仏教を本気で学ぶ

『典座教訓』14、修行は日々の足下にある

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『典座教訓』7、一茎菜を拈じて、丈六身と作し

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『正法眼蔵随聞記』43、真実内徳無うして人に貴びらるべからず

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『正法眼蔵随聞記』55、治世の法は上天子より

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『正法眼蔵随聞記』91、真浄の文和尚

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『正法眼蔵随聞記』102、春秋に云く

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『正法眼蔵随聞記』94、奘問うて云く、叢林の勤学の行履と云うは

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『正法眼蔵随聞記』(しょうぼうげんぞう ずいもんき)

『正法眼蔵随聞記』は鎌倉時代の法語集。道元禅師の法語を、その2歳年長の弟子で、永平寺2世となった孤雲懐奘(こうん えじょう)が記した語録書。嘉禎年間(1235~1238年)の成立。懐奘没後に弟子たちが6巻にまとめた。道元禅師の姿や『正法眼蔵』を理解する上での基本文献である。また、仏教、禅宗、曹洞宗に限らず、学ぶ者が心得たい内容が書かれている。『正法眼蔵随聞記』1、人をはづべくんば明眼の人をはづべし示して云く、人をはづべくんば明眼の人をはづべし。予、在宋の時、天童浄和尚、侍者に請ずるにいはく、「外国人たりといへども元子は器量人なり。」と云ってこれを請ず。予、堅くこれを辞す。その故は、「和国に聞こ...
人物

島津忠久(しまづただひさ)

平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。鎌倉幕府御家人。島津氏の祖。正式な名乗りは惟宗忠久という。出自・生年については諸説ある。治承3年(1179年)2月8日、春日祭使の行列に供奉している記録が史料上の初見とされる(『山槐記』)。島津忠久は元々摂関家に仕える都の武者であったが、治承・寿永の乱において源頼朝が台頭してくると、母が頼朝の乳母子だった縁で頼朝に重用されるようになってくる。生誕 命日 嘉禄3年6月18日(1227年8月1日)浄光明寺殿 得佛道阿弥陀佛<< 戻る
人物

慈円(じえん)

平安時代末期から鎌倉時代初期の天台宗の僧侶。歴史書『愚管抄』を記したことで知られます。諡号は慈鎮和尚、通称に吉水僧正、また『小倉百人一首』では前大僧正慈円と紹介されています。 父は摂政関白・藤原忠通、母は藤原仲光女加賀、摂政関白・九条兼実は同母兄にあたります。幼くして青蓮院に入寺し、仁安2年(1167年)天台座主・明雲について受戒します。治承2年(1178年)に法性寺座主に任ぜられ、養和2年(1182年)に覚快法親王の没後、空席になった青蓮院を継ぎました。建久3年(1192年)、38歳で天台座主になります。その後、慈円の天台座主就任は4度に及びました。吉田兼好の『徒然草』には、「一芸ある者なら...
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七箇条制誡

元久元(1204)年11月、法然上人は七箇条制誡(しちかじょうせいかい)をつくり門弟を誡め、門弟百九十名の署名をとり、別に誓状をそえて座主に送りました。1.天台・真言の教説を破し諸仏菩薩をそしらぬこと2.無智の身で有智の人と諍論(じょうろん)せぬこと3.別解(べつげ)・別行(べつぎょう)の人に対し本業(ほんごう)を棄置し嫌わぬこと4.念仏門には戒行がなく造悪を恐れないなどと主張せぬこと5.ことごとに私義をとなえないこと6.痴鈍(ちどん)の身をもって道俗を教化(きょうけ)しないこと7.仏法にあらざる邪法を説いて正法とせぬこと<< 戻る
人物

俊寛(しゅんかん)

平安時代後期の真言宗の僧。僧位の「僧都」を冠して俊寛僧都(しゅんかん そうず)と呼ばれることも多い。 村上源氏の出身で、父は木寺(仁和寺院家)の法印寛雅、母は宰相局。姉妹に大納言局。後白河法皇の側近で法勝寺執行の地位にあった。安元3年(1177年)、藤原成親・西光らの平氏打倒の陰謀に加わって鹿ヶ谷の俊寛の山荘で密議が行われた(ただし、『愚管抄』によれば、信西の子・静賢の山荘で密談が行われたとされている)。だが、密告により陰謀は露見し、俊寛は藤原成経・平康頼と共に鬼界ヶ島(薩摩国)へ配流された。(鹿ケ谷の陰謀)生誕 康治2年(1143年)命日 治承3年3月2日(1179年4月10日)<< 戻る
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立教開宗(浄土宗)

