仏教を本気で学ぶ

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『釈氏要覧』 (しゃくしようらん)

1019年(天禧3年)、宋(中国)の道誠(どうせい)が編纂した全3巻から成る仏教の故実や名目の簡潔な解説書です。<< 戻る
人物

源信(げんしん)- 恵心僧都(えしんそうず)

源信は、平安時代中期に比叡山で修行を積んだ天台宗の僧侶です。恵心僧都と尊称されます。源信は死後阿弥陀如来の来迎を受けて、極楽浄土へ生まれることを願う、浄土信仰を広めた僧として知られます。『往生要集』(おうじょうようしゅう)などにより源信が示した具体的な死後の世界のイメージは、後世へも多大な影響を及ぼしました。浄土真宗では、七高僧の第六祖とされ、源信和尚、源信大師と尊称されます。生誕 天慶5年(942年)、大和国(現在の奈良県)北葛城郡当麻に生まれました。源信の母が、高雄寺の観音像に祈願したところ、その霊験によって源信を授かったといわれ、その観音菩薩立像(重要文化財)は現存します。幼名は「千菊丸...
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祈親上人定誉、高野山復興に着手

落雷からの火災で荒廃した高野山を再興したのは、法華経の持経者(聖)だった興福寺の定誉(958-1047)です。長和5年(1016年)、観音像のお告げで高野山に登った定誉は、冬の寒さを防ぐ方法を編み出し、僧侶たちを山内へ呼び戻すなど、金剛峯寺の復興につとめました。 << 戻る
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『往生要集』(おうじょうようしゅう)

平安時代の中ごろにあたる985年、源信(げんしん)(恵心僧都・えしんそうず)の書いた1部3巻からなる仏教書。極楽浄土のすばらしさと念仏往生(ねんぶつおうじょう)の方法をのべたものです。この教えは、末法思想(まっぽうしそう)の流行とあいまって、貴族をはじめ、多くの人々の間に広まりました。後の時代、法然や親鸞などにあたえた影響が大きいです。死後に極楽往生するには、一心に仏を想い念仏の行をあげる以外に方法はないと説き、浄土教の基礎をつくりました。また、地獄・極楽の観念、厭離穢土・欣求浄土の精神は、貴族・庶民らにも普及し、後の文学思想にも大きな影響を与えました。一方、易行とも言える称名念仏とは別に、瞑...
人物

空也(くうや)

空也とは、平安時代中期の僧侶。阿弥陀聖(あみだひじり)、市聖(いちのひじり)、市上人と称されます。口称念仏の祖、民間における浄土教の先駆者として、空也流の念仏勧進聖は鎌倉仏教の浄土信仰を醸成したとされています。空也自身は複数宗派と関わりを持つ超宗派的立場を保ち、没後も空也の法統を直接伝える宗派は組織されませんでした。踊念仏、六斎念仏の開祖とも仰がれますが、空也自身がいわゆる踊念仏を修したという確証はないといわれています。門弟は、高野聖など中世以降に広まった民間浄土教行者「念仏聖」の先駆となり、鎌倉時代の一遍に多大な影響を与えたといわれています。空也を現した彫像のうち、重要文化財として国が指定し...
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弘法大師の諡号を賜わる

延喜21(921)年、空海上人は醍醐天皇から弘法大師の諡号(しごう)を賜わる。東寺と金剛峯寺座主を兼務する観賢は、朝廷に働きかけて空海上人への弘法大師号宣下を実現させました。ですから、空海上人が「弘法大師」と呼ばれるようになったのはこれ以降です。 観賢は、諡号宣下の勅書と醍醐天皇の賜衣を奉じて高野山に乗り込み、大師号の報告会を行いました。『日本紀略』には、観賢が報告のため奥の院の廟所を開けたところ、空海の顔色は生前のままだったと記されています。この話が伝わり、空海は実は亡くなって荼毘に付されたわけではなく、御廟の中で「入定(にゅうじょう)」していると信じられるようになりました。 入定とは、生死...
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観賢、東寺と金剛峯寺座主を兼務

延喜十九年(919年)、観賢(八五四~九二五年)、東寺と金剛峯寺座主を兼務する。空海上人が入滅後、金剛峯寺(高野山)や東寺、高雄山寺(神護寺)などの真言宗諸寺はそれぞれ独立した寺院としての道を歩み始めました。やがて、金剛峯寺と東寺のどちらを本寺とするかという論争が起きます(本末争い)。 そこで、観賢が東寺と金剛峯寺座主を兼務し、東寺を本寺、金剛峯寺を末寺と決めたことで決着し、金剛峯寺は本末争いに負けた形となりました。 << 戻る
人物

