便り 護村寺-新潟県佐渡市 ・護村寺 単立(真言宗) 新潟県佐渡市新穂北方597番地当山は北方地頭 本間六郎満繁一族の菩提寺であり、順徳上皇佐渡配流の際、池蔵人の発願に依り、比叡山坂本の山王権現を勧請され十二坊の一坊として天福年間に明王院として建立され、副別当職であった。昭和17年4月護村寺と改名しております。(リンク先より)※天福年間 1233年から1234年 << 戻る 1233.01.01 便り年表
便り 管明寺-新潟県佐渡市 ・管明寺 真言宗智山派 新潟県佐渡市上新穂659佐渡に流された順徳上皇の御安泰祈願のため、池蔵人の発願に依り、比叡山坂本の山王権現を勧請され十二坊を建立されました。この十二坊とは乗光坊、弥勒坊、曼荼羅寺、宝蔵寺、儀乗坊、三諦坊、金剛院、宝性院、円通寺・明王院・善意寺・万福寺で、日吉神社別当の新延寺(別当というのは室町時代までの大社に多くみられ、お宮の会計経理を行うお寺)の下の衆徒寺のことです。管明寺は、十二坊の三坊として天福元年に建設され、その後明治15年弥勒坊と乗光坊が合併、さらに昭和11年成就山乗光坊と管明山三諦坊が合併し、成就山管明寺と公称し現在に至っています。(リンク先より)※天福元年... 1233.01.01 便り年表
便り 興聖寺-京都府宇治市 ・仏徳山 興聖寺 曹洞宗 京都府宇治市宇治山田27-11229年(寛喜元年)頃、道元禅師(どうげんぜんじ)が宋から帰国後、深草の安養院に閑居。観音導利興聖宝林禅寺(『典座教訓』)。(藤原氏ゆかり極楽寺の跡地と考えられる) 1233年(天福元年)、道元禅師が深草に興聖寺を開創。観音導利院興聖宝林寺と号する。僧侶の教育・育生を目指す修行道場として全国最初に開かれる。このことから「曹洞宗初開道場」とは興聖寺のことを指す。1645年(正保2年)、淀城主の永井尚政(ながいなおまさ)公が、万安英種禅師(ばんなんえいじゅ)を中興開山に請じ、宇治に興聖寺を再興。山号:仏徳山(ぶっとくざん)開山:道元禅師中興開... 1233.01.01 便り年表
年表 日蓮聖人、仏門へ 天福元(1233)年、父母の元を離れ、生家近くの天台宗清澄寺(後に日蓮宗)の道善房に師事します。薬王丸(やくおうまる)と改名し、四年間仏修行に励みました。そして虚空蔵菩薩に「日本一の智者となしたまへ」と祈願されました。<< 戻る 1233.01.01 年表
便り 聞光寺-新潟県柏崎市 ・聞光寺 真宗大谷派 新潟県柏崎市西本町1-10-411232 貞永1 12月7日開基 宗観 磯辺村に一宇を結ぶ12月7日開基 宗観没(リンク先より) << 戻る 1232.12.07 便り年表
人物 明恵(みょうえ) 鎌倉時代前期の華厳宗の僧。法諱は高弁(こうべん)。明恵上人・栂尾(とがのお)上人とも呼ばれる。父は平重国。母は湯浅宗重の四女。現在の和歌山県有田川町出身。華厳宗中興の祖と称される。明恵は『大唐天竺里程記』(だいとうてんじくりていき)をつくり、天竺(インド)へ渡って仏跡を巡礼しようと企画したが、春日明神の神託のため、これを断念した。明恵はまた、これに先だつ建仁2年(1202年)にもインドに渡ろうとしたが、このときは病気のため断念している。遁世僧となった明恵は、建永元年(1206年)、後鳥羽上皇から栂尾の地を下賜されて高山寺を開山し、華厳教学の研究などの学問や坐禅修行などの観行に励み、戒律を重んじ... 1232.01.19 人物年表
便り 宝福寺-岡山県総社市 ・宝福寺 臨済宗東福寺派 岡山県総社市井尻野1968寺伝によると創立年代は不明ながら、日輪大阿閣梨を始祖とする天台宗の古刺であったものを、鎌倉時代の貞永元年(1232)に当時の住職であった鈍庵和尚がこの地に新しく伽藍を建立したと伝えられています。(リンク先より) << 戻る 1232.01.01 便り年表
人物 松殿基房(まつどのもとふさ)- 藤原基房(ふじわらのもとふさ) 平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿。実名は藤原基房。藤原北家、関白・藤原忠通の五男。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣。松殿家の祖。 松殿・菩提院・中山を号す。通称は松殿関白。生誕 天養元年(1144年)/久安元年(1145年)命日 寛喜2年12月28日(1231年2月1日)菩提院松殿中山基房大居士<< 戻る 1231.12.28 人物