承安5(1175)年の春、法然上人は宇治で『 観経疏 (かんぎょうしょ) 』『散善義』と出会い、称名往生に関する確信を得て専修念仏に帰す。比叡山の西塔黒谷を出て西山広谷に移り、しばらくして東山大谷に住房をうつす。(後の知恩院)。浄土宗「立教開宗」の年と言われる。<< 戻る
人物

宏智正覚(わんししょうがく)

中国・宋時代の禅僧。隰州隰川県の出身。天童正覚(てんどうしょうがく)とも記述されます。丹霞子淳に就いて嗣法。弟子には自得慧暉がいる。多くの弟子を輩出したことから宏智派の祖とされています。臨済宗楊岐派のなかに大慧派を形成した大慧宗杲と、禅のあり方を巡り激しく対立しました。宏智正覚の主張は、仏性は本来的に有されていることから、坐禅すること自体が禅の姿で、その事実に気付くことこそが大事なことだと、公案を用いない曹洞宗の禅を擁護しました。しかし、大慧宗杲はこれを「黙照禅」と呼んで批判しました。対する大慧宗杲は、公案を用いることによって言語による思考を限界に追い詰めつつ坐禅し、言語を超越した悟りへと向か...
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丹霞子淳(たんかしじゅん)

中国・宋時代の禅僧。芙蓉道楷に就いて嗣法。弟子には長蘆清了、宏智正覚がいる。生誕 1064年命日 1117年<< 戻る
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保寧仁勇(ほねいじんゆう)

中国宋代の臨済宗楊岐派の禅僧。楊岐方会禅師に就いて嗣法。弟子には寿圣智渊、寿圣楚文、宝积宗映、景福日余など多数。保寧の勇禅師。・「保寧仁勇禅師頌曰、我仏親見賓頭盧、眉長髪短雙眉麁。阿育王猶狐疑、唵摩尼悉哩蘇嚧。(我仏親り賓頭盧を見る、眉長く髪短く雙眉麁なり。阿育王なほ狐疑す、唵摩尼悉哩蘇嚧。)この頌は、十成の道にあらざれども、趣向の参学なるがゆゑに拈来するなり。」(「正法眼蔵」見仏)・「保寧の勇禅師曰く、「眼睛なる常住物を護惜せよ」と。 之を敬重すること御饌草料の如くせよ。」(『典座教訓』2、心が整えば味も整う)生誕 命日 << 戻る
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『釈氏要覧』 (しゃくしようらん)

1019年(天禧3年)、宋(中国)の道誠(どうせい)が編纂した全3巻から成る仏教の故実や名目の簡潔な解説書です。<< 戻る
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祈親上人定誉、高野山復興に着手

落雷からの火災で荒廃した高野山を再興したのは、法華経の持経者(聖)だった興福寺の定誉(958-1047)です。長和5年(1016年)、観音像のお告げで高野山に登った定誉は、冬の寒さを防ぐ方法を編み出し、僧侶たちを山内へ呼び戻すなど、金剛峯寺の復興につとめました。 << 戻る
人物

聖宝(しょうほう)

三論宗の中興の祖とされる聖宝は、元興寺流の出身です。三論宗はインドの龍樹の中論・十二門論、その弟子提婆の百論の三論を所依(基盤とする)の経典とする論宗(経を所依とせず、論を所依とする)です。空を唱える事から、空宗ともいわれます。その他、無相宗・中観宗・無相大乗宗の呼び方もあります。中国隋代に嘉祥大師吉蔵(549年 - 623年)が大成しました。吉蔵の『三論玄義』は三論宗の立場で書かれた仏教概論です。生誕 832年命日 909年<< 戻る
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真済(しんぜい)

平安時代前期の真言宗の僧。父は巡察弾正紀御園。空海の十大弟子の一人で、真言宗で初めて僧官最高位の僧正に任ぜられた。詩文にも優れ、空海の詩文を集めた『性霊集』を編集している。また、長く神護寺に住し、その発展に尽力した。高雄僧正・紀僧正・柿本僧正とも称される。生誕 延暦19年(800年)命日 貞観2年2月25日(860年3月25日)<< 戻る
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空海上人、綜芸種智院を開設

天長5(828)年、空海上人は東寺の東にあった藤原三守の私邸を譲り受け、一般の人たちが誰でも勉強できるように私立の教育施設「綜芸種智院」を開設しました。<< 戻る
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勝道(しょうどう)

