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司馬遷『史記』

紀元前97年、司馬遷の『史記』なる。<< 戻る
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大衆部枝末分裂/上座部枝末分裂

紀元前160年頃、大衆部枝末分裂。上座部枝末分裂。説一切有部、経量部等成立。アビダルマ仏教。論蔵の成立。<< 戻る
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ミリンダ王の問い

紀元前2世紀後半にアフガニスタン・インド北部を支配したギリシャ人であるインド・グリーク朝の王メナンドロス1世(ミリンダ王/弥蘭王/弥蘭陀王)とインド仏教の長老であるナーガセーナ(那先/那伽犀那/龍軍)との間で紀元前160年頃に3日間行われた問答で、王は最後には仏教信者になる。パーリ語経典の『ミリンダ王の問い』、漢語経典の『那先比丘経』として伝えられている。初日はミリンダ王がナーガセーナを訪ね、2日目と3日目はナーガセーナが王宮を訪ね問答を行う。初日の問答の始まりはこんな感じです。あなたの名前を教えてください王よ、私はナーガセーナと世間に呼ばれているけど、それはあくまでも呼称・記号・通念・名称で...
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前漢、成立

紀元前202年、前漢、成立。<< 戻る
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秦が中国を統一

紀元前221年、秦が中国を統一。<< 戻る
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始皇帝が即位

紀元前247年、始皇帝が即位(~210)。<< 戻る
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アショーカ王がルンビニを訪れる

紀元前249年にブッダの生誕地ルンビニをマウリヤ王朝のアショーカ王が訪れる。ルンビニで発見されたアショーカピラー(石柱)に記される。<< 戻る
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第三結集(だいさんけつじゅう)- アショーカ王の呼びかけ

(アショーカピラー/インド・ビハール州クムラハール)紀元前260年(インド)第三結集がマウリヤ王朝の都パータリプトラ(パトナ市)の郊外にある鶏園寺(クムラハール)において、マウリヤ王朝3代目アショーカ王の呼びかけで阿羅漢1000人が集まり経・律・論がまとめられる。仏教の開祖、お釈迦様(ゴータマ・シッダッタ)がクシナガラでの入滅から235年後頃に行われた(上座部の伝承)。なお、紀元前244年開催説もある。<< 戻る
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アショーカ王即位

(アショーカ王レリーフ/より)紀元前268年(インド)、アショーカ王(阿育王)が即位し、治世9年目にインド亜大陸の東岸で勢力を振るったカリンガ国に戦を仕掛け征服するが、戦争の悲惨さを実感し仏教に帰依。アショーカ王が石柱や摩崖(岩)などに刻ませたアショーカ王碑文が多く残る。在位~紀元前232年頃の間、仏教がインド全体に普及。原始仏教聖典原型成立。『阿含経』『法句経』『ジャータカ』等。<< 戻る
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アレクサンドロス大王の東征開始

紀元前334年、アレクサンドロス大王の東征開始。<< 戻る
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第二結集(だいにけつじゅう)- 上座部と大衆部に根本分裂

(ストゥーパとアショーカピラー/インド・ビハール州ヴァイシャリ)紀元前385年(インド)第二結集が毘舎離(ヴァイシャリ)において阿羅漢700人が集まり行われる。ヴィナヤ(律蔵)の10の要点について討議されたといわれている。仏教の開祖、お釈迦様(ゴータマ・シッダッタ)がクシナガラでの入滅から100年後頃に行われた(上座部の伝承/説一切有部の伝承では入滅から110年後)。これにより上座部と大衆部に根本分裂。<< 戻る
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ギリシア文化の全盛時代

紀元前450年頃、ギリシア文化の全盛時代。<< 戻る
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十大弟子(じゅうだいでし)

ブッダの多くの弟子の中でも代表とされる十大弟子です。多くの経典にも登場し、後には造像も盛んに行われました。・マハーカッサパ(摩訶迦葉/頭陀第一)・アーナンダ(阿難/多聞第一)・サーリプッタ(舎利子、舎利弗/智恵第一)・モッガラーナ(目犍連、目連/神通第一)・スブーティ(須菩提/解空第一)・プールナマイトラーヤニープトラ(富楼那/説法第一)・マハーカッチャーナ(摩訶迦旃延/論議第一)・アニルッダ(阿那律/天眼第一)・ウパーリ(優波離/持律第一)・ラーフラ(羅睺羅/密行第一)<< 戻る
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第一結集(だいいちけつじゅう)- 七葉窟(ななようくつ)

