【仏教用語/人物集 索引】

「正法眼蔵」恁麼(いんも)

投稿日:1242年3月20日 更新日:

雲居山弘覚大師は、洞山の嫡子なり。釈迦牟尼仏より三十九世の法孫なり、洞山宗の嫡祖なり。

一日示衆云、欲得恁麼事、須是恁麼人。是恁麼人、何愁恁麼事。
いはゆるは、恁麼事をえんとおもふは、すべからくこれ恁麼人なるべし。すでにこれ恁麼人なり、なんぞ恁麼事をうれへん。この宗旨は、直趣無上菩提、しばらくこれを恁麼といふ。この無上菩提のていたらくは、すなはち尽十方界も無上菩提の少許なり。さらに菩提の尽界よりもあまるべし。我らもかの尽十方界のなかにあらゆる調度なり。なにによりてか恁麼あるとしる。いはゆる身心ともに尽界にあらはれて、我にあらざるゆゑにしかありとしるなり。

身すでにわたくしにあらず、いのちは光陰にうつされてしばらくもとどめがたし。紅顔いづくへかさりにし、たづねんとするに蹤跡なし。つらつら観ずるところに、往事のふたたびあふべからざるおほし。赤心もとどまらず、片々として往来す。たとひまことありといふとも、吾我のほとりにとどこほるものにあらず。恁麼なるに、無端に発心するものあり。この心おこるより、向来もてあそぶところをなげ捨てて、所未聞をきかんとねがひ、所未証を証せんともとむる、ひとへにわたくしの所為にあらず。しるべし、恁麼人なるゆゑにしかあるなり。なにをもつてか恁麼人にてありとしる、すなはち恁麼事をえんとおもふによりて恁麼人なりとしるなり。

すでに恁麼人の面目あり、いまの恁麼事をうれふべからず。うれふるもこれ恁麼事なるがゆゑに、うれへにあらざるなり。又恁麼事の恁麼あるにも、おどろくべからず。たとひおどろきあやしまるる恁麼ありとも、さらにこれ恁麼なり。おどろくべからずといふ恁麼あるなり。

これただ仏量にて量ずべからず、心量にて量ずべからず、法界量にて量ずべからず、尽界量にて量ずべからず。ただまさに即是恁麼人、何愁恁麼事なるべし。このゆゑに、声色の恁麼は恁麼なるべし、身心の恁麼は恁麼なるべし、仏の恁麼は恁麼なるべきなり。たとへば、因地倒者(地に因りて倒るる者)のときを恁麼なりと恁麼会なるに、必因地起(必ず地に因りて起く)の恁麼のとき、因地倒をあやしまざるなり。

古昔よりいひきたり、西天よりいひきたり、天上よりいひきたれる道あり。いはゆる若因地倒、還因地起、離地求起、終無其理(若し地に因りて倒るるは、還た地に因りて起く、地を離れて起きんと求むるは、終に其の理無けん)。

いはゆる道は、地によりてたふるるものはかならず地によりておく、地によらずしておきんことをもとむるは、さらにうべからずとなり。しかあるを挙拈して、大悟をうるはしとし、身心をもぬくる道とせり。このゆゑに、もし、いかなるか諸仏成道の道理なると問著するにも、地にたふるるものの地によりておくるがごとしといふ。これを参究して向来をも透脱すべし、末上をも透脱すべし、正当恁麼時をも透脱すべし。

大悟不悟、却迷失迷、被悟礙、被迷礙。ともにこれ地にたふるるものの、地によりておくる道理なり。これ天上天下の道得なり、西天東地の道得なり、古往今来の道得なり、古仏新仏祖の道得なり。この道得、さらに道未尽あらず、道虧闕あらざるなり。

しかあれども、恁麼会のみにして、さらに不恁麼会なきは、この言葉を参究せざるがごとし。たとひ古仏祖の道得は恁麼つたはれりといふとも、さらに古仏として古仏祖の道を聞著せんとき、向上の聞著あるべし。いまだ西天に道取せず、天上に道取せずといへども、さらに道著の道理あるなり。いはゆる地によりてたふるるもの、もし地によりておきんことをもとむるには、無量をふるに、さらにおくべからず。まさにひとつの活路よりおくることをうるなり。いはゆる地によりてたふるるものは、かならず空によりておき、空によりてたふるるものは、かならず地によりておくるなり。もし恁麼あらざらんは、つひにおくることあるべからず。諸仏諸祖、みなかくのごとくありしなり。

