仏教を本気で学ぶ 見性成仏(けんせいじょうぶつ) 見性成仏(けんしょうじょうぶつ)とは、悟りという本来の自分に立ち戻ることで、文字にできない宝を手にすることが出来るという意味です。心というのは、求めても求めてもつかめるものではなく、決まった形がないという事実を、観念ではなく体験として知ることが大切です。▶ 菩提達磨大師 2020.06.11 仏教を本気で学ぶ
仏教を本気で学ぶ 直指人心(じきしにんしん) 直指人心(じきしじんしん)とは、他人の言葉かりを気にせず、自らの心を素直に見つめることによって、自分の可能性を掘り起こすことを意味します。私たちの心の中には、もともと仏心が具わっていることを忘れることなく精進していくことが大切です。▶ 菩提達磨大師 2020.06.10 仏教を本気で学ぶ
仏教を本気で学ぶ 不立文字(ふりゅうもんじ) 不立文字(ふりゅうもんじ)とは、仏教経典の言葉から離れて、ひたすら坐禅することでお釈迦様の悟りを直接体験するという意味で、文字に頼らず実践することです。悟りの境地は言葉や文字では伝えきることはできないので、言葉や文字の限界を知ることが大切だということを伝えている教えです。▶ 菩提達磨大師<< 戻る 2020.06.08 仏教を本気で学ぶ
仏教を本気で学ぶ 開蓮忌(かいれんき) 開蓮忌は亡くなられた日から数えて3日目に行なわれる曹洞宗や臨済宗で行う法事のことです。葬儀・告別式と同じ日に初七日をする傾向にある現在では開蓮忌を省略する場合が多いです。地方によって違うのですが、昔の風習では死亡日に通夜、翌日に葬儀・埋葬、三日目に法事(開蓮忌)をしたことから三日法事とも言われ、亡くなられた方を重ねて供養します。開蓮忌の起源は「釈氏要覧(しゃくしようらん)」に見ることができ、中国・北斎にて国王の家臣をしていた人物が自分の死に際、妻に自分の死後、雇人と馬を殉死させるように言い残して亡くなりました。ところが、殉死したはずの雇人の一人が生き返ったというのです。雇人の話では、亡き家臣は... 2020.05.20 仏教を本気で学ぶ法要
仏教を本気で学ぶ 甘茶(あまちゃ) 花祭りなどで飲まれる甘茶はヤマアジサイの一種から作られます。8月の中旬にその葉を摘んで発酵させ、手でもんで、天日で乾燥させて甘茶の茶葉が出来上がります。生の甘茶の葉は噛むと苦いですが、発酵させて初めて甘みが出ます。(ヤマアジサイ:ユキノシタ科アジサイ属もしくはアジサイ科の植物)花祭りではお釈迦様の誕生仏にひしゃくを使って甘茶をそそぐのですが、それは、お釈迦様の誕生時に天から九頭の龍が甘露をそそいで産湯を満たしたという伝承があるためです。江戸時代までは、甘茶ではなく五色の水と呼ばれる香水が使われていた寺院もあるようですが、次第に甘茶を甘露に見立てて全国的に用いるようになりました。なお、この甘茶は... 2020.04.08 仏教を本気で学ぶ
仏教を本気で学ぶ 三界(さんがい) 三界とは、欲界(よっかい)・色界(しきかい)・無色界(むしきかい)の3つの世界のことです。 欲望につながれて苦しみ迷うものを欲界の衆生といい、美しい形に捕らわれているものを色界の衆生といい、美しさへのとら我は超えているが、なお迷っているものを無色界の衆生といいます。<< 戻る 2019.10.13 仏教を本気で学ぶ
仏教を本気で学ぶ あらゆる場合に 以下の偈において「あらゆる場合に」とは、与える前、与えつつあるとき、与え終わった後、その3つの時期をいいます。与える前には心楽しく、与えつつある時には心を清浄ならしめ、与え終わっては心喜ばしめると解釈されています。・「マーガ青年がさらに続けて言った、「この世で施しの求めに応ずる在家の施主、福徳を求め福徳を目指して供物をささげる人が、他人に飲食を与えるに当って、どうしたならば祀りが成功成就するかということをわたくしに説いてください。先生!」尊き師(ブッダ)は答えた、「マーガよ。祀りを行え。祀り実行者はあらゆる場合に心を清からしめよ。祀り実行者の専心することは祀りである。彼はここに安立して邪悪を捨... 2019.10.08 仏教を本気で学ぶ
