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人物

スバッダ(須跋陀)

スバッダは、『ブッダ最後の旅【 第5章 】22、スバッダの帰依』に登場するお釈迦様の最後の弟子です。スバッダは、クシナガラのバラモンであり、遍歴行者で、四ヴェーダに通じ、聡明多智で五神通を得て、非想非非想定を得ていましたが、それでも疑問に思っていることをお釈迦様に聞くことが出来、弟子になりました。<< 戻る
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須臾(しゅゆ)

須臾とは、「しばらく」「少しの間」「瞬時」の意味を持ち、時間の単位を表します。『大毘婆沙論』『倶舎論』では、牟呼栗多(むこりった)と表記されています。それによると、1昼夜 = 30牟呼栗多(須臾)1牟呼栗多(須臾) = 30臘縛(ろうばく)『摩訶僧祇律』では、1昼夜 = 30須臾1須臾 = 20羅予(らよ)1昼夜とは24時間で、1440分 = 30須臾よって、1須臾は約48分を表します。ただし、上記は一例で、この単位が表す時間の程度には使われ方によって幅があります。<< 戻る
人物

板橋興宗(いたばしこうしゅう)

曹洞宗の僧侶。閑月即眞禅師。大本山總持寺独住23世(貫首)。曹洞宗管長、總持寺祖院住職、大乗寺山主、御誕生寺住職を歴任。宮城県多賀城市出身。1927年(昭和2年)、宮城県多賀城市の農家の長男として生まれる。海軍による買い上げに遭い、塩竈市に移住し、旧制仙台第一中学校を経て、1944年(昭和19年)に海軍兵学校76期舞鶴分校機関科に入校。第二次世界大戦の敗戦後、栄養失調により肋膜炎で入院する。退院後、仙台工業専門学校に入るも退学し、1949年(昭和24年)に新制東北大学文学部宗教学科に第1期生として進学、石津照璽に師事。在学中に同級生の片野達郎(後に、東北大学名誉教授)の勧めで仙台市の輪王寺に下...
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四聖句(しせいく)

四聖句(しせいく)とは、インドから中国へ禅宗を伝えた菩提達磨大師がお亡くなりになった後に中国の宋時代に禅宗で「達磨の四聖句」として定められたと伝えられています。禅とは、経典の言句によるのではなく、自身の体験によって経典の心を直に悟るものであると考えられています。それを分かりやすく表現されたものが、菩提達磨大師が残されたと言われる不立文字・教外別伝・直指人心・見性成仏の四聖句です。▶ 菩提達磨大師<< 戻る
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見性成仏(けんせいじょうぶつ)

見性成仏(けんしょうじょうぶつ)とは、悟りという本来の自分に立ち戻ることで、文字にできない宝を手にすることが出来るという意味です。心というのは、求めても求めてもつかめるものではなく、決まった形がないという事実を、観念ではなく体験として知ることが大切です。▶ 菩提達磨大師
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直指人心(じきしにんしん)

直指人心(じきしじんしん)とは、他人の言葉かりを気にせず、自らの心を素直に見つめることによって、自分の可能性を掘り起こすことを意味します。私たちの心の中には、もともと仏心が具わっていることを忘れることなく精進していくことが大切です。▶ 菩提達磨大師
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不立文字(ふりゅうもんじ)

不立文字(ふりゅうもんじ)とは、仏教経典の言葉から離れて、ひたすら坐禅することでお釈迦様の悟りを直接体験するという意味で、文字に頼らず実践することです。悟りの境地は言葉や文字では伝えきることはできないので、言葉や文字の限界を知ることが大切だということを伝えている教えです。▶ 菩提達磨大師<< 戻る
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開蓮忌(かいれんき)

開蓮忌は亡くなられた日から数えて3日目に行なわれる曹洞宗や臨済宗で行う法事のことです。葬儀・告別式と同じ日に初七日をする傾向にある現在では開蓮忌を省略する場合が多いです。地方によって違うのですが、昔の風習では死亡日に通夜、翌日に葬儀・埋葬、三日目に法事(開蓮忌)をしたことから三日法事とも言われ、亡くなられた方を重ねて供養します。開蓮忌の起源は「釈氏要覧(しゃくしようらん)」に見ることができ、中国・北斎にて国王の家臣をしていた人物が自分の死に際、妻に自分の死後、雇人と馬を殉死させるように言い残して亡くなりました。ところが、殉死したはずの雇人の一人が生き返ったというのです。雇人の話では、亡き家臣は...
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甘茶(あまちゃ)

