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龍口法難

文永8(1271)年9月12日、幕府や諸宗を批判したとして捕らえられ、腰越龍ノ口刑場にて処刑されかけますが、斬首の刑は中止され、その後、佐渡流罪となりました。<< 戻る
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平清盛(たいらのきよもり)

平安時代末期の日本の武将で公卿。 伊勢平氏の棟梁・平忠盛の嫡男として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で最終的な勝利者となり、武士として初の太政大臣。日宋貿易によって財政基盤の開拓を行い、宋銭を日本国内で流通させ通貨経済の基礎を築き、日本初の武家政権を打ち立てた(平氏政権)。平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、治承三年の政変で法皇を幽閉して徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握るが、平氏の独裁は公家・寺社・武士などから大きな反発を受け、源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、熱病で没した。生誕 永久6年1月18日(ユリウス暦1118年2月10日、グレゴリオ暦11...
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丹霞子淳(たんかしじゅん)

中国・宋時代の禅僧。芙蓉道楷に就いて嗣法。弟子には長蘆清了、宏智正覚がいる。生誕 1064年命日 1117年<< 戻る
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大陽警玄(たいようきょうげん)

中国・五代十国時代~宋時代の禅僧。梁山縁観に就いて嗣法。その法を嗣げる弟子が現れなかったため浮山法遠(大陽警玄の下で学んでいたが、既に臨済宗の法を受け嗣いでいたため)に法を預け、後に代付により投子義青に法が伝わる。生誕 943年命日 1027年<< 戻る
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平将門(たいらのまさかど)

平安時代中期の関東の豪族。 平氏の姓を授けられた高望王の三男平良将の子。第50代桓武天皇の5世子孫。下総国、常陸国に広がった平氏一族の抗争から、やがては関東諸国を巻き込む争いへと進み、その際に国府を襲撃して印鑰を奪い、京都の朝廷 朱雀天皇に対抗して「新皇」を自称し、東国の独立を標榜したことによって、遂には朝敵となる。しかし即位後わずか2か月たらずで藤原秀郷、平貞盛らにより討伐される。飛んできた矢が将門の額に命中し、あえなく討死した。その首は平安京へ運ばれ、晒し首となる。獄門が歴史上で確認される最も古い例が、この平将門であるといわれている。この平将門の乱は、ほぼ同時期に瀬戸内海で藤原純友が起こし...
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橘逸勢(たちばなのはやなり)

平安時代初期の貴族・書家。参議・橘奈良麻呂の孫。右中弁・橘入居の末子。官位は従五位下・但馬権守、贈従四位下。書に秀で空海・嵯峨天皇と共に三筆と称される。生誕 延暦元年(782年)命日 承和9年8月13日(842年9月24日)<< 戻る
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大梅法常(だいばいほうじょう)

中国唐の時代の禅僧。襄州襄陽の出身。馬祖道一に就いて嗣法。弟子には迦智、天龍がいる。大梅山。「正法眼蔵」行持・上より抜粋大梅山は慶元府にあり。この山に護聖寺を草創す、法常禅師その本元なり。禅師は襄陽人なり。かつて馬祖の会に参じてとふ、如何是仏と。馬祖云く、即心是仏と。法常この言葉をききて、言下大悟す。ちなみに大梅山の絶頂にのぼりて人倫に不群なり、草庵に独居す。松実を食し、荷葉を衣とす。かの山に少池あり、池に荷おほし。坐禅弁道すること三十余年なり。人事たえて見聞せず、年暦おほよそおぼえず、四山青又黄のみをみる。おもひやるにはあはれむべき風霜なり。師の坐禅には、八寸の鐵塔一基を頂上におく、如載宝冠...
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丹霞天然(たんかてんねん)