仏教を本気で学ぶ 福徳(ふくとく) 福徳(punna)とは、恩返し、良いこと、名声、などの意味があります。功徳とも訳される。・「尊い師は答えた、「マーガよ。施しの求めに応ずる在家の施主、福徳を求め福徳を目指して供物をささげる人が、この世で他人に飲食物を与えるならば、まさに施与を受けるに相応しい人々と共に目的を達成することになるであろう。」」(スッタニパータ 488偈)<< 戻る 2019.10.08 仏教を本気で学ぶ
仏教を本気で学ぶ 第七の仙人 お釈迦様(ブッダ)が世に出る以前、過去に六人のブッダが出て、お釈迦様は第七人目にあたります。ここで仙人とはブッダのことを指しています。(過去七仏)<< 戻る 2019.10.02 仏教を本気で学ぶ
仏教を本気で学ぶ 過去七仏(かこしちぶつ) 過去七仏とは、毘婆尸仏(びばしぶつ)、尸棄仏(しきぶつ)、毘舎浮仏(びしゃふぶつ)、拘留孫仏(くるそんぶつ)、拘那含牟尼仏(くなごんむにぶつ)、迦葉仏(かしょうぶつ)、釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)までの7人のブッダを指します。・七仏通誡偈・第七の仙人<< 戻る 2019.10.02 仏教を本気で学ぶ
仏教を本気で学ぶ 五人の修行者 ブッダが悟りを開いたあと、ベナレス郊外の鹿野苑で最初に説法したとき、教えを聞いた五人の修行者。ブッダは彼らにとっての上首であると考えられていたのであろう表現が経典には残っています。・「師は答えた、「彼はこの世において、名称と形態とに関する妄執を断ち切ったのである。長い間陥っていた黒魔の流れを断ち切ったのである」五人の修行者の最上者であった尊き師はそのように語られた。」(スッタニパータ 355偈)<< 戻る 2019.10.02 仏教を本気で学ぶ
仏教を本気で学ぶ 第八の生存 第八の生存とは、仏教の修行につとめた聖者(預流果を得た人)は、たとえ死後に生存を繰り返すことがあっても、第七回目の生存までにニルヴァーナを得て、第八回目の生存に至ることはないという。・「深い智慧ある人(ブッダ)がみごとに説きたもうた諸々の聖なる真理をはっきりと知る人々は、たとい大いになおざりに陥ることがあっても、第八の生存を受けることはない。この勝れた宝はつどいの内にある。この真理によって幸せであれ。」(スッタニパータ 230偈)<< 戻る 2019.10.02 仏教を本気で学ぶ
仏教を本気で学ぶ お寺ヨガ 「お寺でヨガやってるよ」と聞くと、檀家さんを対象とした催しか、新たな人をお寺に呼びたいための催しか、だいたいこの2通りです。私たち一般人にとっては、ヨガがやりたいのであれば宗派・宗旨なんてどうでもいい・こだわらないということも多いでしょう。しかし、近年の健康ブームやヨガブームも相まって寺ヨガが浸透してきています。「ヨガ・・・だから、禅宗がやってるんでしょ??」と思っていたところ、意外にも浄土系の寺院での開催や日蓮系の寺院でも受け入れられているようです。「 お寺ヨガ便り 」 一覧 ▶ お寺ヨガ便り/ヨガと坐禅は発祥が同じという説があり、まあ、禅宗とその他の宗派も同じ仏教ですから相性は抜群のはず。... 2019.09.16 仏教を本気で学ぶ便り
