【仏教用語/人物集 索引】

「正法眼蔵」阿羅漢(あらかん)

投稿日:1242年5月15日 更新日:

諸漏已尽、無復煩悩、逮得己利、尽諸有結、心得自在(諸漏已に尽き、復た煩悩無く、己利を逮得して、諸の有結を尽し、心自在を得たり)。
これ大阿羅漢なり、学仏者の極果なり。第四果となづく、仏阿羅漢あり。

諸漏は没柄破木杓なり。用来すでに多時なりといへども、已尽は木杓の渾身跳出なり。逮得己利は頂に出入するなり。尽諸有結は尽十方界不曽蔵なり。心得自在の形段、これを高処自高平、低処自低平と参究す。このゆゑに、牆壁瓦礫あり。自在といふは、心也全機現なり。無復煩悩は未生煩悩なり、煩悩被煩悩礙をいふ。

阿羅漢の神通智慧、禅定説法、化道放光等、さらに外道天魔等の論にひとしかるべからず。見百仏世界等の論、かならず凡夫の見解に準ずべからず。将謂胡鬚赤、更有赤鬚胡の道理なり。入涅槃は、阿羅漢の入拳頭裡の行業なり。このゆゑに涅槃妙心なり、無回避処なり。入鼻孔の阿羅漢を真阿羅漢とす、いまだ鼻孔に出入せざるは、阿羅漢にあらず。

古云、我等今日、真阿羅漢、以仏道声、令一切聞(古く云く、我等今日、真阿羅漢なり、仏道声を以て、一切をして聞かしむ)。

いま令一切聞といふ宗旨は、令一切諸法仏声なり。あにただ諸仏及諸弟子のみを挙拈せんや。有識有知、有皮有肉、有骨有髓のやから、みなきかしむるを、令一切といふ。有識有知といふは、国土草木、牆壁瓦礫なり。搖落盛衰、生死去来、みな聞著なり。以仏道声、令一切聞の由来は、渾界を耳根と参学するのみにあらず。

釈迦牟尼仏言、若我弟子、自謂阿羅漢辟支仏者、不聞不知諸仏如来但教化菩薩事、此非仏弟子、非阿羅漢、非辟支仏(釈迦牟尼仏言く、若し我が弟子、自ら阿羅漢辟支仏なりと謂て、諸仏如来の但だ菩薩のみを教化したまふ事を知らず聞かずは、此れ仏弟子に非ず、阿羅漢に非ず、辟支仏に非ず)。

仏言の但教化菩薩事は、我及十方仏、乃能知是事なり。唯仏与仏、乃能究尽、諸法実相なり。阿耨多羅三藐三菩提なり。しかあれば、菩薩諸仏の自謂も、自謂阿羅漢辟支仏者に一斉なるべし。そのゆゑはいかん。自謂すなはち聞知諸仏如来、但教化菩薩事なり。

古云、声聞経中、称阿羅漢、名為仏地(古に云く、声聞経の中には、阿羅漢を称じて、名づけて仏地となす)。

いまの道著、これ仏道の証明なり。論師胸臆の説のみにあらず、仏道の通軌あり。阿羅漢を称じて仏地とする道理をも参学すべし。仏地を称じて阿羅漢とする道理をも参学すべきなり。

阿羅漢果のほかに、一塵一法の剩法あらず、いはんや三藐三菩提あらんや。阿耨多羅三藐三菩提のほかに、さらに一塵一法の剩法あらず。いはんや四向四果あらんや。阿羅漢担来法の正当恁麼時、この諸法、まことに八両にあらず、半斤にあらず。不是心、不是仏、不是物なり。仏眼也覷不見なり。八万の前後を論ずべからず。抉出眼睛の力量を参学すべし。剩法は渾法剩なり。

釈迦牟尼仏言、是諸比丘比丘尼、自謂已得阿羅漢、是最後身、究竟涅槃、便不復志求阿耨多羅三藐三菩提。当知、此輩皆是増上慢人。所以者何、若有比丘、実得阿羅漢、若不信此法、無有是処(釈迦牟尼仏言く、是の諸の比丘比丘尼、自ら已に阿羅漢を得たり、是れ最後身なり、究竟涅槃なりと謂うて、便ち復た阿耨多羅三藐三菩提を志求せざらん。当に知るべし、此輩皆な是れ増上慢人なり。所以者何、若し比丘有つて、実に阿羅漢を得て、若し此の法を信ぜざらん、是の処有ること無けん)。

