【仏教用語/人物集 索引】

「正法眼蔵」行仏威儀(ぎょうぶついいぎ)

投稿日:1241年10月15日 更新日:

諸仏かならず威儀を行足す、これ行仏なり。行仏それ報仏にあらず、化仏にあらず、自性身仏にあらず、他性身仏にあらず。始覚本覚にあらず、性覚無覚にあらず。如是等仏、たえて行仏に斉肩することうべからず。

しるべし、諸仏の仏道にある、覚をまたざるなり。仏向上の道に行履を通達せること、唯行仏のみなり。自性仏等、夢也未見在なるところなり。この行仏は、頭々に威儀現成するゆゑに、身前に威儀現成す、道前に化機漏泄すること、亙時なり、亙方なり、亙仏なり亙行なり。行仏にあらざれば、仏縛法縛いまだ解脱せず、仏魔法魔に党類せらるるなり。

仏縛といふは、菩提を菩提と知見解会する、即知見、即解会に即縛せられぬるなり。一念を経歴するに、なほいまだ解脱の期を期せず、いたづらに錯解脱す。菩提をすなはち菩提なりと見解脱せん、これ菩提相応の知見なるべし。たれかこれを邪見といはんと想憶す、これすなはち無縄自縛なり。縛々綿々として樹倒藤枯にあらず。いたづらに仏辺の窠窟に活計せるのみなり。法身のやまふを知らず、報身の窮を知らず。

教家経師論師等の仏道を遠聞せる、なほしいはく、即於法性、起法性見、即是無明(法性にして法性の見を起こす、即ち是れ無明なり)。この教家のいはくは、法性に法性の見おこるに、法性の縛をいはず、さらに無明の縛をかさぬ、法性の縛あることを知らず。あはれむべしといへども、無明縛のかさなれるをしれるは、発菩提心の種子となりぬべし。いま行仏、かつてかくのごとくの縛に縛せられざるなり。

かるがゆゑに我本行菩薩道、所成寿命、今猶未尽、復倍上数(我れ本より菩薩道を行じて、成る所の寿命、今なほ未だ尽きず、また上の数に倍せり)なり。
しるべし、菩薩の寿命いまに連綿とあるにあらず、仏寿命の過去に布遍せるにあらず。いまいふ上数は、全所成なり。いひきたる今猶は、全寿命なり。我本行たとひ万里一条鐵なりとも、百年抛却任縱横なり。

しかあればすなはち、修証は無にあらず、修証は有にあらず、修証は染汚にあらず。無仏無人の処在に百千万ありといへども、行仏を染汚せず。ゆゑに行仏の修証に染汚せられざるなり。修証の不染汚なるにはあらず、この不染汚、それ不無なり。

曹渓いはく、祗此不染汚、是諸仏之所護念、汝亦如是、吾亦如是、乃至西天諸祖亦如是(ただ此の不染汚、是れ諸仏の所護念なり、汝もまた是の如し、吾もまた是の如し、乃至西天の諸祖もまた是の如し)。

しかあればすなはち汝亦如是のゆゑに諸仏なり、吾亦如是のゆゑに諸仏なり。まことに我にあらず、なんぢにあらず。この不染汚に、如吾是吾、諸諸仏所護念、これ行仏威儀なり。如汝是汝、諸仏所護念、これ行仏威儀なり。吾亦のゆゑに師勝なり、汝亦のゆゑに資強なり。師勝資強、これ行仏の明行足なり。しるべし、是仏之所護念と、吾亦なり、汝亦なり。

曹渓古仏祖の道得、たとひ我にあらずとも、なんぢにあらざらんや。行仏之所護念、行仏之所通達、それかくのごとし。かるがゆゑにしりぬ、修証は性相本末等にあらず。行仏の去就これ果然として仏を行ぜしむるに、仏すなはち行ぜしむ。

ここに為法捨身あり、為身捨法あり。不惜身命あり、但惜身命あり。法のために法をすつるのみにあらず、心のために法をすつる威儀あり。捨は無量なること、わするべからず。仏量を拈来して大道を測量し度量すべからず。仏量は一隅なり、たとへば花開のごとし。

心量を挙来して威儀を摸索すべからず、擬議すべからず。心量は一面なり、たとへば世界のごとし。一茎草量、あきらかに仏祖心量なり。これ行仏の蹤跡を認ぜる一片なり。一心量たとひ無量仏量を包含せりと見徹すとも、行仏の容止動静を量せんと擬するには、もとより過量の面目あり。過量の行履なるがゆゑに、即不中なり、使不得なり、量不及なり。