仏教を本気で学ぶ アンドロイド観音について アンドロイド観音とは、仏教になじみのない人にも触れてもらおうと、1年半をかけて高台寺と大阪大学大学院基礎工学研究科の小川浩平研究チームが総事業費1億円をかけて開発しました。2019年2月23日アンドロイド観音マインダーの開眼法要が京都市東山区の高台寺で行われました。マインダーは主にアルミから作られており、身長は195㎝、体重は60Kgで頭や胴体など金属の部品がむき出し、手と顔、肩はシリコン製です。法話は、プロジェクションマッピングと連動し、なめらかな動きは空気圧駆動によるもので、胴体や腕、頭を動かしながら『般若心経』の教えをわかりやすい言葉で伝えていきます。アンドロイド観音「この無機質な私との... 2019.02.23 仏教を本気で学ぶ便り年表
仏教を本気で学ぶ 六十三種の異説 六十三種の異説とは、梵網経に説かれた六十二の異端説に、自己の身体が実在すると見なす見解(身見)を加えて六十三としています。・「智慧豊かな方よ。諸々の道の人の論争に捕らわれた、名称と文字と表象とにもとづいて起こった六十三種の異説を伏して、激流を渡りたもうた。」(スッタニパータ 538偈)<< 戻る 2018.10.08 仏教を本気で学ぶ
仏教を本気で学ぶ 地蔵札(じぞうふだ) 地蔵札(じぞうふだ)というお札を街中や寺院にあるお地蔵さんにを貼る習慣があります。亡くなった時、お彼岸など、全国各地にも地蔵菩薩信仰に基づく似たような習慣があり、その由来についても諸説ありますが、六道を自在に行き来できるお地蔵さんの力によって故人の冥福を祈るという想いから行われるようになったようです。例えば、故人が亡くなって初めて迎えるお彼岸中に、故人のご家族が近隣の寺院にあるお地蔵さんにお札を貼って回る習慣があります。半紙を切った紙片に、1枚ずつ地蔵菩薩真言「オンカカカビサンマエイソワカ」を唱えながらお地蔵さまの印影を捺します。お地蔵さまの誓願は「代受苦」。衆生の苦しみ悲しみを代わりに引き受... 2018.09.16 仏教を本気で学ぶ便り
仏教を本気で学ぶ 無我(むが) ”私”と認識されるものには永遠なる実体がないことを無我と言います。全ての物事に実体がないことを諸法無我と言います。常に変化する世界で、例えば、私の細胞は常に生き死にしています。水分を飲んで、食事して栄養は吸収し排出されます。適度な温度、適度な空気がなければ生きられません。私の実体はどこからどこまででしょうか?それらの周りの環境なしでは”私”は生きることが出来ません。仏教は約2500年前にインドでブッダ(お釈迦様)によりはじまりました。インドで”我”とは「アートマン」のことです。アートマンとは、輪廻の主体と考えられていてます(仏教の教えではありません)。例えば、前世は鳥であったが、今世は人間に生... 2018.08.31 仏教を本気で学ぶ
仏教を本気で学ぶ 五戒(ごかい) 仏教には、人間が生きていくために守った方が良いもの、全ての仏教者が守るべきものをまとめた五戒(ごかい)があります。この5つの戒が五戒です。一見、「大丈夫そう」とか「あれさえ注意すれば大丈夫だろう」とか思われた方もいるかもしれませんね。健康で安定した状態では大丈夫でも、不健康で不安定な状態になった時に守れないようでは困ります。誰が困るのか?自分です。五戒はお釈迦様との約束でもなく、僧侶との約束でもなく、誰かとの約束事ではなく、幸せになるための自分自身との約束です。本能のままの生き方が良いのか、どうか?漠然と生きていれば陥りやすい5つのポイントを五戒としてまとめられています。五戒を意識して生きてみ... 2018.08.15 仏教を本気で学ぶ
