【仏教用語/人物集 索引】

『教行信証』真仏土巻07

投稿日:1224年1月1日 更新日:

 何とならば、『大品経』の「涅槃非化品」の中に説きて云うが如し。「仏、須菩提に告げたまわく、「汝が意に於いて云何。若し化人有りて化人を作す。是の化、頗る実事有りや不や。空しき者なりや不や。」

 須菩提の言さく、「不や。世尊。」

 仏、須菩提に告げたまわく、「色即ち是れ化なり。受・想・行・識即ち是れ化なり。乃至一切種智即ち是れ化なり。」

 須菩提、仏に白して言さく、「世尊。若し世間の法、是れ化なりや、出世間の法、亦是れ化なりやと。謂わゆる、四念処・四正勤・四如意足・五根五力・七覚分・八聖道分・三解脱門・仏十力・四無所畏・四無碍智・十八不共法、幷びに諸法の果及び賢聖人、謂わゆる、須陀洹・斯陀含・阿那含・阿羅漢・辟支仏・菩薩摩訶薩・諸仏世尊、是の法、亦是れ化なりや不や」と。

 仏、須菩提に告げたまわく、「一切の法、皆是れ化なり。是の法の中に於いて、声聞の法の変化有り。辟支仏の法の変化有り。菩薩の法の変化有り。諸仏の法の変化有り。煩悩の法の変化有り。業因縁の法の変化有り。是の因縁を以ての故に、須菩提、一切の法、皆是れ化なり」とのたまえり。

 須菩提、仏に白して言さく、「世尊。是の諸の煩悩断は、謂わゆる、須陀洹果・斯陀含果・阿那含果・阿羅漢果・辟支仏道は、諸の煩悩の習を断ず。皆是れ変化なりや不や」と。

 仏、須菩提に告げたまわく、「若し法の生滅の相有るは、皆是れ変化なり」とのたまえり。

 須菩提言さく、「世尊。何等の法か、変化に非ざる」と。

 仏の言わく、「若し法の無生無滅なる、是れ変化に非ず」と。

 須菩提言さく、「何等か是れ不生不滅にして変化に非ざる」と。

 仏の言わく、「誑相無き涅槃、是の法、変化に非ず」と。

 「世尊。仏自ら説きたまうが如き、諸法平等にして、声聞の作に非ず、辟支仏の作に非ず、諸の菩薩摩訶薩の作に非ず、諸仏の作に非ず、有仏・無仏、諸法の性、常に空なり。性空なる、即ち是れ涅槃なり。云何ぞ涅槃の一法、化の如くに非ざる」と。

 仏、須菩提に告げたまわく、「是くの如し、是くの如し。諸法は平等にして、声聞の所作に非ず、乃至性空なれば即ち是れ涅槃なり。若し新発意の菩薩、是の一切の法、皆、畢竟じて性空なり、乃至涅槃も亦、皆、化の如しと聞かば、心則ち驚怖しなん。是れ新発意の菩薩の為に、故らに生滅の者は化の如し、不生不滅の者は化の如きに不ざるをと分別するをや。」」

 今既に斯の聖教を以て験らかに知りぬ。弥陀は定んで是れ報なり。縦使い後に涅槃に入らん、其の義、妨無けん。諸の有智の者、知るべしと。

 問うて曰わく、彼の仏及び土、既に「報」と言わば、報法高妙にして、小聖、階い難し。垢障の凡夫、云何が入ることを得んや。

 答えて曰わく、若し衆生の垢障を論ぜば、実に欣趣し難し。正しく仏願に託するに由りて、以て強縁と作りて五乗斉しく入らしむることを致す」と。

 又云わく(序分義)、「「我今楽生弥陀」(観経)より已下は、正しく、夫人、別して所求を選ぶことを明かす。此れは弥陀の本国四十八願なることを明かす。願願皆、増上の勝因を発せり。因に依りて勝行を起こせり。行に依りて勝果を感ず。果に依りて勝報を感成せり。報に依りて極楽を感成せり。楽に依りて悲化を顕通す。悲化に依りて智慧の門を顕開せり。然るに、悲心無尽にして、智亦無窮なり。悲智双べ行じて、即ち広く甘露を開けり。茲れに因りて、法潤、普く群生を摂したまうなり。諸余の経典に勧むる処、弥く多し。衆聖、心を斉しくして、皆同じく指讃したまう。此の因縁有りて、如来、密かに夫人を遣わして、別して選ばしめたまうことを致すなり。」

 又云わく(定善義)、「西方寂静無為の楽は、畢竟逍遙して有無を離れたり。大悲、心に薫じて法界に遊ぶ。分身して物を利すること、等しくして殊なること無し。帰去来、魔郷には停まるべからず。曠劫より来、六道に流転して尽く皆逕たり。到る処に余の楽無し。唯、愁歎〔或る本、「生死」なり。〕の声を聞く。此の生平を畢えて後、彼の涅槃の城に入らん」と。