花祭りなどで飲まれる甘茶はヤマアジサイの一種から作られます。8月の中旬にその葉を摘んで発酵させ、手でもんで、天日で乾燥させて甘茶の茶葉が出来上がります。生の甘茶の葉は噛むと苦いですが、発酵させて初めて甘みが出ます。(ヤマアジサイ:ユキノシタ科アジサイ属もしくはアジサイ科の植物)花祭りではお釈迦様の誕生仏にひしゃくを使って甘茶をそそぐのですが、それは、お釈迦様の誕生時に天から九頭の龍が甘露をそそいで産湯を満たしたという伝承があるためです。江戸時代までは、甘茶ではなく五色の水と呼ばれる香水が使われていた寺院もあるようですが、次第に甘茶を甘露に見立てて全国的に用いるようになりました。なお、この甘茶は...
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三界(さんがい)

三界とは、欲界(よっかい)・色界(しきかい)・無色界(むしきかい)の3つの世界のことです。 欲望につながれて苦しみ迷うものを欲界の衆生といい、美しい形に捕らわれているものを色界の衆生といい、美しさへのとら我は超えているが、なお迷っているものを無色界の衆生といいます。<< 戻る
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あらゆる場合に

以下の偈において「あらゆる場合に」とは、与える前、与えつつあるとき、与え終わった後、その3つの時期をいいます。与える前には心楽しく、与えつつある時には心を清浄ならしめ、与え終わっては心喜ばしめると解釈されています。・「マーガ青年がさらに続けて言った、「この世で施しの求めに応ずる在家の施主、福徳を求め福徳を目指して供物をささげる人が、他人に飲食を与えるに当って、どうしたならば祀りが成功成就するかということをわたくしに説いてください。先生!」尊き師(ブッダ)は答えた、「マーガよ。祀りを行え。祀り実行者はあらゆる場合に心を清からしめよ。祀り実行者の専心することは祀りである。彼はここに安立して邪悪を捨...
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福徳(ふくとく)

福徳(punna)とは、恩返し、良いこと、名声、などの意味があります。功徳とも訳される。・「尊い師は答えた、「マーガよ。施しの求めに応ずる在家の施主、福徳を求め福徳を目指して供物をささげる人が、この世で他人に飲食物を与えるならば、まさに施与を受けるに相応しい人々と共に目的を達成することになるであろう。」」(スッタニパータ 488偈)<< 戻る
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第七の仙人

お釈迦様(ブッダ)が世に出る以前、過去に六人のブッダが出て、お釈迦様は第七人目にあたります。ここで仙人とはブッダのことを指しています。(過去七仏)<< 戻る
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過去七仏(かこしちぶつ)

過去七仏とは、毘婆尸仏(びばしぶつ)、尸棄仏(しきぶつ)、毘舎浮仏(びしゃふぶつ)、拘留孫仏(くるそんぶつ)、拘那含牟尼仏(くなごんむにぶつ)、迦葉仏(かしょうぶつ)、釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)までの7人のブッダを指します。・七仏通誡偈・第七の仙人<< 戻る
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五人の修行者

ブッダが悟りを開いたあと、ベナレス郊外の鹿野苑で最初に説法したとき、教えを聞いた五人の修行者。ブッダは彼らにとっての上首であると考えられていたのであろう表現が経典には残っています。・「師は答えた、「彼はこの世において、名称と形態とに関する妄執を断ち切ったのである。長い間陥っていた黒魔の流れを断ち切ったのである」五人の修行者の最上者であった尊き師はそのように語られた。」(スッタニパータ 355偈)<< 戻る
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第八の生存

