法要

布薩法要(満月/新月に実施)

布薩(ふさつ)とは、初期仏教の頃からあった行事で、満月と新月の日に一堂に会して戒律の条項を読み、罪を懺悔する反省の日です。布薩(ウポーサタ)とは、主要な行動を起こすために準備をすることが元々の意味でした。詳しくはリンク先をご確認ください。初期仏教の頃からあった行事ですが、現代も伝統仏教に伝えられ、15日、月末等の日を定めて広布薩(こうふさつ)、略布薩(りゃくふさつ)等の名称で行われる寺院もありますが、儀式/形式が重視されて、罪を懺悔する反省の日という一人ひとりにとって有益な部分が抜け落ちていると危惧しています。そこで、一般の方も、僧侶の方も、個人各人が布薩/反省の日に向き合うきっかけになるよう...
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ブッダプールニマー(2025年は5月13日/火曜日)

ブッダプールニマーとは、上座部仏教圏(南伝仏教)でお釈迦様の降誕の日ならびに成道の日、涅槃の日として祝福される日です。ヴァイシャーカ月(4月中旬~5月中旬/「第2の月」)の満月に祝福されることから、ヴェーサーカとも呼ばれる他、ブッダ・ジャヤンティーとも呼ばれます。ブッダプールニマーは、インド、ネパール、シンガポール、ベトナム、タイ、カンボジア、スリランカ、ミャンマー、バングラデシュ、インドネシアなど、上座部仏教の仏教徒が多く暮らす国々を中心に、世界中で祝福されます。多くの場合、祝日で休みになります。私がクシナガラに滞在していた時には、ブッダプールニマーに因み、涅槃堂近くに特設テントが設けられ、...
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仏教用語/人物集 索引

このウェブサイトに出てくる仏教用語/人物を五十音順で探すことが出来ます。
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菩提樹(ぼだいじゅ)

菩提樹はインドで古くからピッパラと呼ばれ聖木として扱われてきた樹の一つです。シッダッタがこの樹下で、坐禅を組んで全宇宙の真理(菩提)を悟り、ブッダとなったことから、後に悟りの樹、菩提樹(ボーディ・ブリクシャ)と呼ばれるようになりました。また、三大聖木の一つです。この写真はブッダガヤにある菩提樹です。この菩提樹のことを知る人に詳しく聞きましたが、この菩提樹は4代目だそうです。仏教にとって聖なる樹であっても、異教徒にとってはそうでない場合もあり、切り倒されてしまったこともあったようです。今ではその周りには坐禅をする人、お経を唱える人、観光に来た人、あらゆる人が常にいました。ここが仏教にとっての聖地...
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ブッダガヤ – ブッダが悟りを開いた地(仏陀伽邪)

ブッダガヤはブッダが悟りを開いた地として仏教の四大聖地および八大聖地の一つに数えられます。この一帯には悟りを開いた場所であるブッダガヤの菩提樹(マハーボディー寺院・大菩提寺境内)、苦行を放棄したあとに沐浴(もくよく)したネーランジャラー川(尼連禅河)、乳粥供養を受ける切っ掛けとなったスジャータ村のガジュマルなどの旧跡があります。また、ウルヴェーラの苦行林(前正覚山)はそこから北東約7kmほどという位置関係です。<< 戻る
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ブッダ最後の旅に登場する民族

『ブッダ最後の旅』に登場する民族をまとめました。① ヴァッジ族マガダ国王アジャータシャトル(阿闍世)は、ヴァッジ族を征服しようと考えていた際、マガダ国の大臣であるヴァッサカーラというバラモンを使いに出し、ブッダにアドバイスを求めたところブッダは次のように答えました。「バラモンよ。かつてある時、わたくしがヴァイシャリのサーランダダ霊域に住んでいた。そこで、わたくしはヴァッジ人に衰亡を来たさないための法を説いた。この七つがヴァッジ人の間に存し、またヴァッジ人がこの七つを守っているのが見られる限りは、ヴァッジ人に繫栄が期待せられ、衰亡は無いであろう。」また、旅の途中、パータリ村に滞在した際、マガダ国...
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ブッダ最後の旅の登場人物

『ブッダ最後の旅』に登場する主な人物についてまとめました。紹介する人物以外にも話の中で人物名が出てきたり、○○村の信者という形で登場したり、多くの人々が登場している話です。① ブッダ(お釈迦様)この『ブッダ最後の旅』はお釈迦様の涅槃にいたるまでの記録です。最後にどのような様子だったのか、最後にどのような説法を行なったのか、時系列で記されています。② アーナンダ(阿難)アーナンダは25歳の時に出家し、ブッダが涅槃に入るまで25年間常に侍者として、身の回りの世話を行いました。この『ブッダ最後の旅』はアーナンダが見聞きしたことが記録されています。③ アジャータシャトル(阿闍世)アジャータシャトルは古...
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ブッダ最後の旅程