しばらく、行仏威儀に一究あり。即仏即自と恁麼来せるに、吾亦汝亦の威儀、それ唯我能にかかはれりといふとも、すなはち十方諸仏然の脱落、これ同条のみにあらず。かるがゆゑに、

古仏いはく、体取那辺事、却来這裏行履(那辺の事を体取し、這裏に却来して行履せよ)。

すでに恁麼保任するに、諸法、諸身、諸行、諸仏、これ親切なり。この行法身仏、おのおの承当に罣礙あるのみなり。承当に罣礙あるがゆゑに、承当に脱落あるのみなり。眼礙の明々百草頭なる、不見一法、不見一物と動著することなかれ。這法に若至なり、那法に若至なり。拈来拈去、出入同門に行履する、徧界不曽蔵なるがゆゑに、世尊の密語密証密行密付等あるなり。

出門便是草、入門便是草、万里無寸草(門を出づれば是れ草、門を入るも是れ草、万里無寸草無し)なり。入之一字、出之一字、這頭也不用得、那頭也不用得(入の一字、出の一字、這頭も不用得、那頭も不用得)なり。いまの把捉は、放行をまたざれども、これ夢幻空花なり。たれかこれを夢幻空花と将錯就錯せん。進歩也錯、退歩也錯、一歩也錯、両歩也錯なるがゆゑに錯錯なり。天地懸隔するがゆゑに至道無難なり。威儀儀威、大道体と究竟すべし。

しるべし、出生合道出なり、入死合道入なり。その頭正尾正に、玉転珠回の威儀現前するなり。仏威儀の一隅を遣有するは、尽乾坤大地なり、尽生死去来なり。塵刹なり、蓮花なり。これ塵刹蓮花、おのおの一隅なり。

学人おほくおもはく、尽乾坤といふは、この南瞻部洲をいふならんと擬せられ、又この一四洲をいふならんと擬せられ、ただ又神丹一国おもひにかかり、日本一国おもひに巡るがごとし。又、尽大地といふも、ただ三千大千世界とおもふがごとし、わづかに一洲一県をおもひにかくるがごとし。尽大地尽乾坤の言句を参学せんこと、三次五次もおもひ巡らすべし、ひろきにこそはとてやみぬることなかれ。

この得道は、極大同小、極小同大の超仏越祖なるなり。大の有にあらざる、小の有にあらざる、疑著ににたりといへども威儀行仏なり。仏々祖々の道趣する尽乾坤の威儀、尽大地の威儀、ともに不曽蔵を徧界と参学すべし。界不曽蔵なるのみにはあらざるなり。これ行仏一中の威儀なり。

仏道を説著するに、胎生化生等は仏道の行履なりといへども、いまだ湿生卵生等を道取せず。いはんやこの胎卵湿化生のほかになほ生あること、夢也未見在なり。いかにいはんや胎卵湿化生のほかに、胎卵湿化生あることを見聞覚知せんや。

いま仏々祖々の大道には、胎卵湿化生のほかの胎卵湿化生あること、不曽蔵に正伝せり、親密に正伝せり。この道得、きかずならはず、知らずあきらめざらんは、なにの儻類なりとかせん。すでに四生はきくところなり、死はいくばくかある。四生には四死あるべきか、又、三死二死あるべきか、又、五死六死、千死万死あるべきか。この道理わづかに疑著せんも、参学の分なり。

しばらく功夫すべし、この四生衆類のなかに、生はありて死なきものあるべしや。又、死のみ単伝にして、生を単伝せざるありや。単生単死の類の有無、かならず参学すべし。わづかに無生の言句をききてあきらむることなく、身心の功夫をさしおくがごとくするものあり。これ愚鈍のはなはだしきなり。

信法頓漸の論にもおよばざる畜類といひぬべし。ゆゑいかんとなれば、たとひ無生ときくといふとも、この道得の意旨作麼生なるべし。さらに無仏無道無心無滅なるべしや、無々生なるべしや、無法界、無法性なるべしや、無死なるべしやと功夫せず、いたづらに水草の但念なるがゆゑなり。