仏教を本気で学ぶ 「正法眼蔵」弁道話(べんどうわ) こちらのページを閲覧するには、メンバー登録が必要です。詳細はリンク先でご確認ください。なお、定期的にパスワードは変更されます。また、セキュリティの観点から一定時間を経ると再度パスワード入力が必要になります。 << 戻る 1231.08.15 仏教を本気で学ぶ
便り 光円寺-神奈川県小田原市 ・光円寺 浄土真宗本願寺派 神奈川県小田原市城山4-23-32光円寺の原名を実相寺という。頼賢という僧侶が相模小田原に実相院を開いて第一祖となった。実相院の建立年は不明であるが、寛喜3年(1231)に寺院設立の証を与えられているのはわかっているから、その時から頼賢の入寂の文永10年(1273)12月までであると思える。今から約750年前であるしかし、その後約300年続いた実相院も1500年代には廃寺となった。(リンク先より) << 戻る 1231.01.01 便り年表
年表 実相院(光円寺)に寺院設立の証が与えられる 光円寺の原名を実相寺という。頼賢という僧侶が相模小田原に実相院を開いて第一祖となった。実相院の建立年は不明であるが、寛喜3年(1231)に寺院設立の証を与えられているのはわかっているから、その時から頼賢の入寂の文永10年(1273)12月までであると思える。(公式ページより)<< 戻る 1231.01.01 年表
便り 東海寺-栃木県宇都宮市 ・東海寺 真言宗智山派 栃木県宇都宮市篠井町827鎌倉時代の寛喜二年(1230年)小山城主朝比奈兼秀の孫和田新兵衛朝盛が出家し円覚に改め寺を開創した。(リンク先より) << 戻る 1230.01.01 便り年表
便り 専長寺-富山県滑川市 ・専長寺 浄土真宗本願寺派 富山県滑川市寺家町257当山の資料によると、寛喜元年(1229年)(承元3年1209年説あり)承久の乱により流罪に処された後鳥羽上皇の皇子・圓信が、越中国砺波郡山田荘梅原里(南砺市梅原)に真言宗寺院・大法(宝)寺を開基したことに始まる。(リンク先より)<< 戻る 1229.01.01 便り年表
人物 天童如浄(てんどうにょじょう) 中国・宋時代の禅僧。明州鄞県葦江の出身。俗姓は兪。字は長翁。雪竇智鑑に就いて嗣法。弟子には道元禅師がいる。天童山景徳寺第31世住職。『如浄禅師語録』がある。嘉定17年(1224年)に天童山景徳寺の住職となる。宝慶元年(1225年)から宝慶3年(1227年)まで道元禅師は如浄の元で学ぶ。宝慶元年の夏安居の期間に大悟した道元に如浄は印可を授けている。如浄は権勢より離れ、世俗化した当時の仏教について根本から批判し、釈迦牟尼仏の頃の本来の精神に立ち帰ることを唱えた。如浄の教えは、道元禅師による日本曹洞宗開宗の基礎の形成に大きな役割をになっていた。生誕 隆興元年7月7日(1163年8月8日)命日 紹定元... 1228.07.17 人物
便り 如来寺-山梨県富士吉田市 ・如来寺 浄土真宗本願寺派 山梨県富士吉田市新倉613安貞二年(西暦一二二八年)当時の住職、浄圓は、聖徳太子の御跡をたどって旧鎌倉街道を甲州路に入られ、勝沼萬福寺の聖徳太子旧跡を巡拝中の親鸞聖人に開法帰依し釈浄心と法名をいだき、浄土真宗となりました。(リンク先より) << 戻る 1228.01.01 便り年表
便り 中原寺-千葉県市川市 ・瑞雲山中原寺 浄土真宗本願寺派 千葉県市川市国府台5-26-39古くは天台宗で開基学禅坊が、甲斐国山梨郡牛奥村に一寺を建立したことに始まります。中興と言われた永信は安貞二年に、親鸞聖人が聖徳太子の霊場を慕い等々力村の万福寺に入御の折に、聖人の御教化を受けて直ちに弟子となり浄土真宗に深く帰依しました。(リンク先より)※安貞二年 1228年 << 戻る 1228.01.01 便り年表