 又云わく(法事讃)、「極楽は無為涅槃の界なり。随縁の雑善、恐らくは生じ難し。故に如来、要法を選びて教えて弥陀を念ぜしめて、専らにして復た専らならしめたまえり。」

 又云わく(法事讃)、「仏に従いて逍遙して自然に帰す。自然は即ち是れ弥陀の国なり。無漏無生、還りて即ち真なり。行来進止に常に仏に随いて、無為法性身を証得す」と。

 又云わく(法事讃)、「弥陀の妙果をば号して「無上涅槃」と曰う」と。已上抄出

 憬興師の云わく(述文賛)、「「無量光仏」(大経)算数に非ざるが故に。「無辺光仏」(同)縁として照らさざること無きが故に。「無碍光仏」(同)人法として能く障うること有ること無きが故に。「無対光仏」(同)諸菩薩の及ぶ所に非ざるが故に。「光炎王仏」(同)光明自在にして、更に為すこと上無きが故に。「清浄光仏」(同)無貪の善根よりして現ずるが故に、亦衆生貪濁の心を除くなり。貪濁の心無きが故に「清浄」と云う。「歓喜光仏」(同)無瞋の善根よりして生ずるが故に、能く衆生の瞋恚盛心を除く故に。「智慧光仏」(同)無痴の善根の心より起これり。復た衆生の無明品心を除くが故に。「不断光仏」(同)仏の常光、恒に照益を為すが故に。「難思光仏」(同)諸の二乗の測度する所に非ざるが故に。「無称光仏」(同)亦余乗等、説くこと堪うる所に非ざるが故に。「超日月光仏」(同)日は応じて恒に照らすこと周からず。娑婆一耀の光なるが故に。皆是れ光触を身に蒙るは、身心柔軟の願の致す所なり。」已上抄要

 爾れば、如来の真説、宗師の釈義、明らかに知りぬ。安養浄刹は真の報土なることを顕す。惑染の衆生、此にして性を見ること能わず。煩悩に覆わるるが故に。

 『経』(涅槃経)には「我、「十住の菩薩、少分、仏性を見る」と説く」と言えり。故に知りぬ。安楽仏国に到れば即ち必ず仏性を顕す。本願力の回向に由るが故に。

 亦『経』(涅槃経)には「衆生、未来に清浄の身を具足して荘厳して仏性を見ることを得」と言えり。

 『起信論』(念仏三昧宝王論)に曰わく、「若し説くと雖も能説の有りて説くべきも無く、亦能念の念ずべきも無しと知るを、名づけて「随順」とす。若し念を離るるを名づけて「得入」とす。得入は真如三昧なり。いかに況んや、無念の位は妙覚に在り。蓋し以て了心は初生の相なり。而も初相を知ると言うは、謂わゆる、無念は菩薩十地の知る所に非ず。而るに今の人、尚未だ十信に階わず。即ち馬鳴大士に依らざらんや。説より無説に入り、念より無念に入る」とのたまえり。略抄

 夫れ報を案ずれば、如来の願海に由りて果成の土を酬報せり。故に「報」と曰うなり。
 然るに願海に就いて、真有り、仮有り。是を以て復た仏土に就いて、真有り、仮有り。選択本願の正因に由りて真仏土を成就せり。
 「真仏」と言うは、『大経』には「無辺光仏・無碍光仏」と言えり。
 又「諸仏中の王なり。光明中の極尊なり」(過度人道経)と言えり。已上
 『論』(浄土論)には「帰命尽十方無碍光如来」と曰えるなり。
 「真土」と言うは、『大経』には「無量光明土」(平等覚経)と言えり。
 或いは「諸智土」(如来会)と言えり。已上
 『論』(浄土論)には「究竟して虚空の如し、広大して辺際無し」と曰うなり。
 「往生」と言うは、『大経』には「皆受自然虚無之身無極之体」と言えり。已上
 『論』(浄土論)には「如来浄華衆 正覚華化生」と曰えり。
 又は「同一念仏して無別の道故」(論註)と云えり。已上
 又「難思議往生」(法事讃)と云える、是れなり。

 仮の仏土とは、下に在りて知るべし。既に以て真・仮、皆是れ大悲の願海に酬報せり。故に知りぬ、報仏土なりということを。良に仮の仏土の業因千差なれば、土も復た千差なるべし。是れを「方便化身化土」と名づく。真・仮を知らざるに由りて、如来広大の恩徳を迷失す。

 茲れに因りて、今、真仏・真土を顕す。斯れ乃ち真宗の正意なり。経家・論家の正説、浄土宗師の解義、仰いで敬信すべし、特に奉持すべきなり。知るべしとなり。

顕浄土真仏土文類五

▶ 次に進む

◀ 前に戻る

🏠 『教行信証』の最初に戻る

※このページは学問的な正確性を追求するものではありません。前知識のない一般の方でも「読んでみよう!」と思ってもらえるよう、より分かりやすく読み進めるために編集しています。漢字をひらがなに、旧字体を新字体に、送り仮名を現代表記に、( )にふりがなをつけるなど、原文に忠実ではない場合があります。

あなたに おすすめページ💡 戒名授与 1万円のみ(故人/生前/法名授与も)

<< 戻る

-仏教を本気で学ぶ, 年表
-



Copyright © 1993 - 2024 寺院センター All Rights Reserved.