しるべし、生死は仏道の行履なり、生死は仏家の調度なり。使也要使なり、明也明得なり。ゆゑに諸仏はこの神通塞に明々なり、この要使に得得なり。この生死の際にくらからん、たれかなんぢをなんぢといはん。たれかなんぢを了生達死漢といはん。生死にしづめりときくべからず、生死にありとしるべからず、生死を生死なりと信受すべからず、不会すべからず、不知すべからず。

あるいはいふ、ただ人道のみに諸仏出世す、さらに余方余道には出現せずとおもへり。いふがごとくならば、仏在のところ、みな人道なるべきか。これは人仏の唯我独尊の道得なり。さらに天仏もあるべし、仏々もあるべきなり。諸仏は唯人間のみに出現すといはんは、仏祖の閫奥(こんおう:奥の間)にいらざるなり。

祖宗いはく、釈迦牟尼仏、自従迦葉仏所伝正法、往兜率天、化兜率陀天、于今有在(釈迦牟尼仏迦葉仏の所にして正法を伝へてより、兜率天に往いて、兜率陀天を教化して今に有在す)。

まことにしるべし、人間の釈迦は、このとき滅度現の化をしけりといへども、上天の釈迦は于今有在にして化天するものなり。学人しるべし、人間の釈迦の千変万化の道著あり、行取あり、説著あるは、人間一隅の放光現瑞なり。おろかに上天の釈迦、その化さらに千品万門ならん、しらざるべからず。

仏々正伝する大道の、断絶を超越し、無始無終を脱落せる宗旨、ひとり仏道のみに正伝せり。自余の諸類、知らずきかざる功徳なり。行仏の設化するところには、四生あらざる衆生あり。天上人間法界等にあらざるところあるべし。行仏の威儀を覰見せんとき、天上人間のまなこをもちゐることなかれ、天上人間の情量をもちゐるべからず。これを挙して測量せんと擬することなかれ。十聖三賢なほこれを知らずあきらめず、いはんや人中天上の測量のおよぶことあらんや。人量短小なるには識智も短小なり、寿命短促なるには思慮も短促なり。いかにしてか行仏の威儀を測量せん。

しかあればすなはち、ただ人間を挙して仏法とし、人法を挙して仏法を局量せる家門、かれこれともに仏子と許可することなかれ、これただ業報の衆生なり。いまだ身心の聞法あるにあらず、いまだ行道せる身心なし。従法生にあらず、従法滅にあらず、従法見にあらず、従法聞にあらず、従法行住坐臥にあらず。かくのごとくの儻類、かつて法の潤益なし。行仏は本覚を愛せず、始覚を愛せず、無覚にあらず、有覚にあらずといふ、すなはちこの道理なり。

いま凡夫の活計する有念無念、有覚無覚、始覚本覚等、ひとへに凡夫の活計なり、仏々相承せるところにあらず。凡夫の有念と仏の有念と、はるかにことなり、比擬することなかれ。凡夫の本覚と活計すると、諸仏の本覚と証せると、天地懸隔なり、比論の所及にあらず。十聖三賢の活計、なほ諸仏の道におよばず。いたづらなる算沙の凡夫、いかでかはかることあらん。しかあるを、わづかに凡夫外道の本末の邪見を活計して、諸仏の境界とおもへるやからおほし。

諸仏いはく、此輩罪根深重なり、可憐愍者なり。

深重の罪根たとひ無端なりとも、此輩の深重担なり。この深重担、しばらく放行して著眼看すべし。把定して自己を罜礙すといふとも、起首にあらず。いま行仏威儀の無礙なる、ほとけに罣礙せらるるに、拕泥滞水の活路を通達しきたるゆゑに、無罣礙なり。上天にしては化天す、人間にしては化人す。花開の功徳あり、世界起の徳功徳あり。かつて間隙なきものなり。このゆゑに自他に迥脱あり、往来に独拔あり。即往兜率天なり、即来兜率天なり、即々兜率天なり。即往安楽なり、即来安楽なり、即々安楽なり。即迥脱兜率なり、即迥脱安楽なり。即打破百雑碎安楽兜率なり、即々把定放行安楽兜率なり、一口呑尽なり。

しるべし、安楽兜率といふは、浄土天堂ともに輪廻することの同般なるとなり。行履なれば、浄土天堂おなじく行履なり。大悟なれば、おなじく大悟なり。大迷なれば、おなじく大迷なり。これしばらく行仏の鞋裏の動指なり。あるときは一道の放屁声なり、放屎香なり。鼻孔あるは齅得す、耳処身処行履処あるに聴取するなり。又、得吾皮肉骨髓するときあり、さらに行得に他よりえざるものなり。