『ブッダ最後の旅』でお釈迦様がたどった地域をまとめました。ブッダ最後の旅程① 霊鷲山/王舎城(ラージャグリハ)の鷲の峰② アンバラッティカー園(庵婆蘗林/Ambalatthikā)③ ナーランダ/富商パーヴァーリカのマンゴー林④ パータリ村(現在のビハール州の州都パトナ)⑤ マガダ国の大臣スニーダとヴァッサカーラの住居⑥ ゴータマの渡し/ガンジス河を渡る⑦ コーティ村⑧ ナーディカ村⑨ ヴァイシャリ(商業都市)/アンバパーリのマンゴー林⑩ ベールヴァ村(雨期の定住)/発病⑪ チャーパーラ霊樹/大地震⑫ 大きな林にある重閣講堂(ヴァイシャリ近郊)⑬ バンダ村⑭ ハッティ村⑮ アンバ村⑯ ジャンブ...
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仏塔(ぶっとう)- ストゥーパ

仏塔とは、仏教寺院においてお釈迦様の遺骨である仏舎利を納めるために建造された塔のことです。世界最古の木造塔は法隆寺の五重塔ですが、その基壇中央部にある心柱の基部には仏舎利容器が納められています。仏舎利は瑠璃の小壷に納められ、これを純金の器に入れ、さらに銀器に入れて銅碗の中に置き、瑠璃小玉葡萄鏡と共に孔中に安置し、銅板のふたがされています。これは仏舎利についての一例ですが、詳細が分からないことが多い中で貴重な例だと考えられます。なお、七堂伽藍の一つに数えられます。仏塔のことを梵語ではストゥーパといい「塚」を意味します。「塔」の名は、ストゥーパを音訳した卒塔婆(そとば)・塔婆(とうば)を略したもの...
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布薩(ふさつ)‐ ウポーサタ

布薩(ウポーサタ)とは、主要な行動を起こすために準備をすることが元々の意味です。布薩の日には、一堂に会して戒律の条項を読み、罪を懺悔します。布薩はウポーサタの音写です。伝説によると、仏教の初期において、ビンビサーラ王の勧めにより布薩の行事を取り入れ、時代によってその内容は変更を重ねています。▶ 布薩法要(満月/新月に実施)出家者の布薩は半月に1回、満月と新月の日に行いましたが、最も主要なものは満月の日に行いました。一堂に会して戒律の条項を読み、罪を懺悔します。在家信者の布薩は半月に3回、行いました。その日に八つの戒めを守り、説法を聞き、断食し、出家者に食物を給します。(詳細は下記にて)以上の布...
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清浄な罰(ブラフマ・ダンダ)

清浄な罰(ブラフマ・ダンダ)とは、『ブッダ最後の旅【 第6章 】23、臨終のことば』に登場する初期仏教教団にあった修行僧に対する罰で、罰を受ける者は、自分の欲することを何でも言ってもいい反面、その他の修行僧たちは、罰を受ける者に話しかけてはならないし、訓戒してはならないし、教えさとしてはならないというものです。上記出典先では、チャンナという修行僧は、気難しく、かたくなで、仏教教団の内部にあっても他人と協力せず、摩擦や抗争を起こしたことから、清浄な罰を受け、その後は人格も円熟したと言われています。清浄な罰の開始およびいつまで実施されるかは、本人や関わる範囲の修行僧たちに共有されたと考えられていま...
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スッタニパータ – ブッダの言葉

かの尊き師・尊き人、覚った人に礼したてまつる。【 第1 蛇の章 】1、蛇1 身体に蛇の毒がひろがるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者(比丘)は、この世とかの世とをともに捨て去る。蛇が脱皮してふるい皮を捨て去るように。2 池の蓮華を水にもぐって折り取るように、愛欲を断ってしまった修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。 蛇が脱皮してふるい皮を捨て去るように。3 流れる妄執の水をからし尽くした修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。蛇が脱皮してふるい皮を捨て去るように。4 激流が弱々しい葦の橋を壊すように、すっかり驕慢を滅し尽くした修行者は、この世とかの世とをともに捨て去...
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不自讃毀他戒(ふじさんきたかい)