相応和尚(そうおうかしょう)

相応和尚は近江国浅井郡の出身で、孝昭天皇の第一皇子天帯彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)の子孫と伝えられています。15歳の時、鎮操(ちんそう)大徳に随って比叡山に登り17歳で剃髪し沙弥になりました。その後、法華経常不軽品によって大菩提心を発し、六、七年間一日も欠かさず根本中堂に花を供え続けていました。その信心堅固な青年僧を見いだし、年分度者(ねんぶんどしゃ)として得度せしめたのは慈覚大師円仁大徳でした。大師は大納言藤原良相(よしみ)からの度者の推薦依頼もあり、良相の一字を取って「相応(そうおう)」と名付けられました。比叡山の回峯行は、役小角(えんのおづぬ)を開祖とする南山修験に対...
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モンゴル系の契丹族(きったんぞく)が,満州や中国北部を支配した国(916〜1125)。渤海(ぼっかい)を滅ぼし、唐の滅亡に乗じて華北にも進入。契丹文字をつくるなど民族の独自性をたもつようにしながら、領土内の農耕民の社会にあわせた支配しはいをした。また仏教もさかんだった。宋とむすんだ女真族(じょしんぞく)の金にほろぼされた。<< 戻る
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補陀落渡海のはじまり

868年11月3日、慶龍上人が熊野那智より渡海したのが一番古い記録です(「熊野年代記」)。補陀洛山寺は「補陀落渡海(ふだらくとかい)」の出発点だったことで知られています。「補陀落」とはサンスクリット語の「ポタラカ」の音訳で、南方の彼方にある観音菩薩の住まう浄土のことをいい、『華厳経』にはインドの南端にあると説かれています。観音信仰の流布と共に、チベットや中国にも補陀落は想定されました。チベットではラサ北西に建つ、観音の化身ダライラマの宮殿をポタラ(補陀落)宮と呼び、中国では舟山諸島の2つの島を補陀落としました。日本においては南の海の果てに補陀落浄土はあるとされ、その南海の彼方の補陀落を目指して...
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伝教大師の諡号が贈られる

貞観8(866)年、清和天皇より最澄上人に伝教大師の諡号が贈られました。大師号も日本ではこれが最初です。<< 戻る
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弘法大師 空海上人(こうぼうだいしくうかいしょうにん)

空海は、宝亀5(774)年6月15日、讃岐国の屏風ガ浦(現在の四国香川県善通寺市)で誕生しました。父は、郡司・佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)、母は、玉依御前(たまよりごぜん)の三男で、幼名を真魚(まお)といいました。延暦7(788)年、平城京(古都。784年、長岡京に遷都)に出て、延暦8(789)年、母方の叔父さんである阿刀大足(あとのおおたり)について論語、孝経、史伝、文章などを学びました。延暦11(792)年、18歳で長岡京の大学寮に入り、明経道、春秋左氏伝、毛詩、尚書などを学んだと伝えられます。大学寮の勉強だけではもの足らず、大学寮を去って仏道修行を始めました。一説には奈良岩渕寺の勤...
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最初の万燈万華会

天長9(832)年8月22日、高野山において最初の万燈万華会(まんどうまんげえ)を修しました。萬燈萬華会(略して萬燈会)は、多くの灯明と多くの華を仏さまに供養し、人々の望みが叶うよう祈る法要です。例えば、突然の停電で暗くなると不安に襲われますが、懐中電灯をつけるとか、ロウソクに火を灯せば、ホッと安心するはずです。光のもたらすこうした効能から、灯明を物事の真実を見極める仏さまの智恵のシンボルとし、また我がいのちを燃やして周囲に幸せを及ぼす、仏さまの働きの象徴としました。 一方、自然の中に育つ草木は、厳しい気候の変化に耐え抜いて、美しい花を咲かせます。そこで花は、苦難に負けずに耐え抜く力(忍辱=に...
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空海上人、綜芸種智院を開設

天長5(828)年、空海上人は東寺の東にあった藤原三守の私邸を譲り受け、一般の人たちが誰でも勉強できるように私立の教育施設「綜芸種智院」を開設しました。<< 戻る
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伝教大師 最澄上人(でんぎょうだいし さいちょうしょうにん)

最澄とは、平安時代の僧で、日本天台宗の開祖であり、伝教大師として広く知られます。中国に渡って仏教を学び、帰国後、比叡山延暦寺を建立して天台宗の開祖となりました。伝教大師とは、最澄のことで、日本で最初に賜った大師号です。最澄は、神護景雲元(767)年8月18日、現在の滋賀県大津市坂本の一帯を統治していた三津首百枝(みつのおびとももえ)の子として誕生しました。俗名は広野(ひろの)です。宝亀9(778)年、12歳のとき、近江の国分寺(現在の大津市石山)に入り行表の弟子となります。宝亀11(780)年11月12日、14歳で国分寺僧補欠として得度し、「最澄」という名前が付きました。やがて奈良の都に行き、...
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天台法華宗年分学生式を奏上

