【仏教用語/人物集 索引】

道鏡(どうきょう)

投稿日:0772年4月7日 更新日:

 
道鏡とは、河内国若江郡(現在の八尾市の一部)出身の奈良時代の僧で、葛城山などで厳しい修業を積み、修験道や呪術にも優れ、孝謙上皇(東大寺を建てた聖武天皇と光明皇后の娘)の病気を治したことから重用されるようになりました。

孝謙上皇とは、日本の歴史上8人の女性天皇が存在したその一人で、奈良時代に第46代の孝謙天皇(こうけんてんのう)、一旦譲位し、第48代の称徳天皇(しょうとくてんのう)として即位しています。道鏡を皇位につけようとした宇佐八幡宮神託事件(うさはちまんぐう しんたく じけん)が明るみに出たことや、天皇の後ろ盾を失くしたことで道鏡は失脚します。

文武天皇4年(700年)、河内国若江郡(現在の八尾市の一部)に生まれました。若い頃に法相宗の義淵の弟子となり、良弁から梵語(サンスクリット語)を学びました。禅に通じていたことで知られており、これにより内道場(宮中の仏殿)に入ることを許され、禅師に列せられました。

天平宝字5年(761年)、平城宮改修のために都を一時的に近江国保良宮に移した際、病気を患った孝謙上皇(後の称徳天皇)の傍に侍して看病して以来、その寵愛(ちょうあい)を受けることとなりました。淳仁天皇はこれに対して意見を述べたため、孝謙上皇と淳仁天皇とは争う関係となりました。

天平宝字7年(763年)、興福寺の僧・慈訓に代わって少僧都に任じられ、天平宝字8年(764年)には藤原仲麻呂の乱で太政大臣の藤原仲麻呂が討たれたため、道鏡が太政大臣禅師に任ぜられました。翌年には法王となり、仏教の理念に基づいた政策を推進します。

道鏡の後ろ盾を受け、弟の浄人が8年間で従二位大納言にまで昇進するなど、一門で五位以上の者は10人に達しました。これに加えて道鏡が僧侶でありながら政務に参加することに対する反感もあり、藤原氏らの不満が高まりました。

道鏡の弟である習宜阿曾麻呂(すげのあさまろ)が「道鏡を皇位につかせたなら天下は安泰である」という神託を宇佐八幡宮の神からいただいたと称徳天皇へ報告しました。称徳天皇はこれを確認する為に、和気清麻呂を宇佐八幡宮へ向かわせることにします。

道鏡は「良い返事をもって帰れば高位高官を与えよう」と和気清麻呂に言いましたが、宇佐八幡宮の神より位の高い大神より次のように神託を授かったと、称徳天皇に報告しました。

「天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ。無道の人は宜しく早くはらい除くべし」

(天皇には必ず皇族をたてなさい。無道(そうではない)人(道鏡)は、早くはらい除くべし)

これを聞いた称徳天皇は怒って、和気清麻呂を別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と姉の和気広虫を別部広虫売(わけべのひろむしめ)と改名させて大隅国への流罪にしました。(宇佐八幡宮神託事件)

道鏡は配流途中の和気清麻呂を追って暗殺を試みましたが、失敗したともいわれます。一方、称徳天皇は、和気清麻呂が神託を持ち帰った翌年の神護景雲4年(770年)3月に発病し、8月に崩御しています。

道鏡は葬礼の後も称徳天皇の御陵を守りましたが、8月21日、造下野薬師寺別当(下野国)を命ぜられて下向し、赴任地の下野国で亡くなりました。庶人として葬られたといい、龍興寺(栃木県下野市)境内に道鏡の墓と伝えられる塚があります。

生誕 文武天皇4年(700年)

命日 宝亀3年4月7日(772年5月13日)

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