了生達死の大道すでに豁達するに、ふるくよりの道取あり、大聖は生死を心にまかす、生死を身にまかす、生死を道にまかす、生死を生死にまかす。

この宗旨あらはるる、古今の時にあらずといへども行仏の威儀忽爾として行尽するなり。道環として生死身心の宗旨すみやかに弁肯するなり。行尽明尽、これ強為の為にあらず、迷頭認影に大似なり。回光返照に一如なり。その明上又明の明は、行仏に弥綸なり。これ行取に一任せり。この任任の道理、すべからく心を参究すべきなり。

その参究の兀爾は、万回これ心の明白なり。三界ただ心の大隔なりと知及し会取す。この知及会取、さらに万法なりといへども、自己の家郷を行取せり、当人の活計を便是なり。

しかあれば、句中取則し、言外求巧する再三撈摝、それ把定にあまれる把定あり、放行にあまれる放行あり。その功夫は、いかなるかこれ生、いかなるかこれ死、いかなるかこれ身心、いかなるかこれ与奪、いかなるかこれ任違。それ同門出入の不相逢なるか、一著落在に蔵身露角なるか。大慮而解なるか、老思而知なるか、一顆明珠なるか、一大蔵教なるか、一条挂杖なるか、一枚面目なるか。三十年後なるか、一念万年なるか。子細に検点し、検点を子細にすべし。検点の子細にあたりて、満眼聞声、満耳見色、さらに沙門壹隻眼の開明なるに、不是目前法なり、不是目前事なり。

雍容の破顔あり、瞬目あり。これ行仏の威儀の暫爾なり。被物牽にあらず不牽物なり。縁起の無生無作にあらず、本性法性にあらず、住法位にあらず、本有然にあらず。如是を是するのみにあらず、ただ威儀行仏なるのみなり。

しかあればすなはち、為説法為身の消息、よく心にまかす。脱生脱死の威儀、しばらくほとけに一任せり。ゆゑに道取あり、万法唯心、三界唯心。さらに向上に道得するに、唯心の道得あり、いはゆる牆壁瓦礫なり。唯心にあらざるがゆゑに牆壁瓦礫にあらず。これ行仏の威儀なる、任心任法、為説法為身の道理なり。さらに始覚本覚等の所及にあらず。いはんや外道二乗、三賢十聖の所及ならんや。この威儀、ただこれ面々の不会なり、枚々の不会なり。たとひ活驋々地も条々聻なり。一条鐵か、両頭動か。一条鐵は長短にあらず両頭動は自他にあらず。

この展事投機のちから、功夫をうるに、威掩万法(威、万法を掩ふ)なり、眼高一世(眼、一世に高し)なり、收放をさへざる光明あり、僧堂仏殿厨庫三門。さらに收放にあらざる光明あり、僧堂仏殿厨庫三門なり。さらに十方通のまなこあり、大地全收のまなこあり。心のまへあり、心のうしろあり。かくのごとくの眼耳鼻舌身意、光明功徳の熾然なるゆゑに、不知有を保任せる三世諸仏あり、却知有を投機せる貍奴白牯あり。この巴鼻あり、この眼睛あるは、法の行仏のとき、法の行仏をゆるすなり。

雪峰山真覚大師、衆に示して云く、三世諸仏、在火焔裏、転大法輪(三世諸仏、火焔裏に在つて大法輪を転ず)。

玄沙院宗一大師云、火焔為三世諸仏説法、三世諸仏立地聴(火焔ゝ三世諸仏の為に説法するに、三世諸仏地に立ちて聴く)。

圜悟禅師云、将謂獼猴白、更有獼猴黒、互換投機、神出鬼没(将に謂へり獼猴白と、更に獼猴黒有り。互換の投機、神出鬼没なり)。

烈焔亙天仏説法、
亙天烈焔法説仏。
風前剪断葛藤窠、
一言勘破維摩詰。

(烈焔亙天は、仏、法を説くなり、亙天烈焔は、法、仏を説くなり。風前に剪断す葛藤窠、一言に勘破す維摩詰。)