(七葉窟/インド・ビハール州ラージギル)紀元前485年2月15日以降の出来事(インド)仏教の開祖、お釈迦様(ゴータマ・シッダッタ/ブッダ)がクシナガラで入滅(諸説あり。この年表では565年誕生説に基づいて出来事を記述しています。)した後、第一結集が王舎城(おうしゃじょう/ラージャグリハ)郊外の七葉窟において、マガダ国の王アジャータシャトル(父王ビンビサーラを殺害したが改心しお釈迦様に帰依するようになった)が主催者となり行われる。500人の比丘(500人の阿羅漢/五百羅漢)が集い、摩訶迦葉が座長となり、阿難と優波離が、それぞれ経(経典)と律(戒律)の編集責任者となる。「結集」のサンスクリット語(...
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沙羅双樹(さらそうじゅ)

祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり  沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす奢れる者も久しからず ただ春の夜の夢の如し  猛き人もついには滅びぬ ひとえに風の前の塵に同じ平家物語はこのような一節から始まるので、沙羅双樹という名前を知っている人が老若男女問わずいるようです。この沙羅双樹は、歴史上のブッダが入滅された場所に対で生えていたサーラの木のことです。インド原産の熱帯樹(フタバガキ科常緑樹)ですから日本では育ちません。日本で沙羅双樹と言われているものは白い花が夏の前頃に咲く夏椿(ツバキ科落葉樹)のことです。掲載画像はブッダ入滅の地、インド・クシナガラの涅槃堂前に植えている沙羅双樹です。伝...
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お釈迦様がクシナガラで入滅

紀元前485年2月15日(インド)仏教の開祖、お釈迦様(ゴータマ・シッダッタ)がクシナガラで入滅しました。(諸説あり。この年表では565年誕生説に基づいて以降の出来事を記述しています。)<< 戻る
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四大聖地(よんだいせいち)

ブッダの弟子アーナンダがブッダの死が近づいた時に問いました。「ブッダが亡くなったのちには、もう、ブッダにお会いすることはできないのでしょうか?」その問いにブッダが答えたのが四大聖地です。■ルンビニ(ブッダが生まれた地)藍毘尼■ブッダガヤ(ブッダが悟りを開いた地)仏陀伽邪■サールナート(ブッダが教えを説き始めた地)鹿野苑■クシナガラ(ブッダが亡くなった地)拘尸那掲羅これらの四つの場所が、信仰心ある者が実際に訪れて見て感動する場所であると、ブッダがアーナンダに伝えたのでした。(出典:『ブッダ最後の旅』【 第5章 】18、病い重し 8偈)<< 戻る
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八大聖地(はちだいせいち)

ブッダの弟子アーナンダがブッダの死が近づいた時に聞いたのが四大聖地ですが、仏教の開祖であるブッダに関する重要な8つの聖地の総称を八大聖地と呼びます。なお、ルンビニ、ブッダガヤー、サールナート、クシナガラは四大聖地と呼ばれています。■ルンビニ  ブッダが生まれた地(生誕)藍毘尼■ブッダガヤ  ブッダが悟りを開いた地(成道)仏陀伽邪■サールナート  ブッダが教えを説き始めた地(初転法輪)鹿野苑■ラージギル  ブッダ布教の地 王舎城■サヘート・マヘート  ブッダ布教の地 祇園精舎・舎衛城■サンカーシャ  ブッダ三道宝階降下の地 僧伽舎■ヴァイシャリ  ブッダ最後の旅の出発地 毘舎離■クシナガラ  ブ...
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チュンダ(純陀)- ブッダ最後の食事を提供

チュンダとは、鍛治屋(かじや)・工巧師(こうこうし)の子で、ブッダ最後の食事を提供したことから、ブッダへの最後の布施者とも呼ばれています。漢訳では純陀、准陀、淳陀、周那などと音写され、妙義と意訳されることもあります。チュンダはブッダやその弟子たちを招待することが出来るほどの富裕層であったと考えられています。当時、インドのカースト社会では鍛治屋、工巧師、金属加工師というのは賤しい職業と見なされ、蔑視されていましたが、ブッダのような新しい精神的な指導者を求めていました。鍛治屋の子チュンダの招待を受け入れたブッダは、当時の階級的差別を打ち破って欲しいという要求に応えたものであったと考えられます。『大...
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成道(じょうどう)

紀元前530年12月8日は仏教の開祖お釈迦様の悟りを開かれた日、つまり、ブッダになった成道の日です。苦行を行っていた場所から程近いブッダガヤにある菩提樹の下で坐禅瞑想による禅定に入り、悟りを得るまでそこを動くまいと決心したのでした。そして、ついに全宇宙の真理(菩提)を悟りました。なお、アジア南方を中心とする上座部仏教では5月頃のウェーサーカ月(インドの太陰暦では第2番目の月)の満月に起きたと伝えられています。生誕・成道・涅槃は同じウェーサーカ月にあったと伝えられているようです。<< 戻る
人物