奈良時代から平安時代初期にかけての僧。勝道上人と称されることが多い。俗姓は若田氏。幼名は藤糸丸。下野(しもつけ)の人。日光山を開き、中禅寺を建てたと伝えられる。桓武天皇より上野(こうずけ)の講師に任ぜられた。生誕 天平7年4月21日(735年5月17日)命日 弘仁8年3月1日(817年3月21日)<< 戻る
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真言宗の開宗

弘仁元(810)年、空海上人は嵯峨天皇から書を奉り、「真言宗」という宗旨を開く許しを得ました。<< 戻る
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成実宗が伝わる

成実宗(じょうじつしゅう)は、百済の道蔵が日本へ伝えました。延暦25年(806年)の太政官符によれば、三論業3名のうち、1名には成実論を読ませた、とあります。俗諦と真諦とを対立させ、俗諦の存在を認めるが、真実界に立ってみればそれは空であると説かれています。成実宗とは『成実論』を研究する論宗(経を所依とせず、論を所依とする宗派)です。中国十三宗・日本の南都六宗の1つで、三論宗に附属する宗派です。<< 戻る
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空海上人、真言密教の第八祖に

永貞元(延暦24、805)年2月、長安の西明寺に滞在し、まず醴泉寺の印度僧般若三蔵に学び、梵語の経本や新訳経典を与えられる。5月より、正統の真言密教を継がれた第七祖である青龍寺東塔院(しょうりゅうじとうとういん)の恵果和尚(けいかかしょう)を訪れ、6月に大悲胎蔵の学法灌頂、7月に金剛界の灌頂、8月に伝法阿闍梨位の灌頂を受け、「この世の一切を遍く照らす最上の者」(大日如来)を意味する遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えられ、真言密教の第八祖となりました。<< 戻る
人物

荷沢神会(かたくじんね)

中国唐の時代の禅僧。襄州襄陽県の出身。はじめ大通神秀(北宗)のもとで学び、後にその弟弟子の大鑑慧能(南宗)のもとで学ぶ。大鑑慧能が亡くなると、今度は南陽へと北上し、そこで北宗の僧らと論争を繰り広げ、神秀批判の論を展開した。弟子には南印がいる。諡は真宗大師。禅宗の中の荷沢宗の開祖。荷澤神會。著作『菩提達摩南宗定是非論』生誕 684年(嗣聖元年)命日 758年(乾元元年)<< 戻る
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正倉院ができる

756年、東大寺の宝庫、正倉院ができる。聖武天皇の遺品などを保存、校倉造り。<< 戻る
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大通神秀(だいつうじんしゅう)

中国唐の時代。汴州尉氏県(河南省開封市尉氏県)出身。中国禅宗の六祖で北宗としては開祖。大医道信に就いて嗣法。弟子には普寂がいる。諡は大通禅師。彼の禅法は段階的に悟りを進める「漸悟」であり、弟弟子の六祖慧能の直下に悟りに至る「頓悟」思想と対極を為した。・「神秀は帝師なり。簾前に講法す、箔前に説法す。しかのみにあらず、七百高僧の上座なり。黄梅のむかし、盧行者あること、信ずべし。樵夫より行者にうつる、搬柴をのがるとも、なほ碓米を職とす。卑賤の身、うらむべしといへども、出俗越僧、得法伝衣、かつていまだむかしもきかざるところ、西天にもなし、ひとり東地にのこれる希代の高躅なり。」(「正法眼蔵」仏経)生誕 ...
人物

聖徳太子(しょうとくたいし)

厩戸皇子(うまやどのみこ、うまやどのおうじ)、厩戸王(うまやとおう)とも呼ばれ、飛鳥時代の皇族・政治家。用明天皇の第二皇子、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女。「聖徳太子」は後世の尊称ないし諡号。推古天皇のもと、蘇我馬子と協力して政治を行い、国際的緊張のなかで遣隋使を派遣するなどして進んでいる中国の文化・制度を学び冠位十二階や十七条憲法を定めるなど大王(天皇)や王族が中心である中央集権国家体制の確立を図ったほか仏教や儒教を取り入れ神道と共に信仰し興隆に努めたと言われる。生誕 574年2月7日(敏達天皇3年1月1日)命日 622年4月8日(推古天皇30年2月22日)<< 戻る
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『勝鬘経義疏』(しょうまんきょうぎしょ)

『勝鬘経義疏』は聖徳太子によって推古天皇19年(611年)に著されたと伝承されています。また、『三経義疏』(さんぎょうぎしょ)の一つです。<< 戻る
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十七条の憲法を定める

604年、十七条の憲法を定める。朝廷に仕える役人の心得。<< 戻る
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厩戸王(聖徳太子)の誕生

574年、厩戸王(聖徳太子)の誕生。<< 戻る