【仏教用語/人物集 索引】

『教行信証』信巻13

投稿日:1224年1月1日 更新日:

 『大本』(大経)に言わく、「無上殊勝の願を超発す」と。

 又言わく(大経)、「我、超世の願を建つ。必ず無上道に至らんと。名声、十方に超えて、究竟して聞こゆる靡くは、誓う、正覚を成らじ」と。

 又言わく(大経)、「必ず超絶して去つることを得て、安養国に往生して、横に五悪趣を截り、悪趣、自然に閉じん。道に昇るに窮極無し。往き易くして人無し。其の国、逆違せず。自然の牽く所なり。」已上

 『大阿弥陀経』支謙 に言わく、「超絶して去つることを得べし。阿弥陀仏国に往生すれば、横に五悪道を截りて自然に閉塞す。道に昇るに、之、極まり無し。往き易くして、人有ること無し。其の国土、逆違せず。自然の牽く随なり」と。已上

 「断」と言うは、往相の一心を発起するが故に、生として当に受くべき生無し。趣として更た到るべき趣無し。已に六趣四生、因亡じ果滅す。故に即ち頓に三有の生死を断絶す。故に「断」と曰うなり。

 「四流」は則ち四暴流なり、又生老病死なり。

 『大本』(大経)に言わく、「会ず当に仏道を成りて、広く生死の流を度すべし」と。

 又言わく(平等覚経)、「会ず当に世尊と作りて、将に一切生老死を度せんとす」と。已上

 『涅槃経』(師子吼菩薩品)に言わく、「又、涅槃は名づけて「洲渚」とす。何を以ての故に。四大の暴河に漂うこと能わざるが故に。何等をか四とする。一には欲暴、二には有暴、三には見暴、四には無明暴なり。是の故に涅槃を名づけて「洲渚」とす」と。已上

 光明寺の和尚(善導)の云わく(般舟讃)、「諸の行者に白さく、凡夫、生死、貪して厭わざるべからず、弥陀の浄土、軽めて欣わざるべからず。厭えば則ち娑婆永く隔つ。欣えば則ち浄土に常に居せり。隔つれば則ち六道の因亡じ、淪回の果、自ずから滅す。因果、既に亡じて、則ち形と名と頓に絶うるをや。」

 又云わく(往生礼讃)、「仰ぎ願わくは一切往生人等、善く自ら己が能を思量せよ。今身に彼の国に生まれんと願わん者は、行住座臥に、必ず須く心を励まし己に剋して、昼夜に廃すること莫かるべし。畢命を期として、上、一形に在るは、少しき苦しきに似如たれども、前念に命終して、後念に即ち彼の国に生まれて、長時永劫に常に無為の法楽を受く。乃至成仏までに生死を逕ず。豈に快に非ずや。知るべし」と。已上

 「真仏弟子」と言うは、「真」の言は、偽に対し、仮に対するなり。「弟子」は、釈迦・諸仏の弟子なり、金剛心の行人なり。斯の信行に由りて必ず大涅槃を超証すべきが故に、「真仏弟子」と曰う。

 『大本』(大経)に言わく、「設い我、仏を得たらんに、十方無量不可思議の諸仏世界の衆生の類、我が光明を蒙りて其の身に触るる者、身心柔軟にして人天に超過せん。若し爾らずは、正覚を取らじと。

 設い我、仏を得んに、十方無量不可思議の諸仏世界の衆生の類、我が名字を聞きて菩薩の無生法忍・諸の深総持を得ずは、正覚を取らじ」と。已上

 『無量寿如来会』に言わく、「若し我成仏せんに、周遍十方無量無辺不可思議無等界の有情の輩、仏の威光を蒙りて照触せらるる者、身心安楽にして人天に超過せん。若し爾らずは、菩提を取らじ」と。已上

 又(大経)「法を聞きて能く忘れず、見て敬い得て大きに慶ばば、則ち我が善き親友なり」と言えりと。

 又言わく(大経)、「其れ至心有りて安楽国に生まれんと願ずれば、智慧明らかに達し、功徳殊勝を得べし」と。

 又(如来会)「広大勝解者」と言えりと。

 又(如来会)「是くの如き等の類、大威徳の者、能く広大異門に生まる」と言えりと。

 又言わく(観経)、「若し念仏する者は、当に知るべし、此の人は是れ人中の分陀利華なりと。」已上

 『安楽集』に云わく、「諸部の大乗に拠りて説聴の方軌を明かさば、『大集経』に云わく、「説法の者に於いては、医王の想を作せ、抜苦の想を作せ。所説の法をば、甘露の想を作せ、醍醐の想を作せ。其れ聴法の者をば、増長勝解の想を作せ、愈病の想を作せ。若し能く是くの如き説者・聴者は、皆、仏法を紹隆するに堪えたり。常に仏前に生ぜん」と。乃至

 『涅槃経』に依るに、「仏の言わく、「若し人、但能く心を至して常に念仏三昧を修すれば、十方諸仏、恒に此の人を見そなわすこと、現に前に在すが如し。」」是の故に『涅槃経』に云わく、「仏、迦葉菩薩に告げたまわく、「若し善男子・善女人有りて、常に能く心を至し専ら念仏する者は、若しは山林にも在れ、若しは聚落にも在れ、若しは昼、若しは夜、若しは座、若しは臥、諸仏世尊、常に此の人を見そなわすこと、目の前に現ぜるが如し。恒に此の人の与にして受施を作さん」と。」乃至

 『大智度論』に依るに三番の解釈有り。第一には、仏は是れ無上法王なり。菩薩は法臣とす。尊ぶ所、重くする所、唯仏世尊なり。是の故に当に常に念仏すべきなり。第二に、諸の菩薩有りて自ら云わく、「我、曠劫より已来、世尊、我等が法身・智身・大慈悲身を長養することを蒙ることを得たりき。禅定・智慧・無量の行願、仏に由りて成ずることを得たり。報恩の為の故に、常に仏に近づかんことを願ず。亦、大臣の、王の恩寵を蒙りて、常に其の王を念うが如し。」第三に、諸の菩薩有りて復た是の言を作さく、「我、因地にして、善知識に遇いて波若を誹謗して悪道に堕しき。無量劫を逕て余行を修すと雖も、未だ出ずること能わず。後に一時に於いて、善知識の辺に依りしに、我を教えて念仏三昧を行ぜん。其の時に即ち能く併しながら、諸の障、方に解脱を得しむ。斯の大益有るが故に、願じて仏を離れず」と。乃至

 『大経』に云わく、「凡そ浄土に往生せんと欲わば、発菩提心を須いるを要とするを源とす。」云何ぞ。菩提は乃ち是れ無上仏道の名なり。若し発心作仏せんと欲わば、此の心、広大にして法界に周遍せん。此の心、長遠にして未来際を尽くす。此の心、普く備に二乗の障を離る。若し能く一たび発心すれば、無始生死の有輪を傾くと。乃至

 『大悲経』に云わく、「云何が名づけて「大悲」とする。若し専ら念仏相続して断えざれば、其の命終に随いて、定んで安楽に生ぜん。若し能く展転して相勧めて念仏を行ぜしむるは、此れ等を悉く「大悲を行ずる人」と名づく」と。」已上抄出

(「信巻」続く)

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