【仏教用語/人物集 索引】

『教行信証』真仏土巻06

投稿日:1224年1月1日 更新日:

 『讃阿弥陀仏偈』に曰わく 曇鸞和尚造なり、「南無阿弥陀仏 釈して「無量寿傍経」と名づく。賛め奉りて亦「安養」と曰う。成仏より已来、十劫を歴たまえり。寿命、方将に量有ること無けん。法身の光輪、法界に遍じて、世の盲冥を照らす。故に頂礼したてまつる。智慧の光明、量るべからず。故に仏を又「無量光」と号す。有量の諸相、光暁を蒙る。是の故に真実明を稽首したてまつる。解脱の光輪、限斉無し。故に仏を又「無辺光」と号す。光触を蒙る者、有無を離る。是の故に平等覚を稽首したてまつる。光、雲のごとくにして無碍なること虚空の如し。故に仏を又「無碍光」と号す。一切の有碍、光沢を蒙る。是の故に難思議を頂礼したてまつる。清浄の光明、対有ること無し。故に仏を又「無対光」と号す。斯の光に遇う者は、業繫除こる。是の故に畢竟依を稽首したてまつる。仏光、照耀して最第一なり。故に仏を又「光炎王」と号す。三塗の黒闇、光啓を蒙る。是の故に大応供を頂礼したてまつる。道光、明朗にして、色、超絶したまえり。故に仏を又「清浄光」と号す。一たび光照を蒙るに罪垢除こる。皆、解脱を得しむ。故に頂礼したてまつる。慈光、遐かに被らしめ安楽を施す。故に仏を又「歓喜光」と号す。光の至る所の処に法喜を得しむ。大安慰を稽首し頂礼したてまつる。仏光、能く無明の闇を破す。故に仏を又「智慧光」と号す。一切諸仏・三乗衆、咸く共に嘆誉す。故に稽首したてまつる。光明、一切の時、普く照らす。故に仏を又「不断光」と号す。聞光力の故に、心、断えずして、皆、往生を得しむ。故に頂礼したてまつる。其の光、仏を除きては能く測ること莫けん。故に仏を又「難思光」と号す。十方諸仏、往生を嘆じ、其の功徳を称せしむ。故に稽首したてまつる。神光は相を離れたること、名づくべからず。故に仏を又「無称光」と号す。光に因りて成仏したまう。光、赫然たり。諸仏の嘆じたまう所なり。故に頂礼したてまつる。光明照曜して日月に過ぎたり。故に仏を「超日月光」と号す。釈迦仏、嘆じたまうこと尚尽きず。故に我、無等等を稽首したてまつると。乃至

 本師龍樹摩訶薩、形像を誕ず。始めて頽綱〔「頽」の字 崩なり。破なり。落なり。纏なり。〕を理る。邪扇を関閉して正轍〔「轍」の字 直刹の反。通なり。車なり。跡なり。〕を開く。是れ閻浮提の一切の眼なり。尊語を伏承して、歓喜地にして阿弥陀に帰して安楽に生ぜしむ。我、無始より三界に循りて虚妄輪の為に回転せらる。一念・一時に造る所の業足、六道に繫がれ三塗に滞まる。唯願わくは、慈光、我を護念して、我をして菩提心を失せざらしめたまえ。我、仏恵功徳の音を讃ず。願わくは、十方の諸の有縁に聞かしめて、安楽に往生することを得んと欲わん者、普く皆、意の如くして障碍無からしめん。有らゆる功徳、若しは大小、一切に回施して、共に往生せしめん。不可思議光に南無し、一心に帰命し稽首し礼したてまつる。十方三世の無量慧、同じく一如に乗じて「正覚」と号す。二智円満して道平等なり。摂化すること、縁に随う。故に若干ならん。我、阿弥陀の浄土に帰するは、即ち是れ諸仏の国を帰命するなり。我、一心を以て一仏を賛ず。願わくは、十方無碍人に遍ぜん。是くの如き十方無量仏、咸く各おの、心を至して頭面に礼したてまつるなり」と。已上抄出

 光明寺の和尚(善導)の云わく(玄義分)、「問うて曰わく、弥陀浄国は、当、是れ報なりや、是れ化なりとやせん。

 答えて曰わく、是れ報にして化に非ず。云何が知ることを得る。

 『大乗同性経』に説くが如し、「西方の安楽阿弥陀仏は、是れ報仏・報土なり」と。

 又『無量寿経』に云わく、「法蔵比丘、世饒王仏の所に在して、菩薩の道を行じたまいし時、四十八願を発して一一の願に言わく、「若し我、仏を得んに、十方の衆生、我が名号を称して、我が国に生まれんと願ぜん。下、十念に至るまで、若し生まれずは、正覚を取らじ」」と。今既に成仏したまえり。即ち是れ酬因の身なり。

 又『観経』の中に、上輩三人、命終の時に臨みて、皆、「阿弥陀仏及び化仏、「与に」此の人を来迎す」と言えり。然るに、報身、化を兼ねて共に来たりて手を授くと。故に名づけて「与」とす。此の文証を以ての故に知りぬ、是れ報なりと。

 然るに報・応二身とは眼・目の異名なり。前には「報」を翻じて「応」と作る。後には「応」を翻じて「報」と作る。凡そ「報」と言うは、因行虚しからず、定んで来果を招く。果を以て因に応ず。故に名づけて「報」とす。又、三大僧祇の所修の万行、必定して菩提を得べし。今既に道成ぜり。即ち是れ応身なり。斯れ乃ち過・現の諸仏、三身を弁立す。斯れを除きて已外は更に別の体無さず。縦使い無窮の八相・名号塵沙なり、体に剋して、而うして論ぜば、衆て化に帰して摂す。今、彼の弥陀、現に是れ報なりと。

 問うて曰わく、既に「報」と言わば、報身常住にして永く生滅無し。何が故ぞ、『観音授記経』に説かく、「阿弥陀仏、亦入涅槃の時有り」と。此の一義、若為が通釈せんや。

 答えて曰わく、入・不入の義は、唯是れ諸仏の境界なり。尚、三乗浅智の闚う所に非ず。豈に況んや小凡、輒く能く知らんや。然りと雖も、必ず知らんと欲わば、敢えて仏経を引きて、以て明証とせん。

(真仏土巻は続く)

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