鎌倉時代の禅宗僧侶。京都に生まれる。懐弉とも記述されます。道元禅師に就いて嗣法。弟子には徹通義介、寒巌義尹、寂円がいる。
父は九条為通。幼少の頃より比叡山に上り、18歳で出家し天台宗の学僧になります。24歳で浄土宗西山派の証空について浄土教を学び、26歳で大和国多武峯にて日本達磨宗の覚晏に禅を学び印可を受けます。
安貞2年(1228年)、興福寺衆徒の焼き討ちを受け避難する中、宋から帰国した道元禅師の評判を聞き、法戦を挑んだところ、その所見が優れていることを認め師事を願いでます。しかし、道元禅師はまだ独立した身でないことを理由に断られたものの、文暦元年(1234年)、建仁寺を出て山城国深草に草庵を結んでいた道元禅師に再び師事を願いでて許されます。
道元禅師の著作『正法眼蔵』を整理し、道元禅師の法語をまとめた『正法眼蔵随聞記』が残されています。
仁治2年(1241年)、日本達磨宗の僧数十人が道元門下に改宗する。
建長5年(1253年)、永平寺2世となる。当時の永平寺は、道元禅師の遺風を守ろうとする保守派と、衆生教化のために道元禅師が不要とした法式も取り入れようとする開放派が対立し、懐奘は調停・融和に努めました。
文永4年(1267年)4月、日本達磨宗時代からの法弟である徹通義介に永平寺の住職を譲るが、保守派と開放派の両派の対立が激化する(三代相論)。
文永9年(1272年)2月、永平寺3世の徹通義介が辞任下山し、懐奘が永平寺の住職に再任する。
永平寺の住職となった後も道元禅師の侍者であるとの姿勢を終生変えず、道元禅師の霊廟の脇に居室を建て、その頂相に生前同様に仕えたといわれます。
生誕 建久9年(1198年)
命日 弘安3年8月24日(1280年9月19日)
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