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『典座教訓』19、親心は無償の心

いわゆるろうしんとは、いわゆる老心とは、ふぼのこころなり。たとえば父母の心なり。たとえばふぼのいっしをおもうがごとく、父母の一子を念うがごとく、さんぼうをそんねんすること三宝を存念することいっしをおもうがごとくせよ。一子を念うが如くせよ。ひんじゃきゅうしゃ、あながちにいっしを貧者窮者、強に一子をあいいくす。そのこころざしいかん。愛育す。其の志如何。げにんしらず。ちちとなり外人識らず、父と作りははとなってまさにこれをしる。母と作って方に之を識る。じしんのひんぷをかえりみず、自身の貧富を顧みず、ひとえにわがこの偏えに吾が子のちょうだいならんことをおもう。長大ならんことを念う。おのさむきをかえりみず...
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『典座教訓』13、まず心をこめて行ずること

まことにそれとうしき、誠に夫れ当職、せんもんげんしょう、先聞現証、めにありみみにあり。眼に在り耳に在り。もじありどうりあり。文字有り道理有り。しょうてきというべきか。たとい正的と謂うべきか。縦いしゅくはんじゅうのなをかたじけのうせば粥飯頭の名を忝うせば、しんじゅつもまたこれにどうずべし、心術も亦之に同ずべし、『ぜんえんしんぎ』にいわく、『禅苑清規』に云く、「にじのしゅくはん、りすること「二時の粥飯、理することまさにせいほうなるべし。合に精豊なるべし。しじのくすべからくけっしょう四事の供すべからく闕少せしむることなかるべし。せしむること無かるべし。せそん20ねんのいおん、世尊二十年の遺恩、じそん...
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『典座教訓』10、他人のしたことは自分のしたことにならない

さんぞうてんどうにありしとき、山僧天童に在りし時、ほんぷのようてんぞしょくにみてりき。本府の用典座職に充てりき。よちなみにさいまかんでとうろうをすぎ予因みに斎罷んで東廊を過ぎちょうねんさいにおもむくのりょじ、超然斎に赴くの路次、てんぞぶつでんまえにあって典座仏殿前に在ってたいをさらす。苔を晒す。てにたけづえをかまえ、手に竹杖を携え、こうべにかたがさなし。頭に片笠無し。てんぴねっし、ちせんねっす。天日熱し、地甎熱す。かんりゅうはいかいすれども、汗流徘徊すれども、ちからをはげましてたいをさらす。力を励して苔を晒す。ややくしんをみる。せぼねゆみのごとく稍苦辛を見る。背骨弓の如くほうびはつるににたり。...
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『正法眼蔵随聞記』11、学道の人、参師聞法の時

示して云く、学道の人、参師聞法の時、能々窮めて聞き、重ねて聞いて決定すべし。問うべきを問わず、言うべきを言わずして過ごしなば、我が損なるべし。師は必ず弟子の問うを待って発言するなり。心得たる事をも、幾度も問うて決定すべきなり。師も、弟子によくよく心得たるかと問うて、云い聞かすべきなり。⇒ 続きを読む ⇒ 目次(はじめに戻る)※このページは学問的な正確性を追求するものではありません。前知識のない一般の方でも「読んでみよう!」と思ってもらえるよう、より分かりやすく読み進めるために編集しています。漢字をひらがなに、旧字体を新字体に、送り仮名を現代表記に、( )にふりがなをつけるなど、原文に忠実ではな...
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『正法眼蔵随聞記』10、唐の太宗の時

示して云く、唐の太宗の時、異国より千里の馬を献ず。帝これを得て喜ばずして、自ら思わく、「たとひ千里の馬なりとも、独り騎って千里に行くとも、従う臣なくんばその詮なきなり。」と。ちなみに魏徴を召してこれを問う。「帝の心と同じ。」と。依って彼の馬に金帛を負せて還さしむ。今は云く、帝なお身の用ならぬ物をば持たずして是れを還す。況んや衲子は衣鉢の外の物、決定して無用なるか。無用の物、是れを貯えて何かせん。俗なお一道を専らにする者は、田苑荘園等を持する事を要とせず。ただ一切の国土の人を百姓眷属とす。地相法橋子息に遺嘱するに、「ただ道を専らに励むべし。」と云えり。況んや仏子は、万事を捨て、専ら一事をたしなむ...
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『正法眼蔵随聞記』7、海中に龍門と云う処あり

