【仏教用語/人物集 索引】

「正法眼蔵」画餅(がべい)

投稿日:1242年11月5日 更新日:

諸仏これ証なるゆゑに、諸物これ証なり。しかあれども、一性にあらず、一心にあらず。一性にあらず一心にあらざれども、証のとき、証証さまたげず現成するなり。現成のとき、現現あひ接することなく現成すべし。これ祖宗の端的なり。一異の測度を挙して参学の力量とすることなかれ。

このゆゑにいはく、一法纔通万法通(一法纔かに通ずれば万法通ず)、いふところの一法通は、一法の従来せる面目を奪却するにあらず、一法を相対せしむるにあらず、一法を無対ならしむるにあらず。無対ならしむるはこれ相礙なり。通をして通の礙なからしむるに、一通これ、万通これ、なり。一通は一法なり、一法通、これ万法通なり。

古仏言、画餅不充飢。
この道を参学する雲衲霞袂、この十方よりきたれる菩薩声聞の名位をひとつにせず、かの十方よりきたれる神頭鬼面の皮肉、あつくうすし。これ古仏今仏の学道なりといへども、樹下草庵の活計なり。このゆゑに家業を正伝するに、あるいはいはく、経論の学業は真智を熏修せしめざるゆゑにしかのごとくいふといひ、あるいは三乗一乗の教学さらに三菩提のみちにあらずといはんとして恁麼いふなりと見解せり。おほよそ假立なる法は真に用不著なるをいはんとして、恁麼の道取ありと見解する、おほきにあやまるなり。祖宗の功業を正伝せず、仏祖の道取にくらし。この一言をあきらめざらん、たれか余仏祖の道取を参究せりと聴許せん。

画餅不能充飢と道取するは、たとへば、諸悪莫作、衆善奉行と道取するがごとし、是什麼物恁麼来と道取するがごとし、吾常於是切といふがごとし。しばらくかくのごとく参学すべし。

画餅といふ道取、かつて見来せるともがらすくなし、知及せるものまたくあらず。なにとしてか恁麼しる、従来の一枚二枚の臭皮袋を勘過するに、疑著におよばず、親覲におよばず。ただ隣談に側耳せずして不管なるがごとし。

画餅といふは、しるべし、父母所生の面目あり、父母未生の面目あり。米麺をもちゐて作法せしむる正当恁麼、かならずしも生不生にあらざれども、現成道成の時節なり。去来の見聞に拘牽せらるると参学すべからず。餅を画する丹雘は、山水を画する丹とひとしかるべし。いはゆる山水を画するには青丹をもちゐる。画餅を画するには米麺をもちゐる。恁麼なるゆゑに、その所用おなじ、功夫ひとしきなり。

しかあればすなはち、いま道著する画餅といふは、一切の糊餅菜餅乳餅焼餅糍餅等、みなこれ画図より現成するなり。しるべし、画等餅等法等なり。このゆゑに、いま現成するところの諸餅、ともに画餅なり。このほかに画餅をもとむるには、つひにいまだ相逢せず、未拈出なり。一時現なりといへども一時不現なり。しかあれども、老少の相にあらず、去来の跡にあらざるなり。しかある這頭に、画餅国土あらはれ、成立するなり。

不充飢といふは、飢は十二時使にあらざれども、画餅に相見する便宜あらず。画餅を喫著するに、つひに飢をやむる功徳なし。飢に相待せらるる餅なし。餅に相待せらるる餅あらざるがゆゑに、活計つたはれず、家風つたはれず。飢も一条挂杖なり、横担豎担、千変万化なり。

餅も一身心現なり、青黄赤白、長短方円なり。いま山水を画するには、青兎丹雘をもちゐ、奇巖怪石をもちゐ、七宝四宝をもちゐる。餅を画する経営もまたかくのごとし。人を画するには四大五蘊をもちゐる、仏を画するには泥龕土塊をもちゐるのみにあらず、三十二相をもちゐる、一茎草をもちゐる、三祇百の熏修をもちゐる。かくのごとくして、壹軸の画仏を図しきたれるゆゑに、一切諸仏はみな画仏なり。一切画仏はみな諸仏なり。画仏と画餅と検点すべし。