仏教を本気で学ぶ 苦(く) 仏教で言うところの「苦」は、思い通りにならないということです。現世では生・老・病・死の四苦と、愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五取蘊苦の四苦を加えた八苦であるという真理を説いたものです。「一切皆苦」「四苦八苦」「苦集滅道」という言葉にも「苦」が入っていますが、同じ意味で使われています。この「苦」は他の仏教経典と同じく中国において「苦」と漢訳されたわけですが、もともとのインドではパーリ語でドゥッカ(dukkha)、サンスクリット語でドゥフカ(duḥkha)という言葉でした。思い通りにならない、空しい、不満、不安定、苦しい、という意味がありました。現代よく使う”苦”は、何かを食べて苦いとか、堪え難い... 2018.08.07 仏教を本気で学ぶ
仏教を本気で学ぶ 恒河沙(ごうがしゃ) 恒河沙(ごうがしゃ)はサンスクリット語「ガンガー(गंगा、Gaṅgā)」に相当する音写です。恒河沙とはガンジス川にある無数の砂の意味であり、もともと無限の数量の単位、例えとして仏典で用いられていました。日本でも平安時代には非常に大きな数を表す概念として、中国から仏典と共に「恒河沙」という語が伝えられていたようです。平安時代後期に成立した説話集である『今昔物語』に、「数え切れないくらい多くの国」の例えで「無量無辺不可思議那由他恒河沙の国土を過ぎ行きて」といった用例が見られます。<< 戻る 2018.08.01 仏教を本気で学ぶ
仏教を本気で学ぶ 刹那(せつな) 刹那(せつな)はサンスクリット語「クシャナ(ksana)」に相当する音写で、漢訳では「念」と表されています。刹那は仏教の時間の概念の1つで、きわめて短い時間、瞬間を意味し、最も短い時間の単位です。その長さについては、一弾指(いちだんし、指を1回弾く)する間に65刹那あるという説や、75分の1秒が一刹那に相当するという説などの諸説があります。もともと「刹那という極めて短い時間を大切に生きよ」という意味の教えでした。また、この世の存在物は実体を伴ってあるように見えるけれど、実際には一刹那ごとに生滅を繰り返していて実体がないことを「刹那生滅」あるいは「刹那無常」といいます。また、上記の画像のように、... 2018.07.31 仏教を本気で学ぶ
仏教を本気で学ぶ 魚鼓(ぎょく) 「魚鼓(ぎょく)」は「ほう(ぎょほう:ほうは「木」へんに「邦」)」とも言われ、仏具の一種、あるいは打楽器の一種として使われています。中国では北宋(960~1127年)の頃に魚形のものが現れていたようです。上の写真の中央部に色が変わっている所がありますが、そこが叩く場所で、「ポッ、ポッ」「ポク、ポク」といった音が鳴ります。形は横に長く、魚の形をそのまま形どった魚鼓と木魚とのルーツは同じと考えられています。現在でも曹洞宗や臨済宗などの寺院などで僧堂や庫院につるし、衆を集めるための鳴物として使われています。<< 戻る 2018.07.28 仏教を本気で学ぶ
仏教を本気で学ぶ 木魚(もくぎょ) 木魚は仏具の一種、あるいは打楽器の一種として使われています。中国では北宋(960~1127年)の頃に魚形のものが現れていたようです。魚はまぶたがありませんね。ですから、その目は閉じることが出来ません。魚が昼夜目ざめているように見えることから、不眠勉学をさとし怠惰を戒めたことにもとづくといわれています。木魚がどのような用途で使われてきたかですが、はじめは寺院などで衆を集めるための鳴物であったようです。形は横に長く、魚の形をそのまま形どったものでした。木魚鼓(もくぎょく)、魚鼓(ぎょく)、魚板(ぎょばん)、魚ほう(ぎょほう:ほうは「木」へんに「邦」梆)などとも呼ばれていました。明(1368~164... 2018.07.27 仏教を本気で学ぶ