示して云く、海中に龍門と云う処あり。浪しきりにうつなり。諸の魚、波の処を過ぐれば必ず龍となるなり。故に龍門と云うなり。今は云く、彼の処、浪も他処に異ならず、水も同じくしわはゆき水なり。しかれども定まれる不思議にて、魚この処を渡れば必ず龍と成るなり。魚の鱗もあらたまらず、身も同じ身ながら、たちまちに龍となるなり。衲子の儀式も是れをもて知るべし。処も他所に似たれども、叢林に入れば必ず仏となり祖となるなり。食も人と同じく食し、同じく服し、飢を除き寒を禦ぐ事も同じけれども、ただ頭を円にし衣を方にして斎粥等にすれば、たちまちに衲子となるなり。成仏作祖も遠く求むべからず。ただ叢林に入ると入らざるとなり。龍...
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『正法眼蔵随聞記』4、学道の人、衣食に労する事なかれ

雑話の次、示して云く、学道の人、衣食に労することなかれ。この国は辺地小国なりといえども、昔も今も顕密二道に名を得、後代にも人に知られたる人、いまだ一人も衣食に豊なりと云う事を聞かず。皆貧を忍び他事を忘れて一向にその道を好む時、その名をも得るなり。いわんや学道の人は、世度を捨てて走らず。何としてか豊かなるべき。大宋国の叢林には、末代なりといえども、学道の人千万人の中に、あるいは遠方より来り、あるいは郷土より出来るも、多分皆貧なり。しかれども愁えとせず、ただ悟道の未だしき事を愁えて、あるいは桜上もしくは閣下に、考妣を喪せるが如くにして道を思うなり。まのあたり見しは、西川の僧、遠方より来りし故に所持...
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『正法眼蔵随聞記』2、我れは病者なり、非器なり

示して云く、ある人の云く、「我れ病者なり、非器なり、学道にたえず。法門の最要を聞きて独住隠居して、性をやしない、病をたすけて、一生を終えん。」と云うに、示して云く、先聖必ずしも金骨にあらず、古人豈皆上器ならんや。滅後を思えばいくばくならず、在世を考うるに人々みな俊なるにあらず。善人もあり、悪人もあり、比丘衆の中に不可思議の悪行するもあり、最下品の器量もあり。しかれども、卑下して道心をおこさず、非器なりと云って学道せざるなし。今生もし学道修行せずは、何れの生にか器量の物となり、不病の者とならん。ただ身命を顧りみず発心修行する、学道の最要なり。⇒ 続きを読む ⇒ 目次(はじめに戻る)※このページは...
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『正法眼蔵随聞記』13、仏々祖々、皆本は凡夫なり

示して云く、仏々祖々皆本は凡夫なり。凡夫の時は必ず悪業もあり、悪心もあり。鈍もあり、癡もあり。然れども皆、改めて知識に従い、教行に依りしかば、皆仏祖と成りしなり。今の人も然るべし。我が身おろかなれば、鈍なればと卑下する事なかれ。今生に発心せずんば何の時をか待つべき。好むには必ず得べきなり。⇒ 続きを読む ⇒ 目次(はじめに戻る)※このページは学問的な正確性を追求するものではありません。前知識のない一般の方でも「読んでみよう!」と思ってもらえるよう、より分かりやすく読み進めるために編集しています。漢字をひらがなに、旧字体を新字体に、送り仮名を現代表記に、( )にふりがなをつけるなど、原文に忠実で...
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『正法眼蔵随聞記』57、得道の事は心をもて得るか