いま三世諸仏といふは、一切諸仏なり。行仏すなはち三世諸仏なり。十方諸仏、ともに三世にあらざるなし。仏道は三世をとくに、かくのごとく説尽するなり。いま行仏をたづぬるに、すなはち三世諸仏なり。たとひ知有なりといへども、たとひ不知有なりといへども、かならず三世諸仏なる行仏なり。

しかあるに、三位の古仏、おなじく三世諸仏を道得するに、かくのごとくの道あり。しばらく雪峰のいふ三世諸仏、在火焔裏、転大法輪といふ、この道理ならふべし。三世諸仏の転法輪の道場は、かならず火焔裏なるべし。火焔裏かならず仏道場なるべし。経師論師きくべからず、外道二乗しるべからず。

しるべし、諸仏の火焔は諸類の火焔なるべからず。又、諸類は火焔あるかなきかとも照顧すべし。三世諸仏の在火焔裏の化儀、ならふべし。火焔裏に処在する時は、火焔と諸仏と親切なるか、転疎なるか。依正一如なるか、依報正報あるか。依正同条なるか、依正同隔なるか。転大法輪は転自転機あるべし。展事投機なり、転法法転あるべし。すでに転法輪といふ、たとひ尽大地これ尽火焔なりとも、転火輪の法輪あるべし、転諸仏祖の法輪あるべし、転法輪法輪あるべし、転三世の法輪あるべし。

しかあればすなはち、火焔は諸仏の転大法輪の大道場なり。これを界量、時量、人量、凡聖量等をもて測量するは、あたらざるなり。これらの量に量ぜられざれば、すなはち三世諸仏、在火焔裏、転大法輪なり。すでに三世諸仏といふ、これ量を超越せるなり。三世諸仏、転法輪道場なるがゆゑに火焔あるなり。火焔あるがゆゑに諸仏の道場あるなり。

玄沙いはく、火焔の三世諸仏のために説法するに、三世諸仏は立地聴法す。この道をききて、玄沙の道は雪峰の道よりも道得是なりといふ、かならずしもしかあらざるなり。しるべし、雪峰の道は、玄沙の道と別なり。いはゆる雪峰は、三世諸仏の転大法輪の処在を道取し、玄沙は、三世諸仏の聴法を道取するなり。雪峰の道、まさしく転法を道取すれども、転法の処在かならずしも聴法不聴を論ずるにあらず。

しかあれば、転法にかならず聴法あるべしときこえず。又、三世諸仏、為火焔説法といはず、三世諸仏、為三世諸仏、転大法輪といはず、火焔為火焔、転大法輪といはざる宗旨あるべし。転法輪といひ、転大法輪といふ、その別あるか。転法輪は説法にあらず、説法かならずしも為他あらんや。

しかあれば、雪峰の道の、道取すべき道を道取しつくさざる道にあらず。

雪峰の在火焔裏、転大法輪、かならず委悉に参学すべし。玄沙の道に混乱することなかれ。雪峰の道を通ずるは、仏威儀を威儀するなり。火焔の三世諸仏を在裏せしむる、一無尽法界、二無尽法界の周遍のみにあらず。一微塵二微塵の神通達のみにあらず。転大法輪を量として、大小広狹の量に擬することなかれ。転大法輪は、為自為他にあらず、為説為聴にあらず。

玄沙の道に、火焔為三世諸仏説法、三世諸仏立地聴といふ、これは火焔たとひ為三世諸仏説法すとも、いまだ転法輪すといはず、また三世諸仏祖の法輪を転ずといはず。三世諸仏は立地聴すとも、三世諸仏祖の法輪、いかでか火焔これを転ずることあらん。為三世諸仏説法する火焔、又転大法輪すやいなや。

玄沙もいまだいはず、転法輪はこのときなりと。転法輪なしといはず。しかあれども、想料すらくは、玄沙おろかに転法輪は説法輪ならんと会取せるか。もししかあらば、なほ雪峰の道にくらし。火焔の三世諸仏のために説法のとき、三世諸仏立地聴法すとはしれりといへども、火焔転法輪のところに、火焔立地聴法すと知らず。火焔転法輪のところに、火焔同転法輪すといはず。三世諸仏の聴法は、諸仏祖の法なり、他よりかうぶらしむるにあらず。火焔を法と認ずることなかれ、火焔を仏と認ずることなかれ、火焔を火焔と認ずることなかれ。まことに師資の道なほざりなるべからず。将謂赤鬚胡のみならんや、さらにこれ胡鬚赤なり。

