

『法句経』ダンマパダ【 第19章 道を実践する人 】

投稿日:0202年5月30日 更新日:

256 荒々しく事がらを処理するからとて、公正な人ではない。賢明であって、義と不義との両者を見極める人、

257 粗暴になることなく、決まりに従って、公正な仕方で他人を導く人は、正義を守る人であり、道を実践する人であり、聡明な人であると言われる。

258 多く説くからとて、それゆえに彼が賢者なのではない。心穏やかに、怨むことなく、恐れることのない人、彼こそ賢者と呼ばれる。

259 多く説くからとて、それゆえに彼が道を実践している人なのではない。たとい教えを聞くことが少なくても、身をもって真理を見る人、怠って道からはずれることの無い人、彼こそ道を実践している人である。

260 頭髪が白くなったからとて長老なのではない。ただ年をとっただけならば「空しく老いぼれた人」と言われる。

261 誠あり、徳あり、慈しみがあって、そこなわず、つつしみあり、みずから整え、汚れを除き、気を付けている人こそ長老と呼ばれる。

262 そねみ深く、けちで、偽る人は、ただ口先だけでも、美しい容貌によっても、端正な人とはならない。

263 これを断ち、根絶やしにし、憎しみをのぞき、聡明である人、彼こそ端正な人と呼ばれる。

264 頭を剃ったからとて、いましめをまもらず、偽りを語る人は、道の人ではない。欲望と貪りに満ちている人が、どうして道の人であろうか?

265 大きかろうとも小さかろうとも悪を全てとどめた人は、諸々の悪を静め滅ぼしたのであるから、道の人と呼ばれる。

266 他人に食を乞うからとて、それだけでは托鉢僧なのではない。汚らわしい行ないをしているならば、それでは托鉢僧ではない。

267 この世の福楽も罪悪も捨て去って、清らかな行ないを修め、よく思慮して世に処しているならば、彼こそ托鉢僧と呼ばれる。

268 269 ただ沈黙しているからとて、愚かに迷い無智なる人が聖者なのではない。秤を手にもっているように、いみじきものを取り諸々の悪を除く賢者こそ聖者なのである。彼はそのゆえに聖者なのである。この世にあって善悪の両者を秤りにかけてはかるようによく考える人こそ聖者と呼ばれる。

270 生きものを害うからとて聖者なのではない。生きとし生ける者どもを害わないので聖者と呼ばれる。

271 272 わたしは、出離の楽しみを得た。それは凡夫の味わい得ないものである。それは、戒律や誓いだけによっても、また博学によっても、また瞑想を体現しても、またひとり離れて臥すことによっても、得られないものである。修行僧よ。汚れが消え失せない限りは、油断するな。

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※このページは学問的な正確性を追求するものではありません。前知識のない一般の方でも「読んでみよう!」と思ってもらえるよう、より分かりやすく読み進めるために編集しています。漢字をひらがなに、旧字体を新字体に、送り仮名を現代表記に、( )にふりがなをつけるなど、原文に忠実ではない場合があります。

なお、底本としてパーリ語経典の『ダンマパダ』を使用していますが、学問的な正確性を追求する場合、参考文献である『「ブッダの真理の言葉 感興の言葉」中村元訳 岩波文庫』を読むようおすすめします。なお、章題/節題は比較しやすいよう同じにしました。

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