【仏教用語/人物集 索引】

業(ごう)- カルマ

投稿日:1998年7月18日 更新日:

業の本来の意味は、行為のことをいいますが、因果関係と組み合わせて考えられることで、前々から存在して機能する一種の力としてみなされるようになりました。そこで一つの行為は、必ず善悪・苦楽の果報をもたらすという、業による輪廻思想が生まれ、業が前世から来世にまで引き延ばされて説かれるようになりました。また、個人の業・社会的広がりを持つ業など、種々の別が立てられました。

これら業の考え方は、インド一般の社会通念として、インド諸思想に大きな影響を与え、仏教にも採用された考え方です。なお、未来に向かっての人間の努力する行為を強調するものであれば問題ないのですが、宿業(前世につくった業)説になると、それとは逆に一種の宿命説に陥る傾向があります。

仏教で説くところの業では、身・口・意によってなされる善悪の行為が、後に何らかの報いを招くことをいいます。身・口・意の行い、およびその行いの結果をもたらす潜在的能力のことです。特に前世の善悪の所業によって現在に受ける報いを業という場合が多いです。ある結果を生ずる原因としての行為。業因。過去から未来へ存続して機能する一種の力と見なされています。

業は、その時代であったり、地域であったり、主義主張の立場であったりで、意味合いが異なる場合があるので、自分が知っている意味に引き寄せて判断すること等、注意が必要な言葉です。

梵語(サンスクリット語) karma カルマ
巴語(パーリ語) kamma

カルマの性質

・「悪事をしても、その業(カルマ)は、しぼり立ての牛乳のように、すぐに固まることはない。徐々に固まって熟する。そのは、灰に覆われた火のように、徐々に燃えて悩ましながら、愚者につきまとう。」(ダンマパダ 71偈

・「まだ悪い報いが熟しない間は、悪人でも幸運に遭うことがある。しかし悪の報いが熟したときは、悪人は災いに遭う。」(『法句経』ダンマパダ 119偈)

・「まだ善い報いが熟しない間は、善人でも災いに遭うことがある。しかし善の果報が熟したときは、善人は幸福に遭う。」(『法句経』ダンマパダ 120偈)

・「みずから悪をなすならば、みずから汚れ、みずから悪をなさないならば、みずから浄まる。浄いのも浄くないのも、各自の事柄である。人は他人を浄めることが出来ない。」(『法句経』ダンマパダ 165偈

悪いことをした場合(悪業⇔善業)

・「いつわりを語る人、あるいは自分でしておきながら「わたしはしませんでした」と言う人、この両者は死後には等しくなる、来世では行ないの下劣なをもった人々なのであるから。」(ダンマパダ 306偈

・「鉄から起こった錆が、それから起こったのに、鉄自身を損なうように、悪をなしたならば、自分のが罪を犯した人を悪いところ(地獄)に導く。」(ダンマパダ 240偈

修行完成者の場合

・「古いはすでに尽き、新しいはもはや生じない。その心は未来に執著することなく、種子を滅ぼし、それが生長する事を欲しないそれらの賢者は、灯火のように滅びる。このすぐれた宝がつどいの内に存する。この真理によって幸せであれ。」(スッタニパータ 235偈

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