仏教を本気で学ぶ

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写経(しゃきょう)

写経とは、筆・硯・墨・文鎮などを使って仏教経典を書写することです。また、その書写されてできた経典のことを指します。ただし、状況によっては、写経道具として筆ペンやえんぴつ、ボールペンを可とする場合もあります。写経された経典は寺院や神社に納経されることが多いです。刷技術が発展していなかった時には、経典を広めるために行われました。また、修行・研究・教育する為に行われました。次第に、個人の信仰や祈願、供養のために行われるようになりましたが、現代においては、写経することによって精神の安定を得たいという目的にする人が増えています。『妙法蓮華経如来神力品』には「この経を受持し、読誦し、解説し、書写し、説の如...
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曹洞宗系の3派

日本曹洞宗の開祖は道元禅師(1200~1253年)です。道元禅師自身は曹洞宗という名称を認めずに、お釈迦様より伝わった「正伝の仏法」を弟子に伝えているという立場でした。よって、後の弟子たちによって曹洞宗の教団組織が整えられたといっても間違いではありません。その道元禅師を第一伝として、以降に中国から曹洞宗が第二伝と第三伝と2人の渡来僧によって伝えられたことを踏まえて「曹洞宗系の3派」や「曹洞系の3派」と呼ばれる場合があります。第二伝は曹洞宗宏智派の禅僧東明慧日(1272~1340年)による東明派です。第九代執権北条貞時の招きで1309年に元(中国)から来日しました。鎌倉の禅興寺、万寿寺、寿福寺、...
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禅宗の流れ – 簡単な説明

お釈迦様の説かれた教えを仏教といいますが、お釈迦様から正しく伝えられた教えを正法といいます。禅宗では、その正法は28代目の菩提達磨大師に受け継がれ、インドから中国に伝わりました。菩提達磨大師より6代目の祖師に大鑑慧能禅師(638~713年)がいました。六祖慧能禅師とも呼ばれます。その慧能禅師より3代をへて、百丈懐海禅師(749~814年)は『百丈清規』で禅宗の規則を制定し、唐代のころより禅宗は叢林(寺院)の形態を整えていきます。「一日作さざれば、一日食らわず」という言葉は、百丈禅師の言葉です。慧能禅師の頃、南岳懐譲禅師(677~744年)、青原行思禅師(?~740年)の二大弟子がいました。数代...
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梵唄(ぼんばい)

梵唄とは、黄檗宗で行われている歌のようなお経のことです。声明などとはまた違い、4拍子を基本とするリズムを刻みながら節の付いたお経を読んでいく、とても音楽的なお経です。法要では、鐘や太鼓などの鳴物を合わせて音楽を演奏するように読経が行われます。黄檗宗では儀式作法など、全て中国で行われていたものを忠実に継承しています。お経は唐音と呼ばれる中国語を基本とする読みをするので、一般的によく詠まれる般若心経でいうと「まかはんにゃはらみたしんぎょう・・・」と唱えるところが「ポゼポロミトシンキン・・・」というようになります。<< 戻る
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学校や職場の掃除

学校や職場で掃除をやらされていると思うのはもったいない進んでやれというのでもないきれいにすればいいというわけでもない掃除をするときやらされていると感じていたら掃除の格好だけになる一通りちゃんとやっても格好だけきれいにはなっているかもしれないでも掃除は身の回りの環境を観察する大事な機会きれいに見える場所も具体的に見ていくとよく見える掃除が終わり普段の生活に戻ったら身の回りの環境は変わる掃除してきれいになったからだけではなく自分の認識が変わっているカメラや画面の解像度が上がれば鮮やかな画像や映像になるように身の回りがよく見えるようになる<< 戻る
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寺院・お寺

寺院・お寺とは、仏教の活動拠点となる建物およびその所在する境内(けいだい)をいいます。精舎(しょうじゃ)、僧伽藍(そうぎゃらん)、伽藍(がらん))、仏刹(ぶっさつ)などとも呼ばれます。インドの初期仏教寺院は、雨季に僧尼が修行のために居住する建物および場所(安居・あんご)が始まりです。仏像や諸尊像、仏舎利が安置され、住職や修行僧などの僧侶が住む場所です。また、イスラム教・キリスト教の礼拝堂にも使われる呼び名です。「寺」の字が使われるようになったのは、後漢(中国)に仏教が伝わり、明帝が初め鴻臚寺(こうろじ)にお経や仏像を置き、のちに白馬寺を建てたのに始まると考えられます。もともと「寺」は、役所また...
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蓮華(れんげ)

