【仏教用語/人物集 索引】

『教行信証』化身土巻 - 本03

投稿日:1224年1月1日 更新日:

 爾れば光明寺の和尚(善導)の云わく(玄義分)、「然るに、娑婆の化主、其の請に因るが故に即ち広く浄土の要門を開く。安楽の能人の別意の弘願を顕彰す。其れ「要門」とは即ち此の『観経』の定散二門、是れなり。「定」は即ち慮を息めて、以て心を凝らす。「散」は即ち悪を廃して、以て善を修す。此の二行を回して往生を求願せよとなり。「弘願」と言うは、『大経』の説の如し」といえり。

 又云わく(玄義分)、「今此の『観経』は、即ち観仏三昧を以て宗とす、亦、念仏三昧を以て宗とす。一心に回願して浄土に往生するを体とすと。

 「教の大小」と言うは、問うて曰わく、此の『経』は、二蔵の中には何れの蔵にか摂する、二教の中には何れの教にか収むるや。

 答えて曰わく、今此の『観経』は菩薩蔵に収む、頓教の摂なり」と。

 又云わく(序分義)、「又「如是」(観経)と言うは、即ち此れは法を指す。定散両門なり。是れ即ち定むる辞なり。機行、必ず益す。此れは如来の所説の言、錯謬無きことを明かす。故に「如是」と名づく。又「如」と言うは、衆生の意の如しとなり。心の所楽に随いて、仏、即ち之を度したまう。機教相応せるを、復た称して「是」とす。故に「如是」と言う。又「如是」と言うは、如来の所説を明かさんと欲す。漸を説くことは漸の如し、頓を説くことは頓の如し。相を説くこと相の如し、空を説くこと空の如し。人法を説くこと人法の如し、天法を説くこと天法の如し。小を説くこと小の如し、大を説くこと大の如し。凡を説くこと凡の如し、聖を説くこと聖の如し。因を説くこと因の如し、果を説くこと果の如し。苦を説くこと苦の如し、楽を説くこと楽の如し。遠を説くこと遠の如し、近を説くこと近の如し。同を説くこと同の如し、別を説くこと別の如し。浄を説くこと浄の如し、穢を説くこと穢の如し。一切の法を説くこと千差万別なり。如来の観知、歴歴了然として、心に随いて行を起こして、各おの益すること同じからず。業果法然として、衆て錯失無し。又称して「是」とす。故に「如是」と言う。」

 又云わく(序分義)、「「欲生彼国者」(観経)より下、「名為浄業」(同)に至るまで已来は、正しく三福の行を勧修することを明かす。此れは、一切衆生の機に二種有ることを明かす。一には定、二には散なり。若し定行に依れば、即ち生を摂するに尽きず。是れを以て如来、方便して三福を顕開して、以て散動の根機に応じたまえり」と。

 又云わく(散善義)、「又、真実に二種有り。一には自利真実、二には利他真実なり。「自利真実」と言うは、復た二種有り。一には、真実心の中に自他の諸悪及び穢国等を制作して、行住座臥に、一切菩薩の、諸悪を制捨するに同じく、我も亦是くの如くせんと想うなり。

 二には、真実心の中に自他凡聖等の善を懃修す。真実心の中の口業に、彼の阿弥陀仏及び依正二報を讃嘆す。又、真実心の中の口業に、三界六道等の自他依正の二報・苦悪の事を毀厭す。亦、一切衆生の三業所為の善を讃嘆す。若し善業に非ずは、敬んで之を遠ざかれ、亦随喜せざれとなり。又、真実心の中の身業に、合掌し礼敬し、四事等をもって彼の阿弥陀仏及び依正二報を供養す。又、真実心の中の身業に、此の生死三界等の自他の依正二報を軽慢し厭捨す。又、真実心の中の意業に、彼の阿弥陀仏及び依正二報を思想し観察し憶念して、目の前に現ぜるが如くす。又、真実心の中の意業に、此の生死三界等の自他の依正二報を軽賤し厭捨すと。乃至

 又、決定して「釈迦仏、此の『観経』に三福九品・定散二善を説きて、彼の仏の依正二報を証賛して、人をして欣慕せしむ」と深信すと。乃至

 又、深心の深信とは、決定して自心を建立して、教に順じて修行し、永く疑錯を除きて、一切の別解・別行・異学・異見・異執の為に退失傾動せられざるなりと。乃至

 次に行に就いて信を立てば、然るに行に二種有り。一には正行、二には雑行なり。「正行」と言うは、専ら往生経の行に依りて行ずるは、是れを「正行」と名づく。何者か是れや。一心に専ら此の『観経』・『弥陀経』・『無量寿経』等を読誦する。一心に彼の国の二報荘厳を専注し思想し観察し憶念する。若し礼せば、即ち一心に専ら彼の仏を礼する。若し口に称せば、即ち一心に専ら彼の仏を称せよ。若し讃嘆供養せば、即ち一心に専ら讃嘆供養する。是れを名づけて「正」とすと。

 又、此の正の中に就いて、復た二種有り。一には、一心に弥陀の名号を専念して、行住座臥に時節の久近を問わず、念念に捨てざるは、是れを「正定の業」と名づく。彼の仏願に順ずるが故に。若し礼・誦等に依るを、即ち名づけて「助業」とす。此の正・助二行を除きて已外の自余の諸善は、悉く「雑行」と名づく。若し前の正・助二行を修するは、心、常に親近し憶念断えず。名づけて「無間」とするなり。若し後の雑行を行ずるは、即ち心、常に間断す。回向して生を得べしと雖も、衆て「疎雑の行」と名づくるなり。故に「深心」(観経)と名づくと。

(化身土巻 - 本 は続く)

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