第八の生存とは、仏教の修行につとめた聖者(預流果を得た人)は、たとえ死後に生存を繰り返すことがあっても、第七回目の生存までにニルヴァーナを得て、第八回目の生存に至ることはないという。・「深い智慧ある人(ブッダ)がみごとに説きたもうた諸々の聖なる真理をはっきりと知る人々は、たとい大いになおざりに陥ることがあっても、第八の生存を受けることはない。この勝れた宝はつどいの内にある。この真理によって幸せであれ。」(スッタニパータ 230偈)<< 戻る
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アンドロイド観音について

アンドロイド観音とは、仏教になじみのない人にも触れてもらおうと、1年半をかけて高台寺と大阪大学大学院基礎工学研究科の小川浩平研究チームが総事業費1億円をかけて開発しました。2019年2月23日アンドロイド観音マインダーの開眼法要が京都市東山区の高台寺で行われました。マインダーは主にアルミから作られており、身長は195㎝、体重は60Kgで頭や胴体など金属の部品がむき出し、手と顔、肩はシリコン製です。法話は、プロジェクションマッピングと連動し、なめらかな動きは空気圧駆動によるもので、胴体や腕、頭を動かしながら『般若心経』の教えをわかりやすい言葉で伝えていきます。アンドロイド観音「この無機質な私との...
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地蔵札(じぞうふだ)

地蔵札(じぞうふだ)というお札を街中や寺院にあるお地蔵さんにを貼る習慣があります。亡くなった時、お彼岸など、全国各地にも地蔵菩薩信仰に基づく似たような習慣があり、その由来についても諸説ありますが、六道を自在に行き来できるお地蔵さんの力によって故人の冥福を祈るという想いから行われるようになったようです。例えば、故人が亡くなって初めて迎えるお彼岸中に、故人のご家族が近隣の寺院にあるお地蔵さんにお札を貼って回る習慣があります。半紙を切った紙片に、1枚ずつ地蔵菩薩真言「オンカカカビサンマエイソワカ」を唱えながらお地蔵さまの印影を捺します。お地蔵さまの誓願は「代受苦」。衆生の苦しみ悲しみを代わりに引き受...
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無我(むが)

”私”と認識されるものには永遠なる実体がないことを無我と言います。全ての物事に実体がないことを諸法無我と言います。常に変化する世界で、例えば、私の細胞は常に生き死にしています。水分を飲んで、食事して栄養は吸収し排出されます。適度な温度、適度な空気がなければ生きられません。私の実体はどこからどこまででしょうか?それらの周りの環境なしでは”私”は生きることが出来ません。仏教は約2500年前にインドでブッダ(お釈迦様)によりはじまりました。インドで”我”とは「アートマン」のことです。アートマンとは、輪廻の主体と考えられていてます(仏教の教えではありません)。例えば、前世は鳥であったが、今世は人間に生...
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五戒(ごかい)

仏教には、人間が生きていくために守った方が良いもの、全ての仏教者が守るべきものをまとめた五戒(ごかい)があります。この5つの戒が五戒です。一見、「大丈夫そう」とか「あれさえ注意すれば大丈夫だろう」とか思われた方もいるかもしれませんね。健康で安定した状態では大丈夫でも、不健康で不安定な状態になった時に守れないようでは困ります。誰が困るのか?自分です。五戒はお釈迦様との約束でもなく、僧侶との約束でもなく、誰かとの約束事ではなく、幸せになるための自分自身との約束です。本能のままの生き方が良いのか、どうか?漠然と生きていれば陥りやすい5つのポイントを五戒としてまとめられています。五戒を意識して生きてみ...
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苦(く)

仏教で言うところの「苦」は、思い通りにならないということです。現世では生・老・病・死の四苦と、愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五取蘊苦の四苦を加えた八苦であるという真理を説いたものです。「一切皆苦」「四苦八苦」「苦集滅道」という言葉にも「苦」が入っていますが、同じ意味で使われています。この「苦」は他の仏教経典と同じく中国において「苦」と漢訳されたわけですが、もともとのインドではパーリ語でドゥッカ(dukkha)、サンスクリット語でドゥフカ(duḥkha)という言葉でした。思い通りにならない、空しい、不満、不安定、苦しい、という意味がありました。現代よく使う”苦”は、何かを食べて苦いとか、堪え難い...
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恒河沙(ごうがしゃ)