いづれか石烏亀、いづれか鐵挂杖なる。いづれか色法、いづれか心法なると、審細に功夫参究すべきなり。恁麼功夫するとき、生死去来はことごとく画図なり。無上菩提すなはち画図なり。おほよそ法界虚空、いづれも画図にあらざるなし。

古仏言、道成白雪千扁去、画得青山数軸来(道は成る白雪千扁去る、画し得たり青山数軸来る)。

これ大悟話なり。弁道功夫の現成せし道底なり。しかあれば、得道の正当恁麼時は、青山白雪を数軸となづく、画図しきたれるなり。一動一静しかしながら画図にあらざるなし。我らがいまの功夫、ただ画よりえたるなり。十号三明、これ一軸の画なり。根力覚道、これ一軸の画なり。もし画は実にあらずといはば、万法みな実にあらず。万法みな実にあらずは、仏法も実にあらず。仏法もし実なるには、画餅すなはち実なるべし。

雲門匡真大師、ちなみに僧とふ、いかにあらんかこれ超仏越祖之談。
師いはく、糊餅。

この道取、しづかに功夫すべし。糊餅すでに現成するには、超仏越祖の談を説著する祖師あり、聞著せざる鐵漢あり、聴得する学人あるべし、現成する道著あり。いま糊餅の展事投機、かならずこれ画餅の二枚三枚なり。超仏越祖の談あり、入仏入魔の分あり。

先師道、修竹芭蕉入画図(修竹芭蕉画図に入る)。

この道取は、長短を超越せるものの、ともに画図の参学ある道取なり。修竹は長竹なり。陰陽の運なりといへども、陰陽をして運ならしむるに、修竹の年月あり。その年月陰陽、はかることうべからざるなり。

大聖は陰陽を覷見すといへども、大聖、陰陽を測度する事あたはず。陰陽ともに法等なり、測度等なり、道等なるがゆゑに。いま外道二乗の心目にかかはる陰陽にはあらず。これは修竹の陰陽なり、修竹の歩暦なり、修竹の世界なり。修竹の眷属として、十方諸仏あり。

しるべし、天地乾坤は、修竹の根茎枝葉なり。このゆゑに天地乾坤をして長久ならしむ。大海須弥、尽十方界をして堅牢ならしむ。挂杖竹箆をして一老一不老ならしむ。芭蕉は、地水火風空、心意識智慧を根茎枝葉、花果光色とせるゆゑに、秋風を帯して秋風にやぶる。のこる一塵なし、浄潔といひぬべし。眼裏に筋骨なし、色裡に膠あらず。当処の解脱あり。

なほ速疾に拘牽せられざれば、須叟刹那等の論におよばず。この力量を挙して、地水火風を活計ならしめ、心意識智を大死ならしむ。かるがゆゑに、この家業に春秋冬夏を調度として受業しきたる。

いま修竹芭蕉の全消息、これ画図なり。これによりて、竹声を聞著して大悟せんものは、龍蛇ともに画図なるべし。凡聖の情量と疑著すべからず。那竿得恁麼長なり、這竿得恁麼短なり。這竿得恁麼長なり、那竿得恁麼短なり。これみな画図なるがゆゑに、長短の図、かならず相符するなり。長画あれば、短画なきにあらず。この道理、あきらかに参究すべし。ただまさに尽界尽法は画図なるがゆゑに、人法は画より現じ、仏祖は画より成ずるなり。

しかあればすなはち、画餅にあらざれば充飢の薬なし、画飢にあらざれば人に相逢せず。画充にあらざれば力量あらざるなり。おほよそ、飢に充し、不飢に充し、飢を充せず、不飢を充せざること、画飢にあらざれば不得なり、不道なるなり。しばらく這箇は画餅なることを参学すべし。

この宗旨を参学するとき、いささか転物物転の功徳を身心に究尽するなり。この功徳いまだ現前せざるがごときは、学道の力量いまだ現成せざるなり。この功徳を現成せしむる、証画現成なり。

正法眼蔵画餅第二十四

爾時仁治三年壬寅十一月初五日在于観音導利興聖宝林寺示衆
仁治壬寅十一月初七日在興聖客司書写之 懐奘

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