また云く、得道の事は心をもて得るか、身を以て得るか。教家等にも「身心一如」と云って、「身を以て得」とは云えども、なお「一如の故に」と云う。正しく身の得る事はたしかならず。今我が家は、身心ともに得るなり。その中に、心をもて仏法を計校する間は、万劫千生にも得べからず。心を放下して、知見解会を捨つる時、得るなり。見色明心、聞声悟道の如きも、なお身を得るなり。然れば、心の念慮知見を一向捨てて、只管打坐すれば、今少し道は親しみ得るなり。然れば道を得る事は、正しく身を以て得るなり。是れによりて坐を専らにすべしと覚ゆるなり。⇒ 続きを読む ⇒ 目次(はじめに戻る)※このページは学問的な正確性を追求するもので...
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『正法眼蔵随聞記』25、無常迅速なり、生死事大なり

示して云く、無常迅速なり、生死事大なり。しばらく存命の間、業を修し学を好まんには、ただ仏道を行じ仏法を学すべきなり。文筆詩歌等その詮なきなり。捨つべき道理左右に及ばず。仏法を学し仏道を修するにもなお多般を兼ね学すべからず。況んや教家の顕密の聖教、一向にさしおくべきなり。仏祖の言語すら多般を好み学すべからず。一事を専らにせん、鈍根劣器のものかなうべからず。況んや多事を兼ねて心想を調えざらん、不可なり。⇒ 続きを読む ⇒ 目次(はじめに戻る)※このページは学問的な正確性を追求するものではありません。前知識のない一般の方でも「読んでみよう!」と思ってもらえるよう、より分かりやすく読み進めるために編集...
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『正法眼蔵随聞記』46、学人問うて云く某甲なお学道心に繋けて

一日学人問うて云く、「某甲なを学道心に繋けて年月を運ぶといえども、いまだ省悟の分あらず。古人多く道う、聡明霊利に依らず、有知明敏をも用いずと。しかあれば、我が身下根劣智なればとて卑下すべきにもあらずと聞こえたり。もし故実用心の存ずべきようありや、如何。」示して云く、しかあり。有智高才を須いず霊利弁聡に頼らず。実の学道あやまりて盲聾癡人のごとくになれとすすむ。全く多聞高才を用いざるが故に下々劣器ときらうべからず。実の学道はやすかるべきなり。しかあれども、大宋国の叢林にも、一師の会下に数百千人の中に、実の得道得法の人はわずか一二なり。しかあれば、故実用心もあるべき事なり。今これを案ずるに、志の至る...
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『正法眼蔵随聞記』56、我れ大宋天童禅院に居せし時

また云く、我れ大宋天童禅院に居せし時、浄老住持の時は、宵は二更の三点まで坐禅し、曉は四更の二点三点よりおきて坐禅す。長老と共に僧堂裏に坐す。一夜も懈怠なし。その間、衆僧多く眠る。長老巡り行いて睡眠する僧をばあるいは拳を以て打ち、あるいはくつをぬいで打ち、恥しめ勧めて眠りを覚す。なお眠る時は照堂に行き、鐘を打ち、行者を召して蝋燭を燃しなんどして卒時に普説して云く、「僧堂裏に集まり居して徒らに眠りて何の用ぞ。然れば何ぞ出家入叢林する。見ずや、世間の帝王官人、何人か身をやすくする。王道を収め忠節を尽くし、乃至庶民は田を開き鍬をとるまでも、何人か身をやすくして世を過ごす。是れをのがれて叢林に入って虚く...
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『正法眼蔵随聞記』70、学人第一の用心は先ず我見を離るべし

また示して云く、学人第一の用心は、先ず我見を離るべし。我見を離るとは、この身を執すべからず。たとひ古人の語話を窮め、常坐鉄石の如くなりと雖も、この身に著して離れざらんは、万劫千生仏祖の道を得べからず。何に況んや権実の教法、顕密の聖教を悟得すと雖も、この身を執する之心を離れずは、徒らに他の宝を数えて自ら半銭之分なし。ただ請うらくは学人静坐して道理を以てこの身之始終を尋ぬべし。身躰髪膚は父母之二滴、一息に駐まりぬれば山野に離散して終に泥土となる。何を以ての故にか身を執せんや。況んや法を以て之れを見れば十八界之聚散、何の法をか定めて我身とせん。教内教外別なりと雖も、我身之始終不可得なる事、之れを以て...
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『正法眼蔵随聞記』85、学道の人は吾我のために仏法を学する事なかれ