恒河沙(ごうがしゃ)はサンスクリット語「ガンガー(गंगा、Gaṅgā)」に相当する音写です。恒河沙とはガンジス川にある無数の砂の意味であり、もともと無限の数量の単位、例えとして仏典で用いられていました。日本でも平安時代には非常に大きな数を表す概念として、中国から仏典と共に「恒河沙」という語が伝えられていたようです。平安時代後期に成立した説話集である『今昔物語』に、「数え切れないくらい多くの国」の例えで「無量無辺不可思議那由他恒河沙の国土を過ぎ行きて」といった用例が見られます。<< 戻る
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刹那(せつな)

刹那(せつな)はサンスクリット語「クシャナ(ksana)」に相当する音写で、漢訳では「念」と表されています。刹那は仏教の時間の概念の1つで、きわめて短い時間、瞬間を意味し、最も短い時間の単位です。その長さについては、一弾指(いちだんし、指を1回弾く)する間に65刹那あるという説や、75分の1秒が一刹那に相当するという説などの諸説があります。もともと「刹那という極めて短い時間を大切に生きよ」という意味の教えでした。また、この世の存在物は実体を伴ってあるように見えるけれど、実際には一刹那ごとに生滅を繰り返していて実体がないことを「刹那生滅」あるいは「刹那無常」といいます。また、上記の画像のように、...
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魚鼓(ぎょく)

「魚鼓(ぎょく)」は「ほう(ぎょほう:ほうは「木」へんに「邦」)」とも言われ、仏具の一種、あるいは打楽器の一種として使われています。中国では北宋(960~1127年)の頃に魚形のものが現れていたようです。上の写真の中央部に色が変わっている所がありますが、そこが叩く場所で、「ポッ、ポッ」「ポク、ポク」といった音が鳴ります。形は横に長く、魚の形をそのまま形どった魚鼓と木魚とのルーツは同じと考えられています。現在でも曹洞宗や臨済宗などの寺院などで僧堂や庫院につるし、衆を集めるための鳴物として使われています。<< 戻る
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木魚(もくぎょ)

木魚は仏具の一種、あるいは打楽器の一種として使われています。中国では北宋(960~1127年)の頃に魚形のものが現れていたようです。魚はまぶたがありませんね。ですから、その目は閉じることが出来ません。魚が昼夜目ざめているように見えることから、不眠勉学をさとし怠惰を戒めたことにもとづくといわれています。木魚がどのような用途で使われてきたかですが、はじめは寺院などで衆を集めるための鳴物であったようです。形は横に長く、魚の形をそのまま形どったものでした。木魚鼓(もくぎょく)、魚鼓(ぎょく)、魚板(ぎょばん)、魚ほう(ぎょほう:ほうは「木」へんに「邦」梆)などとも呼ばれていました。明(1368~164...
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脚下照顧(きゃっかしょうこ)

寺院の玄関を入ると脚下照顧(きゃっかしょうこ)と書かれた単牌が置かれているのを見かけます。「自分の足元を見なさい」という意味です。玄関に置いていますから、履き物を揃えましょうということを示しています。転じて「自分の行いを見なさい」という意味になります。日本の家庭の多くは玄関で履物を脱ぎますね。それは日常の当たり前の行為です。しかし、その当たり前の行為を大切にし、より良い心に導く言葉が脚下照顧です。導くのは他の誰でもなく自分自身です。ポーンと脱ぎ飛ばした履物も誰かが直してくれるだろうと思っていてはいけないのです。自分で意識して履物を整えます。すると心も整うのです。行いと心は連動したものです。履物...
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愚痴(ぐち)

愚痴とは、言ってもしかたのないような不平不満を言って嘆くことです。もともとの意味は、仏の智恵に暗いこと、物事の真実を知らないこと、智恵や真実を知ろうとしないことを愚痴といいます。愚痴は、貪・瞋・癡(とん・じん・ち)の三つの煩悩である三毒の一つです。愚痴は、インドの古語・サンスクリット語の「moha(モーハ)」が語源だとされています。モーハは、中国語に翻訳された時に、愚痴、莫訶、馬鹿などに訳されました。ですので、馬鹿という言葉も、愚痴と同じ語源です。仏教では、もっと根源的な人間の「愚かさ」を表す概念として使われています。現代の用法は少し意味が変わってきているようですが、「くどくどと愚痴を言う」「...
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醍醐(だいご)- カルピスと 七夕