蓮華とは、水生植物である蓮(はす)の花のことで、日本にも自生していました。沼地にしっかり根を張り、泥中でも養分を得て成長し開花することから、インドでは古くから神々の象徴として大切にされました。それが仏教にも取り入れられ、『阿弥陀経』や『法華経』など、日本でなじみのあるお経にも蓮の花がよく出てきます。また、仏像の下の台座が蓮の花(蓮華座・れんげざ)であったり、仏様が蓮の花の上に座っている様子が絵に描かれていたりします。極楽の池にもあるといい、極楽往生した人もまた、蓮華の上に生まれるとして、これを蓮の台(うてな)といいます。白蓮華(びょくれんげ・プンダリ-カ)煩悩にけがされることのない清浄な仏の心...
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和讃(わさん)

和讃とは、仏教歌謡・声明の一種で、仏・菩薩の功徳や仏法をたたえ、祖師・先人の徳、経典・教義などに対して和語を使ってほめたたえる讃歌です。サンスクリット語を使ってほめたたえる「梵讃」、漢語を使ってほめたえる「漢讃」に対して、和語を使うので「和讃」といいます。<< 戻る
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吽(うん)

吽とは、サンスクリットを表す悉曇(しったん)表記における書記素の最後の字、およびそれによって表される音です。密教では、全ての教法がこの一字に集約されていると説きます。悉曇では「阿」字は諸法の初めを表し、「吽」字は口を閉じた最後の音で、諸法の終わりを表すことから、世界は「阿」で始まり「吽」で終わるという考え方を表しています。804年、空海が仏教を学ぶために唐(中国)に行く以前まで、日本には「ん」「ン」だけを表記する「文字」がなかったそうです。そこで、遣唐使として唐に行った空海は、悉曇文字で書かれた仏典を学び、「ん」「ン」を書き表せる文字を持ち帰りました。それが「吽」です。<< 戻る
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檀那寺(だんなじ)

檀那寺とは、現代では先祖の位牌を預けたり、そこでお葬式や法事を依頼する自分のお寺のことを檀那寺と呼びます。所属する信徒は、檀家や檀徒などと呼ばれます。この「檀那」は梵語「ダーナ」の音訳で、お布施を意味します。檀那寺とは、お布施で成り立っているお寺のことをいうので、そのお布施を行う(財施)家のことを檀家といいます。お寺は仏法を説き先祖の供養を行う(法施)ので、お互いに、法施と財施のお布施を行う関係のことです。<< 戻る
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宗門改(しゅうもんあらため)

宗門改とは、江戸時代に幕府が禁教令の発布に伴い、キリシタンの摘発を目的に設けた制度です。家ごと、個人ごとに仏教信者であることを檀那寺に証明させたもので、その檀家の家族全員について、出生地・生年月日をとどけさせ、婚姻・旅行・就職・移住などに際しては、キリシタン信徒ではなく、寺の檀家であるという証明書を出させました。寛永17年(1640)幕府直轄領に宗門改役を置き、宗門人別帳を作り、その後、諸藩にも実施させました。宗門人別改という名称もありますが、これは別の調査制度である人別改が、江戸時代中期以降に宗門改と事実上統合したことから、住民調査的な制度に変移していきました。宗門人別改帳も宗門改帳と人別改...
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茶渋や水垢

コップや器普段使うものもいつも同じじゃない茶渋や水垢がいつの間にか積み重なる人にとっては余計なものに見えるけど小さなちいさな積み重ねがこの世界をつくっているだからと言って何でもそのままにというわけではないお風呂から上がると身体を拭くようにものを使ったら洗って拭いて乾かす汚れているかどうかを考える前にお風呂に入っているそれと同じように自分が使うものや環境が汚れているかどうかを考える前に自分の一部のようにあつかいたい一連の生活の中で使ったら片づける濡れたら拭く朝になればこの掃除をする4と9がつく日はこれをするそんな習慣として生きていることは途切れがない一々考えていたらきのうは頑張ったきょうは休もう...
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思い上がることのない者

自分が他人より優れていると思う慢心がない人のこと。または、家柄や家筋、生まれや家系、経歴といったことについて、自分の方が優れていると思って他人を見下すことがない人のこと。・「究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達して為すべきことは、次のとおりである。能力あり、直く、正しく、言葉優しく、柔和で、思い上がることのない者であらねばならぬ。」(スッタニパータ 143偈)<< 戻る
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平安の境地