もし人ありて恁麼とはん、空と地と、あひさることいくそばくぞ。
恁麼問著せんに、彼にむかひて恁麼いふべし、空と地と、あひさること十万八千里なり。若因地倒、必因空起、離空求起、終無其理、若因空倒、必因地起、離地求起、終無其理(地に因りて倒るるがごときは、必ず空に因りて起く。空を離れて起きんと求むるは終に其の理無けん。空に因りて倒るるがごときは、必ず地に因りて起く。地を離れて起きんと求むるは終に其の理無けん)。
もしいまだかくのごとく道取せざらんは、仏道の地空の量、いまだしらざるなり、いまだみざるなり。

第十七代の祖師、僧伽難提尊者、ちなみに伽耶舎多、これ法嗣なり。あるとき、殿にかけてある鈴鐸の、風にふかれてなるをききて、伽耶舎多にとふ、風のなるとやせん、鈴のなるとやせん。

伽耶舎多まうさく、風の鳴にあらず、鈴の鳴にあらず、我心の鳴なり。
僧伽難提尊者いはく、心はまたなにぞや。
伽耶舎多まうさく、ともに寂静なるがゆゑに。
僧伽難提尊者いはく、善哉善哉、我が道を次べきこと、子にあらずよりはたれぞや。
つひに正法眼蔵を伝付す。

これは風の鳴にあらざるところに、我心鳴を学す。鈴のなるにあらざるとき、我心鳴を学す。我心鳴はたとひ恁麼なりといへども、倶寂静なり。
西天より東地につたはれ、古代より今日にいたるまで、この因縁を学道の標準とせるに、あやまるたぐひおほし。

伽耶舎多の道取する風のなるにあらず、鈴のなるにあらず、心のなるなりといふは、能聞の恁麼時の正当に念起あり、この念起を心といふ。この心念もしなくは、いかでか鳴響を縁ぜん。この念によりて聞を成ずるによりて、聞の根本といひぬべきによりて、心のなるといふなり。これは邪解なり。正師のちからをえざるによりてかくのごとし。たとへば、依主隣近の論師の釈のごとし。かくのごとくなるは仏道の玄学にあらず。

しかあるを、仏道の嫡嗣に学しきたれるには、無上菩提正法眼蔵、これを寂静といひ、無為といひ、三昧といひ、陀羅尼といふ道理は、一法わづかに寂静なれば、万法ともに寂静なり。風吹寂静なれば鈴鳴寂静なり。このゆゑに倶寂静といふなり。心鳴は風鳴にあらず、心鳴は鈴鳴にあらず、心鳴は心鳴にあらずと道取するなり。親切の恁麼なるを究弁せんよりは、さらにただいふべし、風鳴なり、鈴鳴なり、吹鳴なり、鳴鳴なりともいふべし。何愁恁麼事のゆゑに恁麼あるにあらず、何関恁麼事なるによりて恁麼なるなり。

第三十三祖大鑑禅師、未剃髪のとき、広州法性寺に宿するに、二僧ありて相論するに、一僧いはく、幡の動ずるなり。
一僧いはく、風の動ずるなり。
かくのごとく相論往来して休歇せざるに、六祖いはく、風動にあらず、幡動にあらず、仁者心動なり。

二僧ききてすみやかに信受す。
この二僧は西天よりきたれりけるなり。しかあればすなはち、この道著は風も幡も動も、ともに心にてあると、六祖は道取するなり。まさにいま六祖の道をきくといへども、六祖の道を知らず。いはんや六祖の道得を道取することをえんや。為甚麼恁麼道(甚麼としてか恁麼道ふ)。

いはゆる仁者心動の道をききて、すなはち仁者心動といはんとしては、仁者心動と道取するは、六祖をみず、六祖を知らず、六祖の法孫にあらざるなり。いま六祖の児孫として、六祖の道を道取し、六祖の身体髪膚をえて道取するには、恁麼いふべきなり。いはゆる仁者心動はさもあらばあれ、さらに仁者動といふべし。為甚麼恁麼道。
いはゆる動者動なるがゆゑに、仁者仁者なるによりてなり。是恁麼人なるがゆゑに恁麼道なり。

六祖のむかしは新州の樵夫なり。山をもきはめ、水をもきはむ。たとひ青松の下に功夫して根源を截断せりとも、なにとしてか明窓の内に従容して、照心の古教ありとしらん。澡雪たれにかならふ。いちにありて経をきく、これみづからまちしところにあらず、他のすすむるにあらず。

いとけなくして父を喪し、長じては母をやしなふ。知らず、このころもにかかれりける一顆珠の乾坤を照破することを。たちまちに発明せしより、老母を捨てて知識をたづぬ、人のまれなる儀なり。恩愛のたれかかろからん。法をおもくして恩愛をかろくするによりて棄恩せしなり。これすなはち有智若聞、即能信解(智有るもの若し聞かば、即ち能く信解す)の道理なり。