いはゆる阿耨多羅三藐三菩提を能信するを、阿羅漢と証す。必信此法は、附嘱此法なり、単伝此法なり、修証此法なり。実得阿羅漢は、是最後身、究竟涅槃にあらず、阿耨多羅三藐三菩提を志求するがゆゑに。志求阿耨多羅三藐三菩提は、弄眼睛なり、壁面打坐なり、面壁開眼なり。徧界なりといへども、神出鬼没なり。亙時なりといへども、互換投機なり。かくのごとくなるを、志求阿耨多羅三藐三菩提といふ。このゆゑに、志求阿羅漢なり。志求阿羅漢は、粥足飯足なり。

夾山圜悟禅師云、古人得旨之後、向深山茆茨石室、折脚鐺子煮飯喫十年二十年、大忘人世永謝塵寰。今時不敢望如此、但只韜名晦迹守本分、作箇骨律錐老衲、以自契所証、隨己力量受用。消遣旧業、融通宿習、或有余力、推以及人、結般若縁、練磨自己脚跟純熟。正如荒草裡撥剔一箇半箇。同知有、共脱生死、転益未来、以報仏祖深恩。抑不得已、霜露果熟、推将出世、応縁順適、開托人天、終不操心於有求。何況依倚貴勢、作流俗阿師、挙止欺凡罔聖、苟利図名、作無間業。縱無機縁、只恁度世亦無業果、真出塵羅漢耶

(夾山圜悟禅師云く、古人得旨の後、深山茆茨石室に向いて、折脚の鐺子もて飯を煮ぎて喫ふこと十年二十年、大きに人の世を忘れ永く塵寰を謝す。今時敢て此の如くなるを望まず、但只名を韜み迹を晦まして本分を守り、箇の骨律錐の老衲と作つて、以て自ら所証に契ひ、己が力量に隨つて受用せん。旧業を消遣し、宿習を融通し、或し余力有らば推して以て人に及ぼし、般若の縁を結び、自己の脚跟を練磨して純熟ならしめん。正に荒草裏に一箇半箇を撥剔するが如し。同じく有ることを知り、共に生死を脱し、転た未来を益し、以て仏祖の深恩に報ぜん。抑已むことを得ず、霜露果熟して、推して将て出世し、縁に応じて順適し、人天を開托して、終に心を有求に操らず。何に況んや貴勢に依倚し、流俗の阿師と作つて、挙止凡を欺き聖を罔みし、利を苟り名に図り、無間の業を作さんや。縱ひ機無からんにも、只だ恁く度世して亦た業果無き、真の出塵の羅漢ならん)。

しかあればすなはち、而今本色の衲僧、これ真出塵阿羅漢なり。阿羅漢の性相をしらんことは、かくのごとくしるべし。西天の論師等の言葉を妄計することなかれ。東地の圜悟禅師は、正伝の嫡嗣ある仏祖なり。

洪州百丈山大智禅師云、眼耳鼻舌身意、各々不貪染一切有無諸法、是名受持四句偈、亦名四果(洪州百丈山大智禅師云く、眼耳鼻舌身意、各々一切有無諸法に貪染せず、是を受持四句偈と名づけ、亦た四果と名づく)。

而今の自他にかかはれざる眼耳鼻舌身意、その頭正尾正、はかりきはむべからず。このゆゑに、渾身おのれづから不貪染なり、渾一切有無諸法に不貪染なり。受持四句偈、おのれづからの渾渾を不貪染といふ、これをまた四果となづく。四果は阿羅漢なり。

しかあれば、而今現成の眼耳鼻舌身意、すなはち阿羅漢なり。構本宗末、おのづから透脱なるべし。始到牢関なるは受持四句偈なり、すなはち四果なり。透頂透底、全体現成、さらに絲毫の遺漏あらざるなり。畢竟じて道取せん、作麼生道。いはゆる、

羅漢在凡、諸法教他罜礙。羅漢在聖、諸法教他解脱。須知、羅漢与諸法同参也。即証阿羅漢、被阿羅漢礙也。所以空王以前老拳頭也(羅漢凡に在るや、諸法他をして罜礙せしむ。羅漢聖に在るや、諸法他をして解脱せしむ。須らく知るべし、羅漢と諸法と同参なり。即に阿羅漢を証すれば、阿羅漢に礙へらる。所以に空王以前の老拳頭なり)。

正法眼蔵阿羅漢第三十六

爾時仁治三年壬寅夏五月十五日住于雍州宇治郡観音導利興聖宝林寺示衆
建治元年六月十六日書写之 懐奘

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