玄沙の道かくのごとくなりといへども、参学の力量とすべきところあり。いはゆる経師論師の大乗小乗の局量の性相にかかはれず、仏々祖々正伝せる性相を参学すべし。いはゆる三世諸仏の聴法なり。これ大小乗の性相にあらざるところなり。諸仏は機に逗する説法ありとのみしりて、諸仏聴法すといはず、諸仏修行すといはず、諸仏成仏すといはず。いま玄沙の道には、すでに三世諸仏立地聴法といふ、諸仏聴法する性相あり。かならずしも能説をすぐれたりとし、能聴是法者を劣なりといふことなかれ。説者尊なれば、聴者も尊なり。

釈迦牟尼仏のいはく、

若説此経、則為見我、為一人説、是則為難。

(若し此の経を説かんは、則ち我を見ると為す、一人の為に説くは、是れ則ち難しと為す。)

しかあれば、能説法は見釈迦牟尼仏なり、則為見我は釈迦牟尼なるがゆゑに。

又いはく、

於我滅後、聴受此経、問其義趣、是則為難。

(我が滅後に於て、此の経を聴受し、其の義趣を問ふは、是れ則ち難しと為す。)

しるべし、聴受者もおなじくこれ為難なり、勝劣あるにあらず。立地聴これ最尊なる諸仏なりといふとも、立地聴法あるべきなり、立地聴法これ三世諸仏なるがゆゑに。諸仏は果上なり、因中の聴法をいふにあらず、すでに三世諸仏とあるがゆゑに。しるべし、三世諸仏は火焔の法を立地聴法して諸仏なり。一道の化儀、たどるべきにあらず。

たどらんとするに、箭鋒相せり。火焔は決定して三世諸仏のために説法す。赤心片々として鐵樹花開世界香(鐵樹、花開いて世界香ばし)なるなり。且道すらくは、火焔の説法を立地聴しもてゆくに、畢竟じて現成箇什麼。いはゆるは智勝于師(智、師に勝る)なるべし、智等于師(智、師に等し)なるべし。さらに師資の奥に参究して三世諸仏なるなり。

圜悟いはくの獼猴白と将謂する、さらに獼猴黒をさへざる、互換の投機、それ神出鬼没なり。これは玄沙と同条出すれども、玄沙に同条入せざる一路もあるべしといへども、火焔の諸仏なるか、諸仏を火焔とせるか。黒白互換の心、玄沙の神鬼に出没すといへども、雪峰の声色、いまだ黒白の際にのこらず。しかもかくのごとくなりといへども、玄沙に道是あり、道不是あり。雪峰に道拈あり、道放あることをしるべし。

いま圜悟さらに玄沙に同ぜず、雪峰に同ぜざる道あり、いはゆる烈焔亙天はほとけ法をとくなり、亙天烈焔は法ほとけをとくなり。
この道は、真箇これ晩進の光明なり。たとひ烈焔にくらしといふとも、亙天におほはれば、われその分あり、他この分あり。亙天のおほふところ、すでにこれ烈焔なり。這箇をきらうて用那頭は作麼生なるのみなり。

よろこぶべし、この皮袋子、むまれたるところは去聖方遠なり、いけるいまは去聖時遠なりといへども、亙天の化導なほきこゆるにあへり。いはゆるほとけ法をとく事は、きくところなりといへども、法ほとけをとくことは、いくかさなりの不知をかわづらひこし。

しかあればすなはち、三世の諸仏は三世に法をとかれ、三世の法は三世に仏にとかるるなり。葛藤窠の風前に剪断する亙天のみあり。一言は、かくるることなく、勘破しきたる、維摩詰をも非維摩詰をも。しかあればすなはち、法説仏なり、法行仏なり、法証仏なり。仏説法なり、仏行仏なり、仏作仏なり。かくのごとくなる、ともに行仏の威儀なり。亙天亙地、亙古亙今にも、得者不軽微、明者不賤用なり。

正法眼蔵行仏威儀第六

仁治二年辛丑十月中旬記于観音導利興聖宝林寺
沙門道元

※このページは学問的な正確性を追求するものではありません。より分かりやすくする為に漢字をひらがなに、旧字体を新字体に、( )にふりがなをつけるなど、原文に忠実ではありません。

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