仏教を本気で学ぶ 『普勧坐禅儀』(ふかんざぜんぎ) 1228年、道元禅師が中国から帰国後直ちに建仁寺にて著された『普勧坐禅儀』には坐禅の心がまえや作法などについて書かれています。オリジナルは格調高い四六駢儷体の漢文で、坐禅の基本的な仕方から、その本旨までが記されています。現在、一般的には書き下し文が読まれることが多い為、こちらのページでも書き下し文を公開しています。道元禅師の開宗宣言ともいうべき書で、現在も坐禅中に読誦するなど、只管打坐をその旨とする宗門において重要な宗典です。①ルビ(かな読み)②書き下し本文(大太字)『普勧坐禅儀』たずぬるにそれ、どうもとえんずう、原ぬるに夫れ、道本圓通、いかでかしゅしょうをからん。争か修証を仮らん。しゅうじょ... 1228.01.01 仏教を本気で学ぶ年表
年表 道元禅師の帰国 安貞2(1228)年、28歳の道元禅師は5年におよぶ修行を終え日本に帰国しました。帰国後直ちに建仁寺にて著された『普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)』には坐禅の心がまえや作法などについて書かれています。格調高い四六駢儷体の漢文で、坐禅の基本的な仕方から、その本旨までが記されています。道元禅師の開宗宣言ともいうべき書で、現在も坐禅中に読誦するなど、只管打坐をその旨とする宗門において重要な宗典です。<< 戻る 1228.01.01 年表
人物 チンギス・ハン – チンギス・カン モンゴル帝国の初代皇帝。大小様々な集団に分かれてお互いに抗争していたモンゴルの遊牧民諸部族を一代で統一し、中国・中央アジア・イラン・東ヨーロッパなどを次々に征服し、最終的には当時の世界人口の半数以上を統治するに到る人類史上最大規模の世界帝国であるモンゴル帝国の基盤を築き上げた。死後その帝国は百数十年を経て解体されたが、その影響は中央ユーラシアにおいて生き続け、遊牧民の偉大な英雄として賞賛された。特に故国モンゴルにおいては神と崇められ、現在のモンゴル国において国家創建の英雄として称えられている。生誕 大定2年4月16日(1162年5月31日)諸説あり命日 太祖22年7月12日(1227年8月25... 1227.08.18 人物
人物 島津忠久(しまづただひさ) 平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。鎌倉幕府御家人。島津氏の祖。正式な名乗りは惟宗忠久という。出自・生年については諸説ある。治承3年(1179年)2月8日、春日祭使の行列に供奉している記録が史料上の初見とされる(『山槐記』)。島津忠久は元々摂関家に仕える都の武者であったが、治承・寿永の乱において源頼朝が台頭してくると、母が頼朝の乳母子だった縁で頼朝に重用されるようになってくる。生誕 命日 嘉禄3年6月18日(1227年8月1日)浄光明寺殿 得佛道阿弥陀佛<< 戻る 1227.06.18 人物
便り 乗誓寺-神奈川県横須賀市 ・東教山 乗誓寺 浄土真宗本願寺派 神奈川県横須賀市東浦賀1-20-10乗誓寺の開基である了源(平塚入道了源)は、藤原鎌足を祖として十八代を数える末裔であり、伊豆の曽我十郎祐成を父に、大磯の虎御前を母にもち、出家前の名を河津三郎信之と称したと伝えられる。曽我十郎、虎御前とも、江戸期より今日まで、歌舞伎や謡曲、浄瑠璃、浮世絵などでは『曽我物語』として広く民衆に親しまれ、仇討物語の代表的な演目として有名である。河津三郎信之(出家前の了源)は、父と同じく武士として源実朝に仕え、多くの武功を残した。その恩賞として平塚の地を賜るが、同族の宿縁と積年の仇敵に感じるところがあり、求道の日々を過ごすこととなる... 1227.01.01 便り年表
便り 光栄寺-岡山県井原市 ・光栄寺 浄土真宗本願寺派 岡山県井原市芳井町吉井651当寺は、開基である法名浄源が明光上人(光照寺)に供し備後に下り、1227(安貞元)年に備中豊谷山に庵を結び、豊谷山光栄寺となる。その後、「澤岡山(さおかざん)光栄寺」と改称する。本堂での御法座や書道・華道教室、日曜学校などで門徒や地域の人が集うお寺であった。(リンク先より) << 戻る 1227.01.01 便り年表