示して云く、学道の人は吾我のために仏法を学する事なかれ。ただ仏法のために仏法を学すべきなり。その故実は、我が身心を一物ものこざず放下して、仏法の大海に廻向すべきなり。その後は一切の是非を管ずる事なく、我が心を存ずる事なく、成し難き事なりとも仏法につかわれて強いて是れをなし、我が心になしたき事なりとも、仏法の道理に為すべからざる事ならば放下すべきなり。あなかしこ、仏道修行の功をもて代わりに善果を得んと思う事なかれ。ただ一たび仏道に廻向しつる上は、二たび自己をかえりみず、仏法のおきてに任せて行じゆきて、私曲を存ずる事なかれ。先証皆是の如し。心に願いて求むる事なければ即ち大安楽なり。世間の人にまじわ...
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『正法眼蔵随聞記』92、古人多くは云く光陰虚しく度る事なかれ

示して云く、古人多くは云く、「光陰虚しく度る事なかれ。」と。あるいは云く、「時光、徒らに過ごす事なかれ。」と。学道の人、すべからく寸陰を惜しむべし。露命消えやすし、時光すみやかに移る。しばらく存ずる間に余事を管ずる事なく、ただすべからく道を学すべし。今の時の人、あるいは父母の恩捨て難しと云い、あるいは主君の命背き難しと云い、あるいは妻子の情愛離れ難しと云い、あるいは眷属等の活命我れを存じ難しと云い、あるいは世人謗つつべしと云い、あるいは貧しうして道具調え難しと云い、あるいは、非器にして学道にたえじと云う。是のごとき等の世情を巡らして、主君父母をも離れず、妻子眷属をもすてず、世情にしたがい、財色...
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『正法眼蔵随聞記』30、学道の人、衣粮を煩わす事なかれ

示して云く、学道の人、衣粮を煩わす事なかれ。ただ仏制を守って、心を世事に出す事なかれ。仏言く、「衣服に糞掃衣あり、食に常乞食あり。」と。いづれの世にかこの二事尽くる事有らん。無常迅速なるを忘れて徒らに世事に煩ふ事なかれ。露命のしばらく存ぜる間、ただ仏道を思うて余事を事とする事なかれ。ある人問うて云く、「名利の二道は捨離し難しと云えども、行道の大なる礙なれば捨てずんばあるべからず。故に是れを捨つ。衣粮の二事は小縁なりと云えども、行者の大事なり。糞掃衣、常乞食、是れは上根の所行、また是れ西天の風流なり。神丹の叢林には常住物等あり。故にその労なし。我が国の寺院には常住物なし。乞食の儀も即ち絶えたり、...
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『正法眼蔵随聞記』101、大慧禅師の云く

示して云く、大慧禅師の云く、「学道はすべからく人の千万貫銭をおえらんが、一文をも持たざらん時、せめられん時の心の如くすべし。もしこの心あらば、道を得る事やすし。」と云えり。信心銘に云く、「至道かたき事なし、ただ揀択を嫌う。」と。揀択の心を放下しつれば、直下に承当するなり。揀択の心を放下すと云うは、我を離るるなり。いわゆる我が身仏道をならん為に仏法を学する事なかれ。ただ仏法の為に仏法を行じゆくなり。たとひ千経万論を学し得、坐禅床をやぶるとも、この心無くは、仏祖の道を学し得べからず。ただすべからく身心を仏法の中に放下して、他に随うて旧見なければ、即ち直下に承当するなり。⇒ 続きを読む ⇒ 目次(は...
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『正法眼蔵随聞記』104、古人の云く百尺の竿頭にさらに一歩を進むべし