中国唐の時代の禅僧。婺州東陽県の出身。石頭希遷無際大師に就いて嗣法。弟子には翠微無学がいる。「選仏」「選仏場」の語源となった禅僧。・「丹霞天然禅師は木仏をたく、是れこそ悪事と見えたれども、是れも一段の説法施設なり。この師の行状の記を見るに、坐するに必ず儀あり、立するに必ず礼あり、常に貴き賓客に向かうが如し。暫時の坐にも必ず跏趺し、叉手す。常住物を守る事眼睛の如くす。勤修するものあれば必ず加す。小善なれども是れを重くす。常図の行状勝れたり。彼の記をとどめて今の世までも叢林の亀鏡とするなり。」(『正法眼蔵随聞記』65、人は必ず陰徳を修すべし)生誕 739年命日 824年<< 戻る
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金剛界結縁灌頂、胎蔵灌頂の開壇

弘仁3(812)年11月15日、空海上人は高雄山寺にて金剛界結縁灌頂を開壇し、12月14日には胎蔵灌頂を開壇しました。入壇者は最澄やその弟子円澄、光定、泰範のほか190名にのぼりました。<< 戻る
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橘諸兄(たちばなのもろえ)

奈良時代の皇族・公卿。初名は葛城王(葛木王)で、臣籍降下して橘宿禰のち橘朝臣姓となる。敏達天皇の後裔で、大宰帥・美努王の子。母は橘三千代で、光明子(光明皇后)は異父妹にあたる。生誕 天武天皇13年(684年)命日 天平勝宝9年1月6日(757年1月30日)<< 戻る
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大仏造立の詔

743年、大仏造立の詔。<< 戻る
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大鑑慧能(たいかんえのう)

中国唐の時代。范陽郡涿県(河北省保定市涿州市)出身。中国禅宗の六祖(南宗)。大満弘忍に就いて嗣法。弟子には青原行思、南嶽懐譲、南陽慧忠、荷沢神会、永嘉玄覚、司空本浄がいる。諡は大鑒真空普覚圓明禅師。曹渓大師。大鑑慧能。六祖慧能。曹渓山宝林寺。師の大満弘忍は悟りの心境をうまく詩に表せた者を後継者と認めると言い、弘忍門下筆頭だった神秀が壁に偈を書くが、その詩を弘忍は認めない。それを聞いた慧能は、神秀の詩を否定するような詩を書き、それを弘忍が認めたことで六祖になったといわれている。・神秀の詩身是菩提樹 心如明鏡臺(身は是れ菩提樹 心は明鏡台の如し)時時勤拂拭 莫使有塵埃(時時に勤めて拂拭し 塵埃を有...
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大通神秀(だいつうじんしゅう)

中国唐の時代。汴州尉氏県(河南省開封市尉氏県)出身。中国禅宗の六祖で北宗としては開祖。大医道信に就いて嗣法。弟子には普寂がいる。諡は大通禅師。彼の禅法は段階的に悟りを進める「漸悟」であり、弟弟子の六祖慧能の直下に悟りに至る「頓悟」思想と対極を為した。・「神秀は帝師なり。簾前に講法す、箔前に説法す。しかのみにあらず、七百高僧の上座なり。黄梅のむかし、盧行者あること、信ずべし。樵夫より行者にうつる、搬柴をのがるとも、なほ碓米を職とす。卑賤の身、うらむべしといへども、出俗越僧、得法伝衣、かつていまだむかしもきかざるところ、西天にもなし、ひとり東地にのこれる希代の高躅なり。」(「正法眼蔵」仏経)生誕 ...
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三論宗(大安寺流)が伝わる

701年(大宝元年)、道慈(智蔵の弟子)が三論宗(大安寺流)伝えました。三論宗はインドの龍樹の中論・十二門論、その弟子提婆の百論の三論を所依(基盤とする)の経典とする論宗(経を所依とせず、論を所依とする)です。空を唱える事から、空宗ともいわれます。その他、無相宗・中観宗・無相大乗宗の呼び方もあります。中国隋代に嘉祥大師吉蔵(549年 - 623年)が大成しました。吉蔵の『三論玄義』は三論宗の立場で書かれた仏教概論です。<< 戻る
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大満弘忍(だいまんこうにん)