便り 大報恩寺-京都府京都市上京区 ・千本釈迦堂 大報恩寺 真言宗智山派 京都府京都市上京区五辻通六軒町西入溝前町鎌倉初期安貞元年(1227)義空上人によって開創された寺です。本堂は創建時そのままのものであり、応仁・文明の乱にも両陣営から手厚き保護を受け、奇跡的にも災火をまぬがれた京洛最古の建造物として国宝に指定されています。義空上人は、藤原秀衡の孫にあたり、19才で比叡山澄憲僧都に師事、拾数年ののちこの千本の地を得て、苦難の末本堂をはじめ諸伽藍を建立しました。(リンク先より) << 戻る 1227.01.01 便り年表
便り 願成寺-福島県喜多方市 ・願成寺 浄土宗 福島県喜多方市上三宮町上三宮字籬山833叶山 三寳院 願成寺と申します。嘉禄三年(1227年)、法然上人の高弟 隆寛律師 御開山、開基はその弟子 實成房上人。大施主は、時の領主であり、頼朝の供奉員 佐原十郎義連公。(リンク先より) << 戻る 1227.01.01 便り年表
便り 光行寺-広島県福山市 ・光行寺 浄土真宗本願寺派 広島県福山市神辺町川北764当山開基勝尊上人は親鸞聖人の直弟子、明光上人の従者(三大老)の一人として安貞元年(1227年)沼隈山南に一寺を建立し東光坊と称す。その後山南に在りし寺を中条(西中条深水)に移し、更に神辺古城に移す。 元和年中、水野勝成福山に城を築くに当たり四方の道俗居を福山に移す。その時寺を城東に移し(現在東町光善寺)、神辺の旧地に一寺を建立して覚圓寺光行寺と号す。ここに第十世祐教の弟、祐尊をして継がしむ(1624年)。その後神辺大火にあい古城に在りし寺を川北領家(現在地)に移し今日に及ぶ。(リンク先より)<< 戻る 1227.01.01 便り年表
人物 慈円(じえん) 平安時代末期から鎌倉時代初期の天台宗の僧侶。歴史書『愚管抄』を記したことで知られます。諡号は慈鎮和尚、通称に吉水僧正、また『小倉百人一首』では前大僧正慈円と紹介されています。 父は摂政関白・藤原忠通、母は藤原仲光女加賀、摂政関白・九条兼実は同母兄にあたります。幼くして青蓮院に入寺し、仁安2年(1167年)天台座主・明雲について受戒します。治承2年(1178年)に法性寺座主に任ぜられ、養和2年(1182年)に覚快法親王の没後、空席になった青蓮院を継ぎました。建久3年(1192年)、38歳で天台座主になります。その後、慈円の天台座主就任は4度に及びました。吉田兼好の『徒然草』には、「一芸ある者なら... 1225.09.25 人物仏教を本気で学ぶ年表
人物 北条政子(ほうじょうまさこ) 平安時代末期から鎌倉時代初期の女性。鎌倉幕府を開いた源頼朝の継室。 伊豆国の豪族、北条時政の長女。子は頼家、実朝、大姫、三幡。兄弟姉妹には宗時、義時、時房、阿波局、時子など。 周囲の反対を押し切り、伊豆の流人だった頼朝の妻となり、頼朝が鎌倉に武家政権を樹立すると御台所と呼ばれる。夫の死後に落飾して尼御台(あまみだい)と呼ばれた。法名を安養院(あんにょういん)といった。頼朝亡きあと征夷大将軍となった嫡男・頼家、次男・実朝が相次いで暗殺された後は、傀儡将軍として京から招いた幼い藤原頼経の後見となって幕政の実権を握り、世に尼将軍と称された。生誕 保元2年(1157年)命日 嘉禄元年7月11日(122... 1225.07.11 人物
仏教を本気で学ぶ 『教行信証』化身土巻 – 本04 こちらのページを閲覧するには、メンバー登録が必要です。詳細はリンク先でご確認ください。なお、定期的にパスワードは変更されます。また、セキュリティの観点から一定時間を経ると再度パスワード入力が必要になります。 << 戻る 1224.01.01 仏教を本気で学ぶ
仏教を本気で学ぶ 『教行信証』行巻14 こちらのページを閲覧するには、メンバー登録が必要です。詳細はリンク先でご確認ください。なお、定期的にパスワードは変更されます。また、セキュリティの観点から一定時間を経ると再度パスワード入力が必要になります。 << 戻る 1224.01.01 仏教を本気で学ぶ
仏教を本気で学ぶ 『教行信証』信巻12 こちらのページを閲覧するには、メンバー登録が必要です。詳細はリンク先でご確認ください。なお、定期的にパスワードは変更されます。また、セキュリティの観点から一定時間を経ると再度パスワード入力が必要になります。 << 戻る 1224.01.01 仏教を本気で学ぶ