仏教を本気で学ぶ

『正法眼蔵随聞記』77、三覆して後に云え

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西行(さいぎょう)

平安後期の歌人。姓は佐藤、名は義清、別号に大宝房、法名を円位。武家に生まれ鳥羽上皇に北面武士として仕えるが、のち出家する。平清盛・時忠、崇徳院・徳大寺実能らと交わる。仏道修行、和歌に励み、和歌は約2300首が伝わる。勅撰集では『詞花集』に初出(1首)。『千載集』に18首、『新古今集』に94首(入撰数第1位)をはじめとして二十一代集に計265首が入撰。家集に『山家集』(六家集の一)、『山家心中集』(自撰)、『聞書集』。その逸話や伝説を集めた説話集に『撰集抄』『西行物語』があり、『撰集抄』については作者と目される。生誕 元永元年(1118年)命日 文治6年2月16日(1190年3月31日)<< 戻...
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西光(さいこう)

平安時代後期の官人・僧侶。俗名は藤原師光。阿波国の豪族・麻植為光の子。藤原北家魚名流、中納言・藤原家成の養子。官位は六位・左衛門尉。後白河院の近臣。生誕 命日 安元3年6月3日(1177年6月30日)<< 戻る
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塩官斉安(えんかんさいあん)

中国唐の時代の禅僧。馬祖道一に就いて嗣法。弟子には宣宗がいる。斉安国師。海昌院。・「杭州塩官県斉安国師は、馬祖下の尊宿なり。ちなみに衆にしめしていはく、一切衆生有仏性。」(「正法眼蔵」仏性)生誕 命日 842年<< 戻る
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伝教大師 最澄上人(でんぎょうだいし さいちょうしょうにん)

最澄とは、平安時代の僧で、日本天台宗の開祖であり、伝教大師として広く知られます。中国に渡って仏教を学び、帰国後、比叡山延暦寺を建立して天台宗の開祖となりました。伝教大師とは、最澄のことで、日本で最初に賜った大師号です。最澄は、神護景雲元(767)年8月18日、現在の滋賀県大津市坂本の一帯を統治していた三津首百枝(みつのおびとももえ)の子として誕生しました。俗名は広野(ひろの)です。宝亀9(778)年、12歳のとき、近江の国分寺(現在の大津市石山)に入り行表の弟子となります。宝亀11(780)年11月12日、14歳で国分寺僧補欠として得度し、「最澄」という名前が付きました。やがて奈良の都に行き、...
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坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)

平安時代の公卿、武官。名は田村麿とも書く。姓は忌寸のち大忌寸、大宿禰。父は左京大夫・坂上苅田麻呂。官位は大納言正三位兼右近衛大将兵部卿。勲二等。贈従二位。4代の天皇に仕えて忠臣として名高く、桓武天皇の軍事と造作を支えた一人であり、二度に渡り征夷大将軍を勤めて蝦夷征討に功績を残した。薬子の変では大納言へと昇進して政変を鎮圧するなど活躍。死後は嵯峨天皇の勅命により平安京の東に向かい、立ったまま柩に納めて埋葬され、「王城鎮護」「平安京の守護神」「将軍家の祖神」と称えられて武神や軍神として信仰の対象となる。現在は武芸の神や厄除の大神として親しまれ、後世に多くの田村語り並びに坂上田村麻呂伝説が創出された...
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三論宗(大安寺流)が伝わる

701年(大宝元年)、道慈(智蔵の弟子)が三論宗(大安寺流)伝えました。三論宗はインドの龍樹の中論・十二門論、その弟子提婆の百論の三論を所依(基盤とする)の経典とする論宗(経を所依とせず、論を所依とする)です。空を唱える事から、空宗ともいわれます。その他、無相宗・中観宗・無相大乗宗の呼び方もあります。中国隋代に嘉祥大師吉蔵(549年 - 623年)が大成しました。吉蔵の『三論玄義』は三論宗の立場で書かれた仏教概論です。<< 戻る
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三論宗(空宗)が伝わる

天武天皇2年(673年)に僧正となった中国(呉)出身の智蔵(恵灌の弟子)は元興寺で恵灌に三論を学んだ後に入唐し、恵灌の師であり三論宗の大成者でもある吉蔵に直接師事して伝えた三論宗は、法隆寺の空宗とも呼ばれます。三論宗はインドの龍樹の中論・十二門論、その弟子提婆の百論の三論を所依(基盤とする)の経典とする論宗(経を所依とせず、論を所依とする)です。空を唱える事から、空宗ともいわれます。その他、無相宗・中観宗・無相大乗宗の呼び方もあります。中国隋代に嘉祥大師吉蔵(549年 - 623年)が大成しました。吉蔵の『三論玄義』は三論宗の立場で書かれた仏教概論です。<< 戻る
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玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)

