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ブッダ最後の旅【 第4章 】15、ボーガ市における四大教示

投稿日:1999年2月15日 更新日:

【 第4章 】

15、ボーガ市における四大教示

5 そこで、尊師はバンダ村に心ゆくまで住して後に、若き人アーナンダに言われた。
「さあ、アーナンダよ。ハッティ村に・・・乃至・・・アンバ村に・・・乃至・・・ジャンブ村に・・・乃至・・・ボーガ市に赴こう」と。


(2005年8月 管理人撮影/インド仏跡)

6 「かしこまりました」と、若き人アーナンダ尊師に答えた。そこで尊師は、多くの修行僧の群れと共にボーガ市に赴いた。

7 そのボーガ市において、尊師はアーナンダ霊樹のもとにとどまっておられた。そこで尊師修行僧たちに告げられた。
修行僧たちよ。わたしは四つの大きな教示を説くであろう。あなたたちは、それをよく聴き、よく注意なさい。わたしはそれを語ることにしよう」と。
「かしこまりました」と、かの修行僧たちは答えた。尊師は次のように説いた。

8 「修行僧たちよ。ここで一人の修行僧が次のように語ったとしよう。『友よ。わたしはこのことを尊師からまのあたり直接に聞いた。まのあたりうけたまわった。これが理法である。これが戒律である。これが師の教えである』と。

修行僧らよ。その修行僧の語ったことは、喜んで受け取られるべきではないし、また排斥されるべきでもない。喜んで受け取ることもなく、また排斥することもなく、それらの文句を正しく良く理解して、ひとつずつ経典に引き合わせ、戒律を参照吟味すべきである。

それらの文句をひとつずつ経典に引き合わせ、戒律を参照吟味してみて、経典の文句にも合致せず、戒律の文句にも一致しない時には、この結論に到達すべきである。『確かに、これはかの尊師の説かれた言葉ではなくて、この修行僧の誤解したことである』と。修行僧らよ。それ故に、あなたたちはこれを放棄すべきである。

しかし、もしもその文句を、ひとつずつ経典に引き合わせ、戒律を参照吟味してみて、経典の文句に合致し、戒律の文句に一致するならば、結論としてこのように決定すべきである。『確かに、これはかの尊師の説かれた言葉であり、この修行僧が正しく理解したことである』と。修行僧らよ。これが第一の典拠への参照であるとうけたまわりなさい。

9 さらにまた、修行僧たちよ。ここで一人の修行僧が次のように語ったとしよう。『これこれの住所に修行僧の集いがあって、長老や尊長も住している。わたしはこのことをその集いからまのあたり直接に聞いた。まのあたりうけたまわった。これが理法である。これが戒律である。これが師の教えである』と。

修行僧らよ。その修行僧の語ったことは、喜んで受け取られるべきではないし、また排斥されるべきでもない。喜んで受け取ることもなく、また排斥することもなく、それらの文句を正しく良く理解して、ひとつずつ経典に引き合わせ、戒律を参照吟味すべきである。

それらの文句をひとつずつ経典に引き合わせ、戒律を参照吟味してみて、経典の文句にも合致せず、戒律の文句にも一致しない時には、この結論に到達すべきである。『確かに、これはかの尊師の説かれた言葉ではなくて、この修行僧の誤解したことである』と。修行僧らよ。それ故に、あなたたちはこれを放棄すべきである。

しかし、もしもその文句を、ひとつずつ経典に引き合わせ、戒律を参照吟味してみて、経典の文句に合致し、戒律の文句に一致するならば、結論としてこのように決定すべきである。『確かに、これはかの尊師の説かれた言葉であり、この修行僧が正しく理解したことである』と。修行僧らよ。これが第二の典拠への参照であるとうけたまわりなさい。

10 さらにまた、修行僧たちよ。ここで一人の修行僧が次のように語ったとしよう。『これこれの住所に、博学にして、聖典を伝え、法を保ち、戒律を保ち、戒律の箇条を保っている長老・修行僧たちが大勢いる。わたしはこのことをそれらの長老たちからまのあたり直接に聞いた。まのあたりうけたまわった。これが理法である。これが戒律である。これが師の教えである』と。