以下のように使われる場合、例えば、仙人が住んでいる奥深い静かな場所を示す。・「究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達して為すべきことは、次のとおりである。能力あり、直く、正しく、言葉優しく、柔和で、思い上がることのない者であらねばならぬ。」(スッタニパータ 143偈)<< 戻る
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究極の理想

以下の例にある「究極の理想」(attha)とは、「人のためになること」をいう。涅槃のことを示すと考えられている。・「究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達して為すべきことは、次のとおりである。能力あり、直く、正しく、言葉優しく、柔和で、思い上がることのない者であらねばならぬ。」(スッタニパータ 143偈)<< 戻る
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十重禁戒(じゅうじゅうきんかい)

・不殺生戒(殺さない)・不偸盗戒(盗まない)・不貪婬戒(犯さない)・不妄語戒(誤ったことをいわない)・不酤酒戒(酒に溺れない)・不説過戒(他人の過ちを説かない)・不自讚毀他戒(自らを褒め他人を謗らない)・不慳法財戒(教えも財産も他人に渡すことを惜しまない)・不瞋恚戒(怒らない)・不謗三宝戒(仏法僧の三宝を謗らない)※『修証義』(しゅしょうぎ)『正法眼蔵』対応版の掲載箇所へ<< 戻る
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二度生まれるもの

二度生まれるもの(dija)とは、卵生の生物のこと。一度卵として生まれ、次に孵化するからこのように言う。鳥など。・「一度生まれるものでも、二度生まれるものでも、この世で生きものを害し、生きものに対するあわれみのない人、彼を賤しい人であると知れ。」(スッタニパータ 117偈)<< 戻る
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一度生まれるもの

一度生まれるもの(ekaja)とは、胎生の動物のこと。・「一度生まれるものでも、二度生まれるものでも、この世で生きものを害し、生きものに対するあわれみのない人、彼を賤しい人であると知れ。」(スッタニパータ 117偈)<< 戻る
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幸せな世界を体得する

・「世の中にはこのような破滅のあることを考察して、賢者・すぐれた人は真理を見て、幸せな世界を体得する。」(スッタニパータ 115偈)今、生きているこの場所に幸せな世界が存在すると気付いた境地が「幸せな世界」であるということ。後代に解かれるような「神々の国」「天」という別の場所に死後になって到達するという趣旨のものではありません。<< 戻る
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この世界には境があって境がない抽象的に見るか具体的にどうなっているかその度合いによって境が見え隠れするどちらかのみ信頼すると失敗してしまうネットがある生活便利かもしれないしかしネットがない時間をあえて持ってみよう良いアイデアが浮かぶかもしれない情報通信網は世界中を結んでいるしかし外国に行けば日本では当たり前に使っているネット機能が使えないこともある国によってはその機能を閉鎖しているあえて閉じているのだそれによって国内企業を守っているそのように上手く境を制御することで国を守っている個人に置き換えたとき同じようなことが言えるのかもしれない<< 戻る
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草の勝ち

しゃがんで草抜きをしていたせいか左足の疲労感が取れない足の回復よりも草がのびる方が早いどうにも皮肉なようだけれどそうやって草も生存競争を勝ち抜いてきたのだろう手で抜いていたら追いつけないそこをねぐらや日よけにしているものたちも今日の安心を得られただろうか<< 戻る
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廃寺(はいじ)

廃寺とは、廃止されたお寺、またはお寺を廃止することです。経済的、政策的、天災、戦争など、様々な理由でお寺は廃止されてきました。地方の人口減少による廃寺(経済的)、明治時代の廃仏毀釈による廃寺(政策的)、阪神淡路大震災や東日本大震災による廃寺(天災)、武士が台頭する世の中での廃寺(戦争)、この他の理由によるものも含めて、お寺を廃止することが歴史上にも現代にもあります。地域の貴重な史跡として廃寺が扱われることも多くあります。<< 戻る
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障子の向こう側で物音がする外かないや中だどうやら蜂が入り込んだ外に面した廊下の窓を開ける蜂はこっちにこない目の前の光に向かって外に出ようとするのみちょっと待ってみた音がしなくなったから見にいくとまだいた羽は黒く中くらいの蜂ミツバチでもクマバチでもスズメバチでもない名前は分からないが蜂がいるちょっと弱ったのか本人も早く出たいだろうしこっちも早く出ていってほしいそうだ子どもの虫取り網を持ってきて蜂をすくった上手い具合に入り窓の外で網を振るするとまっすぐまっすぐに離れて飛んでいったお礼はいらないよとこの場を借りてお伝えします<< 戻る
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今日よく読まれている記事