不自讃毀他戒とは、自分をほめて他人をそしってはならないということ。初期仏教の頃からその趣旨は言われるが、不自讃毀他戒とは後代になって漢訳仏典に出てくる言葉。十重禁戒の一つ。・「自分をほめたたえ、他人を軽蔑し、みずからの慢心のために卑しくなった人、彼を賤しい人であると知れ。」(スッタニパータ 132偈)・「あなたの第八の軍隊はみせかけと強情と、誤って得られた利得と名声と尊敬と名誉と、また自己をほめたたえて他人を軽蔑することである。」(スッタニパータ 437-438偈)・「第七、不自讃毀他。汝従今身至仏身、此戒能持否(汝、今身より仏身に至るまで、此の戒能く持つや否や)。」(「正法眼蔵」受戒)兄弟子...
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『法句経』ダンマパダ – ブッダ 真理の言葉

かの尊師・真人・正しく覚った人に敬礼したてまつる。【 第1章 ひと組みずつ 】1 物事は心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人につき従う。車をひく牛の足跡に車輪がついて行くように。2 物事は心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人につき従う。影がそのからだから離れないように。3 「彼は、我を罵った。彼は、我を害した。彼は、我に打ち勝った。彼は、我から強奪した。」という思いをいだく人には、怨みはついにやむことがない。4 「彼は、我を罵った。彼は、我を害した...
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仏女(ぶつじょ)- 仏教女子、仏像女子

仏女とは、仏像の鑑賞を楽しんだり、お寺の空間に癒されたり、お寺を巡ったり、座禅やマインドフルフルネス、寺ヨガ、写経、宿坊に泊まるといった仏教修行体験など、仏教的な物事を好む女性が目立つようになったことから、社会現象となり生まれた造語で、仏教女子または仏像女子の略語です。信者や檀家が加わっている場合もあると考えられますが、その所属を前提としない活動をさします。2008年に生まれた「歴女」(れきじょ)という言葉と同様の発想で誕生し、2009年頃からメディアでも使われ始めたといわれます。<< 戻る
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不休息菩薩(ふきゅうそくぼさつ)

不休息菩薩とは、言葉の通り休む暇なく道を求めるという意味で、 Aniksiptadhura(アニクシプタドゥラ)の音写です。<< 戻る
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仏舎利(ぶっしゃり)- ブッダの遺骨の分配

仏舎利とは、お釈迦様(ブッダ)がクシナガラで入滅し荼毘(だび)に付された際の遺骨のことです。また、その際に出た灰をも含まれる場合があります。舎利は梵語ではシャリーラといい「遺骨」「遺体」「肉体」を意味します。荼毘に付された後、その遺骨を分けて欲しいと7種族が申し出ました。しかし、クシナガラに住むマッラ族は「我々の住む土地でブッダはお亡くなりになられたのだから、一部分をも分け与えない」と言いました。それに対して、ドーナ・バラモン(コーリヤ族)が次のようなことを言いました。「我らのブッダは耐え忍ぶことを説くかたでありました。最上の人の遺骨を分配する為に争うのはよくありません。我らはともに喜び合って...
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不動明王(ふどうみょうおう)

不動明王とは、梵語ではアチャラ・ナータと呼ばれ、アチャラとは山のように動かないこと、ナータとは守護者・尊のことで、全体としては「揺るぎなき守護者」の意味を持ちます。五大明王・八大明王の一つに数えられ、大日大聖不動明王、無動明王、無動尊、不動尊ともいいます。また、ヒンドゥー教のシヴァ神の別名でもあり、大日如来の化身とされます。姿は肥満した童子形で憤怒相を示し、身色は赤・黄・青黒色のいずれかです(写真の不動明王は青不動)。右手に宝剣、利剣、三鈷剣などを持ち、左手に羅索(けんさく)を持つものが多いようです。頭頂を七莎髻(ななしゃけい)に結び、頂上に八葉の蓮花をのせ、左肩に一弁髪を下げ、牙を出していま...
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仏足石(ぶっそくせき)

ブッダが涅槃に入ってから、何を信仰対象にすればいいか人々は考えました。ブッダの教えに対する信仰はあったのですが、より分かりやすく伝えるためにはどうしたらいいのか?ブッダの教えで「自燈明、法燈明」があり、その言葉は「私が亡くなった後は自分自身にある仏法を拠り所にしなさい」と言いましたが、実際に残された人々は次第に迷い、悩み、救いを求めるようになったのです。そして、仏法への理解を助けるためにも、出来ることなら形で見える信仰対象が欲しいと求めたのでした。初期仏教では仏舎利(ブッダの遺骨)への信仰が中心でしたが、次第にブッダの足型を刻んだ仏足石【写真】、法輪(ほうりん)、ストゥーパ(塔)、菩提樹(ぼだ...
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仏殿(ぶつでん)