中国唐の時代。蘄州黄梅県(湖北省黄岡市黄梅県)出身。中国禅宗の五祖。大医道信に就いて嗣法。弟子には大通神秀、大鑑慧能がいる。蘄州黄梅県を中心に活動し、弟子の五祖弘忍と共に「東山法門」と呼ばれる一大勢力を築く。代宗により大満禅師の諡と、法雨塔の塔号を賜る。黄梅県の馮茂山(東山)で活動し、中国禅宗の本流となる東山法門を発展させ、中国禅宗発展の下地を作る。・「第三十二祖大満禅師は黄梅人なり。俗姓は周氏なり。母の姓を称なり。師は無父而生なり。たとへば、李老君のごとし。七歳伝法よりのち、七十有四にいたるまで、仏祖正法眼蔵、よくこれを住持し、ひそかに衣法を慧能行者に付属する、不群の行持なり。衣法を神秀にし...
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大医道信(だいいどうしん)

中国唐の時代。蘄州永寧県(湖北省黄岡市武穴市)出身。中国禅宗の四祖。鑑智僧璨に就いて嗣法。弟子には大満弘忍がいる。蘄州黄梅県を中心に活動し、弟子の五祖弘忍と共に「東山法門」と呼ばれる一大勢力を築く。諡は大醫禅師。廬山大林寺、蘄州黄梅県双峰山。・「第三十一祖大医禅師は、十四歳のそのかみ、三祖大師をみしより、服労九載なり。すでに仏祖の祖風を嗣続するより、摂心無寐にして脅不至席なること僅六十年なり。化、怨親にかうぶらしめ、徳、人天にあまねし。真丹の第四祖なり。」(「正法眼蔵」行持 下)生誕 太建12年(580年)命日 永徽2年閏9月4日(651年10月23日)<< 戻る
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菩提達磨大師(ぼだいだるまたいし)

お釈迦さまから28代目の祖師である菩提達磨大師は、西インドから中国に至り、大乗仏教をもたらしたインド人僧侶です。震旦初祖、円覚大師とも呼ばれ、達摩と表記される場合もあります。般若多羅尊者に就いて嗣法。弟子には慧可、道育、尼総持、道副がいます。達磨大師の伝記に関しては諸説ありますが、禅宗の伝統的な見解では、中国の梁の時代・普通8(527)年に南海より広州(広東省)に上陸し、梁の都・建康(南京)に来て、武帝(蕭衍)と問答を交わし、帝との機縁がかなわず北に渡り、洛陽(河南省)郊外の嵩山少林寺というところで面壁九年の坐禅を修行され、不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏の宗旨を標榜し、禅宗の初祖と仰が...
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般若多羅(はんにゃたら)

不如蜜多に就いて嗣法。第27祖。弟子には菩提達磨がいる。・「第二十七祖般若多羅尊者道、貧道出息不隨衆縁、入息不居蘊界。常転如是経、百千万億巻。非但一巻両巻(貧道は出息衆縁に隨はず、入息蘊界に居せず。常に如是経を転ずること、百千万億巻なり。但一巻両巻のみにあらず)。」(「正法眼蔵」仏経)・「初祖かつて般若多羅尊者のみもとにして、仏訓道骨、まのあたり証伝しきたれり、根源をもて根源を証取しきたれり、枝葉の本とせるところなり。」(「正法眼蔵」葛藤)生誕 命日 << 戻る
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迦那提婆(かなだいば)

3世紀頃のインドの仏教僧。南インドのバラモンの家庭に生まれました。那伽閼刺樹那(龍樹/ナーガールジュナ)に就いて嗣法。弟子には羅睺羅多がいる。Āryadeva(アーリヤデーヴァ)、提婆、聖提婆とも表記され、伽那提婆という表記もあります(「正法眼蔵」仏祖)。著作に『百論』、『四百論』。南インドで外道に帰依していた王を論破したり、邪道の論師を多数論破したが、その弟子の一人に恨まれて殺されてしまう。しかし、命が終わる前に到っても、その外道の愚かさをあわれみ、自分を殺そうとした者をも救ったといわれます。生誕 170年頃命日 270年頃<< 戻る
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提多迦(だいたか)