スジャータの乳粥供養 – ブッダが悟りを得たときの供養

(乳粥供養の場に建つスジャータ寺院がある祠には、スジャータと召使のプンナ、厳しい苦行を終えたばかりのお釈迦様の像が白い牛の像と一緒に祀られています)スジャータとは、ブッダが悟りを得たときの供養者として知られています。後にブッダとなるシッダッタの苦行放棄のきっかけとなり、悟りを得る直前の乳粥供養により身心ともに回復することになります。シッダッタはナイランジャラー川で沐浴を済ませた後、岸に上がり瞑想に適した場所を求め、あるガジュマル(ベンガルボダイジュ)の樹下に座り瞑想を行います。そこにたまたま現れたのが村の長者の娘スジャータです。スジャータは男の子に恵まれるよう村の聖樹(上記)に毎日、祈りをささ...
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スジャータ村のガジュマル

後にブッダとなるシッダッタはナイランジャラー川で沐浴を済ませた後、岸に上がり瞑想に適した場所を求め、あるガジュマル(ベンガルボダイジュ)の樹下に座り瞑想を行います。そこにたまたま現れたのが村の長者の娘スジャータです。スジャータは男の子に恵まれるよう村の聖樹(上記)に毎日、祈りをささげ、この日も同じように乳粥(ちちがゆ)を供えようとやって来ました。あまりにも厳しい苦行のために体力が衰えていたたシッダッタに乳粥を勧めますが、断食行をしていたシッダッタにいったんは断られました。しかし、先程聞いた農夫の声「絃は強すぎると切れる。弱いと弱いでまた鳴らぬ。程ほどの調子にしめて、上手にかき鳴らすが良い。」を...
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ネーランジャラー川(尼連禅河)

ガンジス川の支流にあたるネーランジャラー川。中国、日本では尼連禅河(にれんぜんが)という音訳で知られているインド・ビハール州ブッダガヤ周辺を流れる川です。ブッダになる前のシッダッタが苦行の無意味さに気づき、苦行を放棄したあとに沐浴(もくよく)した川として知られています。ネーランジャラー川はウルヴェーラの苦行林の東側を流れています。シッダッタは苦行により命を落とす寸前までやせ、それでも真理を見いだせないまま苦行を続けました。ある時、ネーランジャラー川のそばで歌を歌って通り過ぎる農夫の声が聞こえてきました。「絃は強すぎると切れる。弱いと弱いでまた鳴らぬ。程ほどの調子にしめて、上手にかき鳴らすが良い...
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断食(だんじき)

ブッダが悟りを得る前のこと(以下、「ブッダ」と書きます)、ウルヴェーラの苦行林で6年間の苦行を続け、それでも真理を見いだせないので、極端な苦行では真理どころか、無駄に心や身体を傷つけるだけであると気づきました。断食とは、全ての飲食を口に入れない絶食とは違い、徐々に食べることを減らす、決まった時間だけ食べる、決まったものだけ食べるなど、自身で飲食を管理する実践方法です。ブッダの断食は誰にも真似が出来ないほど厳しいものでした。一日一食から、徐々に二日間に一食、一週間に一食と減らしていき、とうとう何も食べないと決め、三週間が限度とされていた断食(この場合は絶食でしょうか)を2か月も続けたこともあった...
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ウルヴェーラの苦行林(前正覚山)

ウルヴェーラの苦行林は漢訳では前正覚山(ぜんしょうがくざん)といい、お釈迦様がブッダになる前のシッダッタと呼ばれていた時に修行を行った場所です。修行をするということは苦行を積むというのがインドでは一般的であったので、シッダッタも修行者が多く集まるガヤー(インド)に向かいました。シッダッタは、このウルヴェーラの苦行林に入り、6年間の苦行を続けました。断食の苦行、息を止める苦行、草だけを食べる苦行、牛糞を食べる苦行、イバラに身を横たえる苦行、ずっと立っている苦行、灼熱の太陽を凝視する苦行、墓地で死体と共に暮らす苦行、何が起きてもじっと耐えて坐禅する苦行など、普通では耐えられない苦行を繰り返したため...
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コーサラ国(拘薩羅国)

