【仏教用語/人物集 索引】

伝教大師 最澄上人(でんぎょうだいし さいちょうしょうにん)

投稿日:0822年6月4日 更新日:

 
最澄とは、平安時代の僧で、日本天台宗の開祖であり、伝教大師として広く知られます。中国に渡って仏教を学び、帰国後、比叡山延暦寺を建立して天台宗の開祖となりました。伝教大師とは、最澄のことで、日本で最初に賜った大師号です。

最澄は、神護景雲元(767)年8月18日、現在の滋賀県大津市坂本の一帯を統治していた三津首百枝(みつのおびとももえ)の子として誕生しました。俗名は広野(ひろの)です。宝亀9(778)年、12歳のとき、近江の国分寺(現在の大津市石山)に入り行表の弟子となります。宝亀11(780)年11月12日、14歳で国分寺僧補欠として得度し、「最澄」という名前が付きました。

やがて奈良の都に行き、さらに勉強します。そして延暦4(785)年、東大寺で具足戒を受け、受戒後、比叡山に籠り一人修行を続けます。延暦7年(788)年、薬師如来を安置する一乗止観院を建立します。現在の総本堂・根本中堂にあたります。

延暦21(802)年、桓武天皇より入唐求法(にっとうぐほう)の還学生(げんがくしょう、短期留学生)に選ばれ、延暦23(804)年7月、遣唐使船で中国に渡りました。当時、中国に渡るのは命がけのことで、4隻で構成された遣唐使船のうち、中国へ無事に着いたのは2隻だけでした。到着した2隻の内の別の船には、後に真言宗を開いた空海が乗っていました。

中国に着いた最澄は、今の浙江省天台県に位置する天台山に赴き、修禅寺の道邃(どうずい)・仏隴寺の行満(ぎょうまん)に天台教学を学び、道邃より大乗菩薩戒を受けます。その後禅林寺の翛然(しゅくねん)より禅の教えを受け、帰国前には越州龍興寺で順暁阿闍梨から密教の伝法を受けました。こうして多くの経典や法具を携え、延暦24(805)年に帰国しました。

延暦25(806)年、華厳宗・律宗・三論宗(成実宗含む)・法相宗(倶舎宗含む)に天台宗を加えて十二名の年分度者が許されることになり、天台宗が公認されました。このころ、空海から、真言、悉曇(梵字)、華厳の典籍を借り、研究したといわれています。

弘仁9(818)年5月13日、『天台法華宗年分学生式』(てんだいほっけしゅうねんぶんがくしょうしき)(『六条式』『山家学生式』(さんげがくしょうしき)とも)を天皇に奏上しました。そこには、比叡山での教育方針や修行方法などが示され、天台宗の年分度者は比叡山において大乗戒を受けて菩薩僧となり、12年間山中で修行することを義務づけています。

天台宗の年分度者が認可されたあとも、奈良で具足戒を受けなければなりませんでした。最澄は、比叡山に天台宗独自の大乗戒壇院を建立することを国に願い出ましたが、奈良の僧侶たちの猛反対にあい、認可されないまま、弘仁13(822)年6月4日、比叡山の中道院において56歳で遷化されました。その七日後、最澄の悲願であった大乗戒壇院の建立を許される詔が下されます。

弘仁14(824)年、嵯峨天皇は最澄の死を大変惜しまれ、「延暦寺」という寺号を授けられました。このときから比叡山寺(日枝山寺)から延暦寺と呼ばれるようになりました。年号を寺号にしたのは、日本ではこれが最初です。また、貞観8(866)年、清和天皇より伝教大師の諡号が贈られました。大師号も日本ではこれが最初です。

生誕 神護景雲元年8月18日(767年9月15日)

命日 弘仁13年6月4日(822年6月26日)

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