【仏教用語/人物集 索引】

『教行信証』信巻17

投稿日:1224年1月1日 更新日:

 又言わく(梵行品)、「「善男子。我が言う所の如し、「阿闍世王の為に涅槃に入らず。」是くの如きの密義、汝、未だ解くこと能わず。何を以ての故に。我、「為」と言うは一切凡夫、「阿闍世」は普く及び一切、五逆を造る者なり。又復「為」は即ち是れ一切有為の衆生なり。我、終に無為の衆生の為にして世に住せず。何を以ての故に。夫れ無為は衆生に非ざるなり。「阿闍世」は即ち是れ煩悩等を具足せる者なり。又復「為」は即ち是れ仏性を見ざる衆生なり。若し仏性を見んものには、我、終に為に久しく世に住せず。何を以ての故に。仏性を見る者は衆生に非ざるなり。「阿闍世」は即ち是れ一切、未だ阿耨多羅三藐三菩提心を発せざる者なり。乃至 又復「為」は名づけて「仏性」とす。「阿闍」は名づけて「不生」とす。「世」は怨に名づく。仏性を生ぜざるを以ての故に則ち煩悩の怨生ず。煩悩の怨生ずるが故に仏性を見ざるなり。煩悩を生ぜざるを以ての故に則ち仏性を見る。仏性を見るを以ての故に則ち大般涅槃に安住することを得。是れを「不生」と名づく。是の故に名づけて「阿闍世」とす。善男子。「阿闍」は不生に名づく。不生は「涅槃」と名づく。「世」は世法に名づく。「為」は不汚に名づく。世の八法を以て汚さざる所なるが故に無量無辺阿僧祇劫に涅槃に入らずと。是の故に我、「阿闍世の為に無量億劫に涅槃に入らず」と言えり。善男子。如来の密語不可思議なり。仏・法・衆僧、亦不可思議なり。菩薩摩訶薩、亦不可思議なり。大涅槃経、亦不可思議なり。」

 爾の時に世尊大悲導師、阿闍世王の為に月愛三昧に入れり。三昧に入り已りて大光明を放つ。其の光、清涼にして、往きて王身を照らしたまうに、身の瘡即ち愈えぬ。乃至

 王白して言わまく、「耆婆。彼は天中天なり。何の因縁を以て斯の光明を放ちたまうぞや」と。

 「大王。今、是の瑞相は、及以び王の為に相似たり。先ず言わまく、世に良医の身心を療治するもの無きが故に、此の光を放ちて先ず王身を治す。然うして後に心に及ぶ。」

 王の、耆婆に言わまく、「如来世尊、亦見たてまつらんと念うをや」と。

 耆婆答えて言わく、「譬えば、一人して七子有らん。是の七子の中に病に遇えば、父母の心、平等ならざるに非ざれども、然るに病子に於いて、心則ち偏に重きが如し。大王。如来も亦爾なり。諸の衆生に於いて平等ならざるに非ざれども、然るに罪者に於いて心則ち偏に重し。放逸の者に於いて、仏則ち慈念したまう。不放逸の者は、心則ち放捨す。何等をか名づけて「不放逸の者」とすると。謂わく、六住の菩薩なりと。大王。諸仏世尊、諸の衆生に於いて、種姓・老少中年・貧富・時節・日月星宿・工巧・下賤・僮僕・婢使を観そなわさず。唯、衆生の善心有る者を観そなわす。若し善心有れば、則便ち慈念したまう。大王、当に知るべし。是くの如きの瑞相は、即ち是れ、如来、月愛三昧に入りて放つ所の光明なり」と。

 王即ち問うて言わまく、「何等をか名づけて「月愛三昧」とする」と。

 耆婆答えて言わまく、「譬えば月の光、能く一切の優鉢羅華をして開敷し鮮明ならしむるが如し。月愛三昧も亦復是くの如し。能く衆生をして善心開敷せしむ。是の故に名づけて「月愛三昧」とす。大王。譬えば月の光、能く一切路を行くの人、心に歓喜を生ぜしむるが如し。月愛三昧も亦復是くの如し。能く涅槃道を修習せん者の心に歓喜を生ぜしむ。是の故に復た「月愛三昧」と名づくと。乃至 諸善の中の王なり。甘露味とす。一切衆生の愛楽する所なり。是の故に復た「月愛三昧」と名づく」と。乃至

(「信巻」続く)

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