今日よく読まれている記事を表示しているパソコンなら右側にスマホなら下側に表示される日によって傾向が全然違う時々のぞいてはその日需要があるページの情報を追加しているここが目的地じゃなくても人とお寺との結び目にここがなっていたらそれでいいgoogleやyahoo!などの検索画面にここが表示されたらここなら大丈夫だろうとそう思われるような結び目に<< 戻る
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お寺の情報

お寺の情報ネット上にはいろいろある間違うのは仕方ないけれどそのままにはしたくない住所や地図を載せることがあるけれどどちらも変わるずっと同じじゃないそもそも間違ったまま転載されていることもあるここでもそうなっていたらごめんなさい🙇直す意思はあるので見つけたら教えてね今日地図を載せようとしても出てこないお寺があった廃寺かな住所間違えかな検索してもなかなか出てこない元々の住所録が間違ったまま広まっていたようだ正しく入力すればちゃんと出てくるちょっと前の情報だけど便りに追記しておいた最新記事には上がらないお寺の情報をコツコツ積み上げています他でも掲載している情報だからと間違ったまま掲載はしたくないそん...
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暮らし

水は高いところから低いところへ流れるそんなこと当たり前だと言うでも当たり前のことが当たり前のようにできないのが人だ流し台やお風呂の水回り濡れたままだと水垢が残るカビも生える純水なんて生活の中にはないから放っておけばそうなる1日1度は拭くなり乾燥させるなり掃除をしてそのものが機能しているか変わったことがないか確かめてあげたいだから確かめられるだけの空間で暮らす<< 戻る
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生活

流し台横の洗い物トレー今日はつまようじで細かい汚れまで取ってもらったからきれいでしょと夕食準備に忙しくそんなことは忘れていた私の視線を奪う私もきれいにした甲斐があったと二度見する手がかかるほど大事にしたいのはものも人も同じこと<< 戻る
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無駄にはならない

お寺のブログやSNSコロナ禍の坐禅や写経イベント情報中止や休みで途絶えてる何だかさみしい気がするけれど仕方ないのか他に手立てがないのか続けてきたものが止まってしまわないようにそっと覗いて見ています<< 戻る
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勧請開山(かんじょうかいさん)

勧請(かんじょう)とは、仏、神や高僧に、お願いして来ていただくことです。開山(かいさん)とは、お寺を創建することですが、転じて創建したお寺の初代住職も指します。よって、勧請開山(かんじょうかいさん)とは、本来の創建者でない高僧をそのお寺の開山とすることです。行基、役行者などの勧請開山はかなりの数があるようです(当センター調べで現在確認できているお寺はリンク先で確認出来ます)。また、臨済宗や曹洞宗の禅宗では、創建者のお師匠さんに敬意を表して生前・死後に関わらず勧請開山とする事例が多くあります。<< 戻る
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ガンダーラ美術

ガンダーラ美術とは、1世紀後半から数世紀にわたって、パキスタンの北西地方からアフガニスタン東部におよぶ地域で行われていた仏教美術です。仏教寺院を荘厳にするため制作された一連の彫刻類に代表されます。この地は、アレクサンドロス大王の東征を受けていたので、ヘレニズム文化がのこっており、当時の仏教界では例をみなかった制作が、ギリシャ彫刻の影響のもとに行われました。以後、クシャナ朝のカニシカ王の仏教保護のもと、仏像崇拝が広く流行するようになり、各地で仏像がつくられるようになりました。<< 戻る
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吉祥天女(きちじょうてんにょ)

吉祥天女とは、毘沙門天(びしゃもんてん)の妻で、福徳をつかさどる女神です。古代インド神話から仏教に取り入れられた女神で、造形は唐(中国)の貴婦人の形をとられることが多いようです。絵画では薬師寺の吉祥天女画像、彫刻では浄瑠璃寺の吉祥天立像が有名です。吉祥天(きっしょうてん・きちじょうてん)、功徳天、宝蔵天女ともいいます。ヒンドゥーの女神ラクシュミーが仏教に取り入れられたもので、ヒンドゥーではヴィシュヌ神の妻で、また愛神カーマの母とされています。仏教では、父は徳叉迦(とくさか)、母は鬼子母神(きしぼじん)、妹に黒闇天(こくあんてん)がいます。(吉祥天女 写真提供:薬師寺)<< 戻る
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呉音(ごおん)

呉音(ごおん)とは、漢字音の1つのことです。古代中国の呉・越地方の発音によったもので、仏教用語に多く使われています。例えば、「正」を「ショウ」、「行」を「ギョウ」と読むなど。<< 戻る