コーサラ国とは、古代インドにおける十六大国の一つ。仏典には「拘薩羅国」と表記されます。現在のインドのウッタル・プラデーシュ州(UP州)に相当する地域を領有していました。ブッダ(お釈迦様)が活動していた頃の首都は、シュラーヴァスティー(舎衛城)で、この都には祇園精舎がありました。仏典にはパセーナディ(波斯匿王)が登場します。コーサラ国は紀元前6世紀から紀元前5世紀における十六大国のひとつに数えられる大国でしたが、マガダ国との一連の戦争により弱体化し、紀元前4世紀には併合されてしまいます。ブッダ(お釈迦様)とコーサラ国シッダッタ(お釈迦様)の時代、その出身種族である釈迦族はコーサラ国の属国でした。...
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パータリプッタ(華氏城/パトナ/パータリプトラ)

パータリプッタとは、現在のビハール州の州都パトナに当たる場所で、古代インドにおける十六大国の一つマガダ国の首都で、ガンジス川沿いにあり、首都制定後に全インドの中心都市として栄えました。仏典には「華氏城」と表記されます。お釈迦様が活動していた頃の首都は、ラージャグリハ(王舎城)でしたが、ブッダ最後の旅【 第1章 】4、パータリ村にて等には「パータリ村」として紹介されている地域です。梵語(サンスクリット語) Pātaliputra パータリプトラ巴語(パーリ語) Pātaliputta パータリプッタ<< 戻る
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マガダ国(摩訶陀国)

マガダ国とは、古代インドにおける十六大国の一つ。紀元前682年~紀元前185年。ナンダ朝のもとでガンジス川流域の諸王国を平定し、マウリヤ朝のもとでインド初の統一帝国を築いた。仏典には「摩訶陀国」と表記される。ブッダ(お釈迦様)が活動していた頃の首都は、ラージャグリハ(王舎城)で、この都には竹林精舎があり、そして、近くには霊鷲山がある。仏典にはビンビサーラ王やアジャータシャトル王が登場する。その後、ウダーイン王は首都をガンジス川沿いのパータリプッタ(華氏城)へ移転させ、後に全インドの中心都市として栄えることになる。現在のビハール州の州都パトナに当たる。ブッダ(お釈迦様)とマガダ国紀元前536年、...
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出家踰城

(仏伝「出家踰城(しゅっけゆじょう)」ロリアン・タンガイ出土クシャーン朝(2世紀頃))「どんなに身分が高くても、みな老い、病気になり、死んでいくではないか。バラモンだって同じだ。病気には身分や生まれなど関係ないのだから。日照りや洪水だって、彼らバラモンがどんなに神々に祈っても、まぬがれることはない。では、どうしたら、これらの恐怖に立ち向かうことが出来るのか。私は、生きているうちに、その答えを知りたい」シッダッタ(お釈迦様)は人生の生老病死の苦に疑問を抱き妻子を残し出家をします。ある日の明け方、真理(悟り)を求めるために出家の決意を決めたシッダッタは生まれ育ったカピラヴァストゥ城を去り、自らの髪...
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ラーフラ(羅睺羅)

(羅睺羅尊者像・京都満福寺)ラーフラ(raahula、राहुल)、羅睺羅(らごら)、羅候羅、羅怙羅、羅云等ブッダの実子であり、十大弟子の一人で「密行第一」といわれています。厳密にいえば、後にブッダとなった出家する前の釈迦族の王子ゴータマ・シッダッタとヤソーダラ(耶輸陀羅)妃との間に授かった子どもです。意味は日食、月食など食を起こす魔神ラーフ(転じて障害をなすもの)等諸説ありますが、既に出家を決意していたシッダッタ王子にとって、子供の誕生は決意を鈍らせることになったと伝えられます。シッダッタ王子は29歳のとき国、身分を捨て、妻子をも残し出家します。6年後ブッダとなり、ある時、ブッダは生まれ故郷...
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四門出遊

(仏伝浮彫「四門出遊」ガンダーラ(2~3世紀))「なぜ、人は苦しみながらも生きるのだろう」釈迦族の王子であったお釈迦様の名はゴータマ・シッダッタといいましたが、人生に悩むシッダッタを見て、父親のスッドーダナ王(浄飯王)は、気晴らしに外出をすすめました。その時にシッダッタは4つの苦しみについて知ることになります。東西南北のそれぞれの城門から外出するこのエピソードを四門出遊(しもんしゅつゆう)と言います。シッダッタは最初、城の東門から外出します。するとそこに、老人がいました。従者に尋ねると「あれは老人です。老いると皆あのようになるのです」と言いました。次は南門から外出します。瘦せ衰えた病人を目にす...
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孔子生まれる

紀元前551年、孔子生まれる。(中国)<< 戻る