弘仁9(818)年5月13日、『天台法華宗年分学生式』(てんだいほっけしゅうねんぶんがくしょうしき)(『六条式』『山家学生式』(さんげがくしょうしき)とも)を最澄上人が天皇に奏上しました。そこには、比叡山での教育方針や修行方法などが示され、天台宗の年分度者は比叡山において大乗戒を受けて菩薩僧となり、12年間山中で修行することを義務づけています。国の宝とは何物ぞ、宝とは道心なり。道心ある人を名づけて国宝と為す。故に古人言わく、径寸十枚、是れ国宝にあらず、一隅を照す、此れ則ち国宝なりと。古哲また云わく、能く言いて行うこと能わざるは国の師なり、能く行いて言うこと能わざるは国の用なり、能く行い能く言う...
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金剛界結縁灌頂、胎蔵灌頂の開壇

弘仁3(812)年11月15日、空海上人は高雄山寺にて金剛界結縁灌頂を開壇し、12月14日には胎蔵灌頂を開壇しました。入壇者は最澄やその弟子円澄、光定、泰範のほか190名にのぼりました。<< 戻る
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真言宗の開宗

弘仁元(810)年、空海上人は嵯峨天皇から書を奉り、「真言宗」という宗旨を開く許しを得ました。<< 戻る
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成実宗が伝わる

成実宗(じょうじつしゅう)は、百済の道蔵が日本へ伝えました。延暦25年(806年)の太政官符によれば、三論業3名のうち、1名には成実論を読ませた、とあります。俗諦と真諦とを対立させ、俗諦の存在を認めるが、真実界に立ってみればそれは空であると説かれています。成実宗とは『成実論』を研究する論宗(経を所依とせず、論を所依とする宗派)です。中国十三宗・日本の南都六宗の1つで、三論宗に附属する宗派です。<< 戻る
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天台宗が公認される

延暦25(806)年、華厳宗・律宗・三論宗(成実宗含む)・法相宗(倶舎宗含む)に天台宗を加えて十二名の年分度者が許されることになり、天台宗が公認されました。このころ、最澄上人は空海から、真言、悉曇(梵字)、華厳の典籍を借り、研究したといわれています。<< 戻る
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空海上人、真言密教の第八祖に

永貞元(延暦24、805)年2月、長安の西明寺に滞在し、まず醴泉寺の印度僧般若三蔵に学び、梵語の経本や新訳経典を与えられる。5月より、正統の真言密教を継がれた第七祖である青龍寺東塔院(しょうりゅうじとうとういん)の恵果和尚(けいかかしょう)を訪れ、6月に大悲胎蔵の学法灌頂、7月に金剛界の灌頂、8月に伝法阿闍梨位の灌頂を受け、「この世の一切を遍く照らす最上の者」(大日如来)を意味する遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えられ、真言密教の第八祖となりました。<< 戻る
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道鏡(どうきょう)

道鏡とは、河内国若江郡(現在の八尾市の一部)出身の奈良時代の僧で、葛城山などで厳しい修業を積み、修験道や呪術にも優れ、孝謙上皇(東大寺を建てた聖武天皇と光明皇后の娘)の病気を治したことから重用されるようになりました。孝謙上皇とは、日本の歴史上8人の女性天皇が存在したその一人で、奈良時代に第46代の孝謙天皇(こうけんてんのう)、一旦譲位し、第48代の称徳天皇(しょうとくてんのう)として即位しています。道鏡を皇位につけようとした宇佐八幡宮神託事件(うさはちまんぐう しんたく じけん)が明るみに出たことや、天皇の後ろ盾を失くしたことで道鏡は失脚します。文武天皇4年(700年)、河内国若江郡(現在の八...
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『理趣経』(りしゅきょう)

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鑑真(がんじん)

鑑真とは、中国(唐)から6度の航海の末に来日し、東大寺に戒壇を開き、律宗の継承者であり、4万人以上の人々に授戒を行ったとされる中国人僧侶です。揚州江陽県に生まれ、14歳で智満について得度し、18歳で道岸から菩薩戒を受け、20歳で長安に入り、律宗・天台宗を学びます。鑑真は「四分律」に基づく南山律宗の継承者であり、4万人以上の人々に授戒を行ったとされています。日本から唐に渡った留学僧・栄叡、普照は授戒できる僧10人を招請するため唐に渡り、742年、戒律の僧として高名で揚州の大明寺の住職であった鑑真のもとを訪れます。栄叡と普照の要請を受けた鑑真は、渡日したい者はいないかと弟子に問いかけますが、危険な...
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正倉院ができる

