【仏教用語/人物集 索引】

『教行信証』信巻11

投稿日:1224年1月1日 更新日:

 阿弥陀如来は、「真実明」・「平等覚」・「難思議」・「畢竟依」・「大応供」・「大安慰」・「無等等」・「不可思議光」と号したてまつるなりと。已上

 『楽邦文類』の「後序」に曰わく、「浄土を修する者、常に多けれども、其の門を得て径ちに造る者、幾ばく無し。浄土を論ずる者、常に多けれども、其の要を得て直ちに指うる者、或いは寡なし。曾て未だ聞かず、自障自蔽を以て説を為すこと有る者。得るに因りて、以て之を言う。夫れ自障は愛に若く莫し、自蔽は疑に若く莫し。但、疑・愛の二心、了に障碍無からしむるは則ち浄土の一門なり。未だ始めて間隔せず。弥陀の洪願、常に自ずから摂持したまう。必然の理なり。」已上

 夫れ真実信楽を案ずるに、信楽に一念有り。「一念」は、斯れ信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり。

 是を以て『大経』に言わく、「諸有衆生、其の名号を聞きて信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心回向したまえり。彼の国に生まれんと願ずれば、即ち往生を得、不退転に住せん」と。

 又(如来会)「他方仏国の所有の衆生、無量寿如来の名号を聞きて、能く一念の浄信を発して歓喜せん」と言えり。

 又(大経)「其の仏の本願の力、名を聞きて往生せんと欲え」と言えり。

 又言わく(如来会)、「仏の聖徳の名を聞く」と。已上

 『涅槃経』(迦葉菩薩品)に言わく、「云何が名づけて「聞不具足」とする。如来の所説は十二部経なり。唯、六部を信じて、未だ六部を信ぜず。是の故に名づけて「聞不具足」とす。復た是の六部の経を受持すと雖も、読誦に能わずして他の為に解説するは利益する所無けん。是の故に名づけて「聞不具足」とす。又復、是の六部の経を受け已りて、論議の為の故に、勝他の為の故に、利養の為の故に、諸有の為の故に、持読誦説せん。是の故に名づけて「聞不具足」とす」とのたまえり。已上

 光明寺の和尚(善導)は「一心専念」(散善義)と云い、又「専心・専念」(同)と云えりと。已上

 然るに、『経』(大経)に「聞」と言うは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心有ること無し。是れを「聞」と曰うなり。「信心」と言うは則ち本願力回向の信心なり。「歓喜」と言うは身心の悦予の貌を形すなり。「乃至」と言うは多少の言を摂するなり。「一念」と言うは、信心、二心無きが故に「一念」と曰う。是れを「一心」と名づく。一心は則ち清浄報土の真因なり。

 金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え、必ず現生に十種の益を獲。何者か十とする。一には冥衆護持の益、二には至徳具足の益、三には転悪成善の益、四には諸仏護念の益、五には諸仏称讃の益、六には心光常護の益、七には心多歓喜の益、八には知恩報徳の益、九には常行大悲の益、十には正定聚に入る益なり。

(「信巻」続く)

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