玄奘三蔵とは、中国(唐)の訳経僧です。玄奘とは僧名で、また諱でもあります。僧の最高峰である「三蔵」の号を得た高僧で、初代三蔵の鳩羅摩什(くまらじゅう)と共に「二聖」、あるいは真諦と不空金剛を含めて「四大訳経家」とも呼ばれます。法師、三蔵などが付いているのは尊称です。現在の河南省に生まれ、俗名は陳褘(ちんき)、諡(おくりな)は大遍覚(だいへんがく)です。629年に陸路でインドに向かい、645年に経典657部や仏像などを持ち帰った旅が『大唐西域記』として残されています。法相宗の開祖です。10歳で父を亡くした玄奘は、次兄の長捷(陳素)が出家して浄土寺(洛陽)に住むようになり、自身も浄土寺に学び、11...
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三論宗(元興寺流)が伝わる

625年(推古33年)に高句麗の僧の恵灌が三論宗(元興寺流)を伝えました。インドの龍樹の中論・十二門論、その弟子提婆の百論の三論を所依(基盤とする)の経典とする論宗(経を所依とせず、論を所依とする)です。空を唱える事から、空宗ともいわれます。その他、無相宗・中観宗・無相大乗宗の呼び方もあります。中国隋代に嘉祥大師吉蔵(549年 - 623年)が大成しました。吉蔵の『三論玄義』は三論宗の立場で書かれた仏教概論です。<< 戻る
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『三経義疏』(さんぎょうぎしょ)

『三経義疏』は聖徳太子によって著されたと伝承されている『法華義疏』(推古天皇23年(615年))・『勝鬘経義疏』(推古天皇19年(611年))・『維摩経義疏』(推古天皇21年(613年))の総称です。それぞれ『法華経』・『勝鬘経』・『維摩経』の三経の注釈書(義疏・注疏)です。<< 戻る
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『法句経』ダンマパダ【 第21章 様々なこと 】

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スッタニパータ【第1 蛇の章】3、サイの角

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スッタニパータ【第3 大いなる章】6、サビヤ

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スッタニパータ【第4 八つの詩句の章】5、最上についての八つの詩句

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スッタニパータ【第4 八つの詩句の章】16、サーリプッタ

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サーリプッタ(舎利子、舎利弗)

サーリプッタ(saariputta、सारिपुत्त)、シャーリプトラ、舎利子(しゃりし)、舎利弗(しゃりほつ)ブッダの十大弟子の一人で「智恵第一」といわれています。マガダ国のラージャグリハ(王舎城)北、ナーラダ(那羅陀、現在ナーランダ)村出身で裕福なバラモンの家に生まれました。幼名はウパティッサ(優波帝沙)と名付けられました。幼い頃から隣村コーリカのモッガラーナとは仲が良く、ある日、人々が祭りに興じて遊び戯れている姿を見て、無常を感じて出家を共に決意し合ったといわれます。サーリプッタとモッガラーナはマガダ国のラージャグリハの懐疑論者サンジャヤというバラモンに弟子入りしましたが満足せず、「も...
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沙羅双樹(さらそうじゅ)

祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり  沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす奢れる者も久しからず ただ春の夜の夢の如し  猛き人もついには滅びぬ ひとえに風の前の塵に同じ平家物語はこのような一節から始まるので、沙羅双樹という名前を知っている人が老若男女問わずいるようです。この沙羅双樹は、歴史上のブッダが入滅された場所に対で生えていたサーラの木のことです。インド原産の熱帯樹(フタバガキ科常緑樹)ですから日本では育ちません。日本で沙羅双樹と言われているものは白い花が夏の前頃に咲く夏椿(ツバキ科落葉樹)のことです。掲載画像はブッダ入滅の地、インド・クシナガラの涅槃堂前に植えている沙羅双樹です。伝...
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四大聖地(よんだいせいち)

ブッダの弟子アーナンダがブッダの死が近づいた時に問いました。「ブッダが亡くなったのちには、もう、ブッダにお会いすることはできないのでしょうか?」その問いにブッダが答えたのが四大聖地です。■ルンビニ(ブッダが生まれた地)藍毘尼■ブッダガヤ(ブッダが悟りを開いた地)仏陀伽邪■サールナート(ブッダが教えを説き始めた地)鹿野苑■クシナガラ(ブッダが亡くなった地)拘尸那掲羅これらの四つの場所が、信仰心ある者が実際に訪れて見て感動する場所であると、ブッダがアーナンダに伝えたのでした。(出典:『ブッダ最後の旅』【 第5章 】18、病い重し 8偈)<< 戻る
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八大聖地(はちだいせいち)

ブッダの弟子アーナンダがブッダの死が近づいた時に聞いたのが四大聖地ですが、仏教の開祖であるブッダに関する重要な8つの聖地の総称を八大聖地と呼びます。なお、ルンビニ、ブッダガヤー、サールナート、クシナガラは四大聖地と呼ばれています。■ルンビニ  ブッダが生まれた地(生誕)藍毘尼■ブッダガヤ  ブッダが悟りを開いた地(成道)仏陀伽邪■サールナート  ブッダが教えを説き始めた地(初転法輪)鹿野苑■ラージギル  ブッダ布教の地 王舎城■サヘート・マヘート  ブッダ布教の地 祇園精舎・舎衛城■サンカーシャ  ブッダ三道宝階降下の地 僧伽舎■ヴァイシャリ  ブッダ最後の旅の出発地 毘舎離■クシナガラ  ブ...