示して云く、古人の云く、「百尺の竿頭にさらに一歩を進むべし。」と。この心は、十丈の竿のさきにのぼりて、なお手足をはなちて即ち身心を放下せんが如し。是れについて重々の事あり。今の世の人、世をのがれ家を出たるに似れども、行履をかんがうれば、なを真の出家にてはなきもあり。いはゆる出家と云うは、先ず吾我名利を離るべきなり。是れを離れずしては、行道頭燃を払い、精進手足をきれども、ただ無理の勤苦のみにて、出離にあらざるもあり。大宋国にも離れ難き恩愛を離れ、捨て難き世財を捨てて、叢林に交わり、祖席をふれども、審細にこの故実を知らずして行じゆくによりて、道をも悟らず、心をも明らめずしていたずらに一期をすぐすも...
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『正法眼蔵随聞記』106、学人各々知るべし

示して云く、学人各々知るべし、人々一の非あり、憍奢是れ第一の非なり。内外の典籍に同じく是れをいましむ。外典に云く、「貧しくしてへつらわざるはあれども、富みておごらざるはなし。」と云って、なお富を制しておごらざる事を思うなり。この事大事なり。よくよく是れを思うべし。我が身下賤にして人におとらじと思い、人に勝れんと思わば憍慢のはなはだしきものなり。是れはいましめやすし。仮令世間に財宝に豊かに、福力もある人、眷属も囲繞し、人もゆるす、かたわらの人のいやしきが、これを見て卑下する、このかたわらの人の卑下をつつしみて、自躰福力の人、いかようにかかすべき。憍心なけれども、ありのままにふるまえば、傍らの賤し...
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『正法眼蔵随聞記』80、俗人の云く城を傾くる事は

示して云く、俗人の云く、「城を傾くる事は、うちにささやき事出来るによる。」また云く、「家に両言有る時は針をも買ふ事なし。家に両言無き時は金をも買うべし。」と。俗人なお家をもち城を守るに同心ならでは終にほろぶと云えり。況んや出家人は、一師にして水乳の和合せるが如し。また六和敬の法あり。各々寮々を構えて心身を隔て、心々に学道の用心する事なかれ。一船に乗って海を渡るが如し。心を同じくし、威儀を同じくし、互いに非をあげ是をとりて、同じく学道すべきなり。是れ仏在世より行じ来れる儀式なり。⇒ 続きを読む ⇒ 目次(はじめに戻る)※このページは学問的な正確性を追求するものではありません。前知識のない一般の方...
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『正法眼蔵随聞記』27、祖席に禅話を覚り得る故実

夜話に云く、祖席に禅話を覚り得る故実は、我が本より知り思う心を、次第に知識の言に随って改めて去くなり。仮令仏と云うは、我が本知ったるようは、相好光明具足し、説法利生の徳ありし釈迦弥陀等を仏と知ったりとも、知識もし仏と云うは蝦蟆蚯蚓ぞと云わば、蝦蟆蚯蚓を、是れらを仏と信じて、日比の知恵を捨つるなり。この蚯蚓の上に仏の相好光明、種々の仏の所具の徳を求むるもなお情見あらたまらざるなり。ただ当時の見ゆる処を仏と知るなり。もし是の如く言に従って、情見本執をあらためてもて去けば、自ら合う処あるべきなり。然るに近代の学者、自らが情見を執して、己見にたがう時は、仏とはとこそあるべけれ、また我が存ずるようにたが...
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『正法眼蔵随聞記』97、世間の人自ら云く

一日示して云く、世間の人、自ら云く、「某甲師の言を聞くに、我が心にかなわず。」と。我れ思うに、この言は非なり。その心如何。もし聖教等の道理を心得をし、全てその心に違する、非なりと思うか。もし然らば、何ぞ師に問う。またひごろの情見をもて云うか。もし然らば、無始より以来の妄念なり。学道の用心と云うは、我が心にたがえども、師の言、聖教の言葉ならば、暫くそれに随って、本の我見を捨てて改めゆく、この心、学道の故実なり。我れ当年傍輩の中に我見を執して知識をとぶらいし、我が心に違するをば、心得ずと云って、我見に相叶うをば執して、一生虚しく仏法を会せざりしを見て、知発して、学道は然るべからずと思うて、師の言に...
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『正法眼蔵随聞記』98、人の心元より善悪なし