756年、東大寺の宝庫、正倉院ができる。聖武天皇の遺品などを保存、校倉造り。<< 戻る
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鑑真が律宗を伝える

天平勝宝5年(753年)、鑑真(がんじん・688〜763年)が6度の航海の末に、唐から招来し、東大寺に戒壇を開き、聖武上皇、称徳天皇を初めとする人々に日本で初めて戒律を授けました。後に唐招提寺を本拠として戒律研究に専念し、南都六宗の一つとして今日まで続いています。日本の留学僧の願いで日本への渡航を決意しましたが、5度心みて失敗しました。そのため盲目になりましたが意志をかえず、6度めにようやく目的をはたして来日しました。鑑真が伝えたのは「四分律」によるものでしたが、平安時代の最澄や空海はこれを支持せず、空海は「十誦律」を重んじました(ただし、最澄は延暦寺に独自の戒壇を設置するが、空海は受戒につい...
人物

行基(ぎょうき)

行基とは、奈良時代に活躍した高僧です。百済系渡来人の子孫として、和泉国(大阪府)に生まれました。諸国をまわって人々に仏教を広め、朝廷から民衆をまどわすとして弾圧されましたが、後に許され、東大寺の大仏建立にあたっては弟子や民衆を動員して協力し、聖武天皇から日本最初の大僧正(だいそうじょう)に任じられました。また、信者の力を借りて各地に池をほり、道路や橋をつくるなど社会事業にも尽くしたことから、行基菩薩とたたえられました。生誕 天智天皇7年(668年)命日 天平21年2月2日(749年2月23日)<< 戻る
人物

玄昉(げんぼう)

奈良時代の法相宗の僧侶。俗姓は阿刀氏(安斗氏)。安斗阿加布の子とする系図や、善珠の父とする史書もあります。僧官は僧正。717年、中国・唐に入り、法相宗の教学を学び、735年に帰国する。藤原武智麻呂らが流行病により倒れたため、橘諸兄・吉備真備らと共に政界での権力を握ることになりました。また、聖武天皇による東大寺建立の発意等も玄昉の進言によるところが大きいといわれ、鎮護国家のための仏教確立に大きな影響を与えたといわれています。740年、藤原広嗣の乱は権力の中枢にあった玄昉を除くためのものでしたが、藤原仲麻呂の台頭により、745年筑紫観世音寺に左遷されます。生誕 命日 天平18年6月18日(746年...
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大仏造立の詔

743年、大仏造立の詔。<< 戻る
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国分寺・国分尼寺建立の詔

天平13年(741)、聖武天皇により国分寺・国分尼寺(金光明寺・法華寺)建立の詔が発せられました。また、これに伴い、金鍾山寺が昇格して大和金光明寺となり、これが東大寺の前身寺院とされています。<< 戻る
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華厳宗が伝えられる

736年、華厳宗第3祖法蔵(開祖は杜順(557年-640年)、第2祖智儼(602年-668年))門下の審祥によって華厳宗は伝えられました。金鐘寺(後の東大寺)の良弁の招きを受けた審祥は、この寺において『華厳経』・『梵網経』に基づく講義を行い、その思想が反映されて東大寺盧舎那仏像(奈良の大仏)が建立(743年-749年)されました。鎌倉仏教期には、明恵によって密教思想が取り込まれ、さらに凝然による教学の確立がなされています。法相宗と並ぶ、南都六宗の一つで、「十三宗五十六派」の一つです。華厳宗の本尊は、歴史上の仏を超えた絶対的な毘盧遮那仏と一体になっています。菩薩の修行の階梯を説いた「十地品」、善...
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施薬院と悲田院

施薬院(せやくいん)とは、貧しい病人に薬を与え疫病(えきびょう)の治療をした施設です。今の病院にあたります。悲田院(ひでんいん)とは、貧窮者・病者・孤児などの救済施設です。今の養護施設にあたります。723年(養老7年)、皇太子妃時代の光明皇后が奈良の興福寺に施薬院と悲田院を創設しれたという記録が『扶桑略記』にあり、これが記録上最古の施薬院と悲田院です。その後、役割を補い合い、各所につくられるようになりますが、中世には衰亡しました。また、豊臣秀吉が再興しています。光明皇后(701〜760年)は、奈良時代の聖武天皇の皇后です。名は光明子(こうみょうし)といいました。安宿媛(あすかべひめ)ともいいま...