仏教寺院において仏像を安置し、礼拝供養するための建物を一般的に仏堂(ぶつどう)と呼び、その中でも中心となる仏堂を一般的に本堂といいます。釈迦如来を本尊としている曹洞宗・臨済宗・黄檗宗などの禅宗寺院では、中心となる本堂を仏殿、大雄寶殿(だいゆうほうでん・だいおうほうでん)と呼ばれる場合が多くあります。仏殿、大雄寶殿は七堂伽藍の中心部に配置されています。なお、東大寺大仏殿など、禅宗寺院以外でも仏殿と呼ばれる建物は多くあります。一般的な仏殿の外観の特徴としては、小さな斗(ます)や肘木(ひじき)を整然と積み上げ、周囲に幅の狭い裳階(もこし)を巡らして、全体的に背丈の高い外観を作り出していることがあげら...
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風神(ふうじん)

風神とは、古代インドの自然現象を神格化した原初的な神で、梵語で「風」を意味する「ヴァーユ」などと呼ばれ、仏教に取り入れられてからは千手観音菩薩の眷属である二十八部衆の傍らに雷神と対になって表現される場合が多いようです。風神は持物である風袋を肩より上方、あるいは頭上にささげる裸の力士形に表現されています。また、十二天(じゅうにてん)の一つとして、風天(ふうてん)とも呼ばれます。<< 戻る
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仏性(ぶっしょう)

仏性とは、生命ある全てのものが持つ仏の性質や仏になり得る原因・可能性のことで、 主に『涅槃経』で説かれる大乗仏教独特の教理です。覚性(かくしょう)とも訳されます。 時代や地域、宗派によって、その考え方は様々に発展され、現在は統一見解と呼べるものはありません。一般的には、誰もが仏性を備えていて、修行することで隠れている仏性が発揮されることで、煩悩が残された状態であっても全ての苦しみに煩わされることなく、また他の衆生の苦しみをも救っていける境涯を開くことが出来るとされます。この仏性が活用されている状態を成仏と呼び、仏法修行の究極の目的とされています。浄土真宗の宗祖とされる親鸞はいくら修行をしても自...
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分骨証明書(ぶんこつしょうめいしょ)

分骨証明書とは、2ケ所以上に埋葬・納骨する場合に必要になります。火葬場で分骨する場合は火葬場で、または、自治体で発行してもらいます。なお、これらの手続き方法は自治体によって異なることがあるので、最終的には最寄りの自治体の仕組みを確認する必要があります。また、分骨証明書などを紛失してしまうと再発行が有料になります。・死亡届、死亡診断書 死亡が確認されたあと、医師に作成してもらう。  ↓ 故人の住所地の自治体に提出・火葬許可証 死亡届、死亡診断書を自治体に提出すると発行される。  ↓ 火葬の手続きが行える・埋葬許可証 火葬が済んだことが記されると埋葬許可証になる。  ↓ 遺骨を埋葬・納骨する際に寺...
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ヴァイシャリ – ブッダ最後の旅の出発地(毘舎離)

ヴァイシャリはブッダの最後の旅の出発地として仏教の八大聖地の一つに数えられます。古代インドの十六大国の1つヴァッジ国内にあった商業都市です。仏教僧団を意味する「サンガ」(僧伽)という言葉は、元々はこの地域に発生した商工業者の同業組合や共和制を意味する言葉でした。ヴェーサーリ、ヴェーサーリーという表記もここを指します。ブッダが最後の旅立ちが近づいたことを示唆する説法を始めて行われた場所には、ブッダのために猿が掘ったと言われる沐浴池ラーマ・クンドがあります。そのそばにはアショーカ王石柱があり、完全な姿のまま残っています。そこで第二結集も行われました。ブッダが最後の旅立ちに出発するとき、ケサリヤとい...
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仏堂(ぶつどう)

仏教寺院において仏像を安置し、礼拝供養するための建物を一般的に仏堂と呼び、その中でも中心となる仏堂を一般的に本堂といい、金堂(こんどう)、仏殿(ぶつでん)とも呼ばれます。他にも、仏堂は寺院境内に多数建立される場合も多く、安置する仏像の名称などによって、金堂、仏殿、釈迦堂、薬師堂、阿弥陀堂、観音堂、文殊堂、地蔵堂など様々な名称で呼ばれます。(總持寺 仏殿)<< 戻る
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富單那(ふたんな)