インドの仏教僧。優婆毱多に就いて嗣法。弟子には弥遮迦がいる。生誕 命日 << 戻る
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大衆部枝末分裂/上座部枝末分裂

紀元前160年頃、大衆部枝末分裂。上座部枝末分裂。説一切有部、経量部等成立。アビダルマ仏教。論蔵の成立。<< 戻る
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第三結集(だいさんけつじゅう)- アショーカ王の呼びかけ

(アショーカピラー/インド・ビハール州クムラハール)紀元前260年(インド)第三結集がマウリヤ王朝の都パータリプトラ(パトナ市)の郊外にある鶏園寺(クムラハール)において、マウリヤ王朝3代目アショーカ王の呼びかけで阿羅漢1000人が集まり経・律・論がまとめられる。仏教の開祖、お釈迦様(ゴータマ・シッダッタ)がクシナガラでの入滅から235年後頃に行われた(上座部の伝承)。なお、紀元前244年開催説もある。<< 戻る
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第二結集(だいにけつじゅう)- 上座部と大衆部に根本分裂

(ストゥーパとアショーカピラー/インド・ビハール州ヴァイシャリ)紀元前385年(インド)第二結集が毘舎離(ヴァイシャリ)において阿羅漢700人が集まり行われる。ヴィナヤ(律蔵)の10の要点について討議されたといわれている。仏教の開祖、お釈迦様(ゴータマ・シッダッタ)がクシナガラでの入滅から100年後頃に行われた(上座部の伝承/説一切有部の伝承では入滅から110年後)。これにより上座部と大衆部に根本分裂。<< 戻る
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デーヴァダッタ(提婆達多)

デーヴァダッタとは、お釈迦様の従兄弟で弟子になりましたが、驕慢の心を起こし、勝手な提案が受け入れられなかったので、分派して新しい教団・デーヴァダッタ派(提婆達多派)をつくりました。漢訳仏典では「提婆達多」(だいばだった)と訳される他、略して提婆、音写して調達、意訳して天授などの記述があります。お釈迦様の従兄弟でしたが、アーナンダ(阿難/多聞第一)の兄、もしくは、ヤソーダラー(耶輸陀羅/お釈迦様が出家する以前の妃)の兄弟とする説が多数を占めています。梵語(サンスクリット語) Devadatta デーヴァダッタ巴語(パーリ語) Devadatta デーヴァダッタ生誕 命日 << 戻る
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第一結集(だいいちけつじゅう)- 七葉窟(ななようくつ)

(七葉窟/インド・ビハール州ラージギル)紀元前485年2月15日以降の出来事(インド)仏教の開祖、お釈迦様(ゴータマ・シッダッタ/ブッダ)がクシナガラで入滅(諸説あり。この年表では565年誕生説に基づいて出来事を記述しています。)した後、第一結集が王舎城(おうしゃじょう/ラージャグリハ)郊外の七葉窟において、マガダ国の王アジャータシャトル(父王ビンビサーラを殺害したが改心しお釈迦様に帰依するようになった)が主催者となり行われる。500人の比丘(500人の阿羅漢/五百羅漢)が集い、摩訶迦葉が座長となり、阿難と優波離が、それぞれ経(経典)と律(戒律)の編集責任者となる。「結集」のサンスクリット語(...
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断食(だんじき)

ブッダが悟りを得る前のこと(以下、「ブッダ」と書きます)、ウルヴェーラの苦行林で6年間の苦行を続け、それでも真理を見いだせないので、極端な苦行では真理どころか、無駄に心や身体を傷つけるだけであると気づきました。断食とは、全ての飲食を口に入れない絶食とは違い、徐々に食べることを減らす、決まった時間だけ食べる、決まったものだけ食べるなど、自身で飲食を管理する実践方法です。ブッダの断食は誰にも真似が出来ないほど厳しいものでした。一日一食から、徐々に二日間に一食、一週間に一食と減らしていき、とうとう何も食べないと決め、三週間が限度とされていた断食(この場合は絶食でしょうか)を2か月も続けたこともあった...