一日雑話の次に云く、人の心元より善悪なし。善悪は縁に随っておこる。仮令、人発心して山林に入る時は、林家はよし、人間はわるしと覚ゆ。また退心して山林を出る時は、山林はわるしと覚ゆ。是れ即ち決定して心に定相なくして、縁にひかれて兎も角もなるなり。故に善縁にあえばよくなり、悪縁に近づけばわるくなるなり。我が心本よりわるしと思うことなかれ。ただ善縁に随うべきなり。また云く、人の心は決定人の言に随うと存ず。大論に云く、「喩えば愚人の手に摩尼を以てるが如し。是れを見て、『汝下劣なり、自ら手に物をもてり。』と云うを聞いて思わく、『珠は惜しし、名聞は有り。我れは下劣ならじ。』と思う。思いわずらいて、なお名聞に...
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『正法眼蔵随聞記』38、唐の太宗の時

夜話に云く、唐の太宗の時、魏徴奏して云く、「土民、帝を謗ずる事あり。」帝の云く、「寡人仁あって人に謗ぜられば愁と為すべからず。仁無くして人に褒められばこれを愁うべし。」と。俗なお是の如し。僧はもっともこの心あるべし。慈悲あり、道心ありて愚癡人に謗ぜられそしらるるは苦しかるべからず、無道心にして人に有道と思われん、是れを能々慎むべし。また示して云く、隋の文帝の云く、「密々の徳を修してあぐるをまつ。」と。言う心は、よき道徳を修してあぐるをまちて民をいつくしうするとなり。僧なお及ばざらん、もっとも用心すべきなり。ただ内々に道業を修せば自然に道徳外に露るべし。自ら道心道徳外に露れ人に知られん事を期せず...
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『正法眼蔵随聞記』14、俗の帝道の故実を言うに

示して云く、俗の帝道の故実を言うに云く、「虚襟にあらざれば忠言をいれず。」と。言は、己見を存ぜずして、忠臣の言に随って、道理にまかせて帝道を行なうなり。衲子の学道の故実もまたかくのごとくなるべし。もし己見を存ぜば、師の言耳に入らざるなり。師の言耳に入らざれば、師の法を得ざるなり。また、ただ法門の異見を忘るるのみにあらず、また世事を返して、飢寒等を忘れて、一向に身心を清めて聞く時、親しく聞くにてあるなり。かくのごとく聞く時、道理も不審も明らめらるるなり。真実の得道と云うも、従来の身心を放下して、ただ直下に他に随い行けば、即ち実の道人にてあるなり。これ第一の故実なり。⇒ 続きを読む ⇒ 目次(はじ...
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『正法眼蔵随聞記』60、世人を見るに果報もよく

夜話に云く、世人を見るに果報もよく、家をも起こす人は、皆正直に、人の為にもよきなり。故に家をも持ち、子孫までも絶えざるなり。心に曲節あり人の為にあしき人は、たとひ一旦は果報もよく、家をたもてるようなれども、始終あしきなり。たとひまた一期はよくてすぐせども、子孫未だ必ずしも吉ならざるなり。また人のために善き事を為して、彼の主に善しと思われ悦びられんと思うてするは、悪しきに比すれば勝れたれども、なお是れは自身を思うて、人のために実に善きにあらざるなり。主には知られずとも、人のためにうしろやすく、乃至未来の事、誰がためと思わざれども、人のためによからん料の事を作し置きなんどするを、真に人のため善きと...
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『正法眼蔵随聞記』33、もし人来って用事を云う中に