醍醐とは、『大般涅槃経』では五味として順に「乳」「酪」「生酥(しょうそ)」「熟酥(じゅくそ)」「醍醐」という牛乳の発酵精製の段階で一番美味しいものとして例えられます。また、『涅槃経』では、最後で最上の教えであることを醍醐に例えられています。それが一般にも使われるようになり、物事の本当の面白さや深い味わいのことを「醍醐味」というようになりました。カルピス社の創業者・三島海雲さんは僧侶でもあり、新商品に仏教由来の名前をと考え、当初はカルシウムの「カル」と最高の味を意味する醍醐(サンスクリット語でサルピルマンダ)の「ピル」を合わせた「カルピル」が考えられましたが、「赤とんぼ」などで有名な作曲家・山田...
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無常(むじょう)

常に変化していることを無常と言います。全ての物事が常に変化していることを諸行無常と言います。これを聞いて、多くの人は「当たり前だな」と思うわけですが、私たちは同時に大切なもの、大切な人、大切な活動、大好きな場所などは「変わらないでほしい」という気持ちも自然にあります。無常を前提に、後者を大切にして生きるのか、無常を無視して大切なもの、大切な人、大切な活動、大好きな場所などに永遠を求めるて生きるのかは大きな違いだと思います。失う苦しみも大きいかもしれません。その他の方法として、どちらも曖昧にしておく、考えないということも出来ます。しかし、「当たり前だな」と分かっていることを隠すことは得策でしょう...
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六曜(ろくよう)

「結婚式は大安を選ぶ」とか「葬式は友引を避ける」など、筋目筋目で行われる大切な行事は日にちを選んで行われます。インドなどでは占い師に頼んだり、お坊さんに頼んだりして日にちを決めるようです。日本でもお坊さんに「いついつにしたらよいか」という相談はよくあることですが、カレンダーに「大安」「赤口」「先勝」「友引」「先負」「仏滅」というように示されているので、誰でも簡単に良い日を選べるようになっています。これを六曜(ろくよう)とか六星(ろくせい)、六輝(ろっき)といわれています。これは、暦日の考え方ですが、日の吉凶を示すために作られたもので、実は三国志に登場する蜀の劉備の軍師であった諸葛孔明が日の吉凶...
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喜心・老心・大心(きしん・ろうしん・だいしん)の三心(さんしん)

喜心・老心・大心の三心とは、労働する時の重要な心構えを表しています。「喜心」とは、喜んで物事に取り組む心です。例えば食事を作る役割にあるならば、食事を作ることのできる巡り合わせの因縁を感謝し、自分だけのためでなくて、他人のためになること、さらには他人の利益につながることを喜んでする。分け隔てなく物事に勉める喜悦の心を表します。「老心」とは、物をいたわる心です。父母が切々と子どもを思い、自身の寒さや熱さをかまうことなく、子どものすこやかなことを願いながら、いつくしみ育てるような親切心を表します。「大心」とは、偏りのない心です。そびえ立つ山や果てしなく広がる大海のように、高く広い思いを持ち、一方に...
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行雲流水(こううんりゅうすい)

4月、5月の春から夏に向けて、だんだんと温かくなる季節は、気持ちいい晴天かと思うと、どこからか厚い雲が広がってきて、雨が降り出すという天気がしばしばある。そんな雨が新緑を一層際立たせる。晴れの日ばかりでなく、突然の雨も自然の中では必然のことなのだろう。自然は上手くできている。そんな自然を悟りの姿として見ることがある。行雲流水(こううんりゅうすい)と言って、こだわりのない空の雲、地を流れる水を表す言葉。福井県の永平寺や神奈川県横浜鶴見の總持寺などの修行僧、彼らをさして雲水(うんすい)ともいう。この言葉は雲の如く水の如く修行する姿を表し、行雲流水をもじった言葉だといわれている。<< 戻る