富單那とは、四天王眷属の八部鬼衆の一つで、臭餓鬼(しゅうがき)という訳名があります。インド神話においてはブータといい、熱病をもたらす鬼です。また、集団の名であり、個別の神をさすものではありません。西方を守護する広目天の眷属です。富單那のことを知るために、さらにインドに伝わるブータのことを確認すると、事故死、自殺、刑死などで急死しプレータ(薜茘多)と呼ばれる浮遊霊となった死者は、死後11日目に跡取り息子によって供養されなければ家を守護する祖霊ピトリとなることができず、墓地で排泄物や腸を食べ、たまに人間を騙してその肉を食らうようになります。ブータは傲慢であり、人の話に全く耳を傾けず、襲われた人間は...
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福禄寿(ふくろくじゅ)

福禄寿とは、長寿と福禄をもたらすと言われる宋(中国)の道教の道士・天南星の化身、または、道教の神・南極老人(南極老人星・カノープス)の化身を現わしていると考えられています。また、七福神に加えられています。道教で強く求められる3種の願いがあり、幸福(この場合、血のつながった実の子に恵まれること)、封禄(財産のこと)、長寿(健康を伴う長寿)の三徳を具現化したものとされ、七福神の寿老人と同体異名の神とされることもあります。この短身、長頭、美しい髭を貯えた老人の持つ杖の頭には、経巻が結び付けられ、白鶴をともなっています。この経巻は、人の寿命をしめし、この福、禄、寿の三徳を兼ね備えた人は、人望のある人と...
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普賢菩薩(ふげんぼさつ)

普賢菩薩とは、理性と慈悲や修行の徳をつかさどる大乗仏教の菩薩です。女人成仏を説く『妙法蓮華経普賢菩薩勧発品』に登場することから、女性の信仰を多く集めました。梵名をサマンタ・バドラといい、意訳して、「普く賢い者」の意味である普賢となりました。また、金剛手菩薩(こんごうしゅぼさつ)などともいいます。その姿は、六牙の白象に蓮華座を乗せ、結跏趺坐(けっかふざ)して合掌して乗っている造形が描かれることが多いです。その他、左手に宝剣を立てた蓮茎や五鈷鈴を持ち、右手に五鈷杵を持つ姿で表される他、如意や蓮華、経典を手に持つ姿もあります。単独で安置されることや、釈迦三尊の脇侍として、向かって左に安置されることや...
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不空羂索観音菩薩(ふくうけんさくかんのんぼさつ)

不空羂索観音菩薩は、不空羂索観音、不空羂索観世音菩薩などとも呼ばれ、読み方は「ふくうけんさく」「ふくうけんじゃく」の2通りあります。サンスクリット(梵語)では、アモーガ・パーシャ・アヴァローキテーシュヴァラ・ボーディサットヴァといい、アモーガ「不空」とは文字通り「むなしからず」の意味で、パーシャ「羂索 」とは一切衆生を仏法へと導く象徴とされる縄状の仏具です。「野獣の毛皮をまとうこと」など、シヴァ神と共通する点もあり、インドでヒンドゥーの影響を受けて成立したと考えられています。人々の苦悩に応じて大慈悲を行ずるところから千変万化の相となる観世音菩薩の変化身(へんげしん)の1つであり、姿の特徴として...
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俯して視る

俯して視る(ふしてみる)とは、初期仏教の時代、仏教に限るわけではなく修行者が、歩きながら虫を踏むことのないように注意すること。謙遜の意味ではなく、脚下照顧という趣旨でもない。・「俯して視、とめどなくうつろうことなく、諸々の感官を防いで守り、心を護り慎しみ、煩悩の流れ出ることなく、煩悩の火に焼かれることもなく、サイの角のようにただ独り歩め。」(スッタニパータ 63偈)<< 戻る
人物

プーラナ・カッサパ(不蘭那迦葉)

プーラナ・カッサパは『スッタニパータ【第3 大いなる章】6、サビヤ』に登場する仏教の側から見て異端だと見なされた六師外道の1人です。プーラナ・カッサパは、無道徳論、道徳否定論者で、善行も悪行もなく、善悪いずれの報いも存在しないと主張していました。<< 戻る
人物

学生プンナカ

学生プンナカは『スッタニパータ【第5 彼岸にいたる道の章】4、学生プンナカの質問』内に登場するバーヴァリ・バラモンの弟子で、お釈迦様に質問します。<< 戻る