夜話に云く、もし人来って用事を云う中に、あるいは人に物を乞い、あるいは訴訟等の事をも云わんとて、一通の状をも所望する事出来有るに、その時、我は非人なり、遁世籠居の身なれば、在家等の人に非分の事を謂わんは非なりとて、眼前の人の所望を叶えぬは、その時に臨み思量すべきなり。実に非人の法には似たれども、然有らず。その心中をさぐるに、なお我れは遁世非人なり、非分の事を人に云はば人定めて悪しく思いてんと云う道理を思うて聞かざらんは、なお是れ我執名聞なり。ただ眼前の人の為に、一分の利益は為すべからんをば、人の悪しく思わん事を顧みず為すべきなり。このこと非分なり、悪しとてうとみもし、中をも違わんも、是のごとき...
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『正法眼蔵随聞記』49、学人は必ずしも死ぬべき事を思うべし

夜話に云く、学人は必ずしも死ぬべき事を思うべし。道理は勿論なれども、たとえばその言は思わずとも、しばらく先ず光陰を徒らにすぐさじと思うて、無用の事をなして徒らに時をすぐさで、詮ある事をなして時をすぐすべきなり。その為すべき事の中に、また一切の事、いづれか大切なると云うに、仏祖の行履の外は皆無用なりと知るべし。⇒ 続きを読む ⇒ 目次(はじめに戻る)※このページは学問的な正確性を追求するものではありません。前知識のない一般の方でも「読んでみよう!」と思ってもらえるよう、より分かりやすく読み進めるために編集しています。漢字をひらがなに、旧字体を新字体に、送り仮名を現代表記に、( )にふりがなをつけ...
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『正法眼蔵随聞記』52、人の鈍根と云うは、志の到らざる時の事なり

一日示して云く、人の鈍根と云うは、志の到らざる時の事なり。世間の人、馬より落つる時、いまだ地に落ちざる間に種々の思い起る。身をも損じ、命をも失するほどの大事出来たる時、誰人も才覚念慮を起こすなり。その時は、利根も鈍根も同じく物を思い、義を案ずるなり。然れば、明目死に、今夜死ぬべしと思い、あさましき事に逢うたる思いをなして切に励み、志をすすむるに、悟りをえずと云う事なきなり。中々世智弁聡なるよりも、鈍根なるようにて切なる志を出す人、速やかに悟りを得るなり。如来在世の周梨槃特は、一偈を読誦する事は難かりしかども、根性切なるによりて一夏に証を取りき。ただ今ばかり我が命は存ずるなり。死なざる先に悟りを...
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『正法眼蔵随聞記』107、学道の最要は坐禅これ第一なり

示して云く、学道の最要は坐禅これ第一なり。大宋の人多く得道する事、皆坐禅の力なり。一文不通にて無才愚鈍の人も、坐禅を専らにすれば、多年の久学聡明の人にも勝れて出来する。然れば、学人祇管打坐して他を管ずる事なかれ。仏祖の道はただ坐禅なり。他事に順ずべからず。奘問うて云く、打坐と看語とならべて是れを学するに、語録公案等を見るには、百千に一つはいささか心得られざるかと覚ゆる事も出来る。坐禅はそれほどの事もなし。然れどもなお坐禅を好むべきか。示して云く、公案話頭を見て聊か知覚あるようなりとも、それは仏祖の道にとおざかる因縁なり。無所得、無所悟にて端坐して時を移さば、即ち祖道なるべし。古人も看語、祇管坐...
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『正法眼蔵随聞記』59、世間の女房なんどだにも

ある時、比丘尼云く、「世間の女房なんどだにも、仏法とて学すれば、比丘尼の身には少々の不可ありとも何で叶わざるべきと覚ゆ。如何。」と云いし時、示して云く、この義然るべからず。在家の女人その身ながら仏法を学んで得る事はありとも、出家の人の出家の心なからんは得べからず。仏法の人をえらぶにはあらず、人の仏法に入らざればなり。出家在家の儀、その心殊なるべし。在家人の出家の心あらば出離すべし。出家人の在家の心あらば二重の僻事なり。用心殊なるべき事なり。作す事の難きにはあらず。よくする事の難きなり。出離得道の行は、人ごとに心にかけたるに似たれども、よくする人の難きなり。生死事大なり、無常迅速なり。心をゆるく...