修行僧らよ。その修行僧の語ったことは、喜んで受け取られるべきではないし、また排斥されるべきでもない。喜んで受け取ることもなく、また排斥することもなく、それらの文句を正しく良く理解して、ひとつずつ経典に引き合わせ、戒律を参照吟味すべきである。

それらの文句をひとつずつ経典に引き合わせ、戒律を参照吟味してみて、経典の文句にも合致せず、戒律の文句にも一致しない時には、この結論に到達すべきである。『確かに、これはかの尊師の説かれた言葉ではなくて、この修行僧の誤解したことである』と。修行僧らよ。それ故に、あなたたちはこれを放棄すべきである。

しかし、もしもその文句を、ひとつずつ経典に引き合わせ、戒律を参照吟味してみて、経典の文句に合致し、戒律の文句に一致するならば、結論としてこのように決定すべきである。『確かに、これはかの尊師の説かれた言葉であり、この修行僧が正しく理解したことである』と。修行僧らよ。これが第三の典拠への参照であるとうけたまわりなさい。

11 さらにまた、修行僧たちよ。ここで一人の修行僧が次のように語ったとしよう。『これこれの住所に、博学にして、聖典を伝え、法を保ち、戒律を保ち、戒律の箇条を保っている一人の長老・修行僧がいる。わたしはこのことをその長老からまのあたり直接に聞いた。まのあたりうけたまわった。これが理法である。これが戒律である。これが師の教えである』と。

修行僧らよ。その修行僧の語ったことは、喜んで受け取られるべきではないし、また排斥されるべきでもない。喜んで受け取ることもなく、また排斥することもなく、それらの文句を正しく良く理解して、ひとつずつ経典に引き合わせ、戒律を参照吟味すべきである。

それらの文句をひとつずつ経典に引き合わせ、戒律を参照吟味してみて、経典の文句にも合致せず、戒律の文句にも一致しない時には、この結論に到達すべきである。『確かに、これはかの尊師の説かれた言葉ではなくて、この修行僧の誤解したことである』と。修行僧らよ。それ故に、あなたたちはこれを放棄すべきである。

しかし、もしもその文句を、ひとつずつ経典に引き合わせ、戒律を参照吟味してみて、経典の文句に合致し、戒律の文句に一致するならば、結論としてこのように決定すべきである。『確かに、これはかの尊師の説かれた言葉であり、この修行僧が正しく理解したことである』と。修行僧らよ。これが第四の典拠への参照であるとうけたまわりなさい。
修行僧たちよ。これらの四つの大きな教示をうけたまわりなさい」と。

12 そこで尊師はボーガ市の内の、アーナンダ霊樹の地にとどまりながら、修行僧たちの為にこのように数多くの法に関する講話をなされた。
すなわち、「戒律とはこのようなものである。精神統一とはこのようなものである。智慧とはこのようなものである。戒律と共に修行して完成された精神統一は大いなる果報をもたらし、大いなる功徳がある。精神統一と共に修養された智慧は偉大な果報をもたらし、大いなる功徳がある。智慧と共に修養された心は、諸々の汚れ、すなわち欲望の汚れ、生存の汚れ、見解の汚れ、無明の汚れから完全に解脱する」と。

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※このページは学問的な正確性を追求するものではありません。前知識のない一般の方でも「読んでみよう!」と思ってもらえるよう、より分かりやすく読み進めるために編集しています。漢字をひらがなに、旧字体を新字体に、送り仮名を現代表記に、( )にふりがなをつけるなど、原文に忠実ではない場合があります。

なお、底本としてパーリ語経典長部の『大般涅槃経』(マハー・パリニッバーナ・スッタンタ)を使用していますが、学問的な正確性を追求する場合、参考文献である『「ブッダ最後の旅」中村元訳 岩波文庫』を読むようおすすめします。なお、章題/節題は比較しやすいよう同じにしました。

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