いはゆる智は、人に学せず、みづからおこすにあらず。智よく智につたはれ、智すなはち智をたづぬるなり。五百の蝙蝠は智おのづから身をつくる。さらに身なし、心なし。十千の游魚は智したしく身にてあるゆゑに、縁にあらず、因にあらずといへども、聞法すれば即解するなり。

きたるにあらず、入にあらず。たとへば、東君の春にあふがごとし。智は有念にあらず、智は無念にあらず。智は有心にあらず、智は無心にあらず。いはんや大小にかかはらんや、いはんや迷悟の論ならんや。いふところは、仏法はいかにあることとも知らず、さきより聞取するにあらざれば、したふにあらず、ねがふにあらざれども、聞法するに、恩をかろくし身をわするるは、有智の身心すでに自己にあらざるがゆゑにしかあらしむるなり。これを即能信解といふ。

知らず、いくめぐりの生死にか、この智をもちながら、いたづらなる塵労に巡る。なほし石の玉をつつめるが、玉も石につつまれりとも知らず、石も玉をつつめりともしらざるがごとし。人これをしる、人これを採。これすなはち玉の期せざるところ、石のまたざるところ、石の知見によらず、玉の思量にあらざるなり。すなはち人と智とあひしらざれども、道かならず智にきかるるがごとし。

無智疑怪、即為永失(智無きは疑怪す、即ち為めに永く失ふ)といふ道あり。智かならずしも有にあらず、智かならずしも無にあらざれども、一時の春松なる有あり、秋菊なる無あり。この無智のとき、三菩提みな疑怪となる、尽諸法みな疑怪なり。このとき永失即為なり。

所聞すべき道、所証なるべき法、しかしながら疑怪なり。我にあらず、徧界かくるるところなし。たれにあらず、万里一条鐵なり。たとひ恁麼して抽枝なりとも、十方仏土中、唯有一乗法なり。たとひ恁麼して葉落すとも、是法住法位、世間相常住なり。即是恁麼事なるによりて、有智と無智と、日面と月面となり。

恁麼人なるがゆゑに、六祖も発明せり。つひにすなはち黄梅山に参じて大満禅師を拝するに、行堂に投下せしむ。昼夜に米を碓こと、わづかに八箇月をふるほどに、あるとき夜ふかく更たけて、大満みづからひそかに碓房にいたりて六祖にとふ、米白也未(米白まれりや未だしや)と。

六祖いはく、白也未有篩在(白けれども未だ篩ること有らず)。
大満つゑして臼をうつこと三下するに、六祖、箕にいれる米をみたび簸る。このときを、師資の道あひかなふといふ。みづからも知らず、他も不会なりといへども、伝法伝衣、まさしく恁麼の正当時節なり。

南嶽山無際大師、ちなみに薬山とふ、三乗十二分教某甲粗知。嘗聞南方直指人心、見性成仏、実未明了。伏望和尚、慈悲指示(三乗十二分教は某甲粗知れり。嘗て聞く、南方の直指人心、見性成仏、実に未だ明了ならず。伏望すらくは和尚、慈悲をもて指示したまはんことを)。

これ薬山の問なり。薬山は本為講者なり。三乗十二分教は通利せりけるなり。しかあれば、仏法さらに昧然なきがごとし。むかしは別宗いまだおこらず、ただ三乗十二分教をあきらむるを教学の家風とせり。いまの人おほく鈍致にして、各々の宗旨をたてて仏法を度量する、仏道の法度にあらず。

大師いはく、恁麼也不得、不恁麼也不得、恁麼不恁麼總不得、汝作麼生(恁麼も不得、不恁麼も不得なり、恁麼不恁麼總に不得なり。汝作麼生)。

これすなはち大師の薬山のためにする道なり。まことにそれ恁麼不恁麼總不得なるゆゑに、恁麼不得なり、不恁麼不得なり。恁麼は恁麼をいふなり。有限の道用にあらず、無限の道用にあらず、恁麼は不得に参学すべし、不得は恁麼に問取すべし。這箇の恁麼および不得、ひとへに仏量のみにかかはれるにあらざるなり。会不得なり、悟不得なり。

曹渓山大鑑禅師、ちなみに南嶽大慧禅師にしめすにいはく、是什麼物恁麼来。
この道は、恁麼はこれ不疑なり、不会なるがゆゑに、是什麼物なるがゆゑに、万物まことにかならず什麼物なると参究すべし。一物まことにかならず什麼物なると参究すべし。什麼物は疑著にはあらざるなり、恁麼来なり。

正法眼蔵恁麼第十七

爾時仁治三年壬寅三月二十日在于観音導利興聖宝林寺示衆
寛元元年癸卯四月十四日書写之侍者寮 懐奘

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