『貞元の新定釈教の目録』巻第十一に云わく(貞元釈教録)、「『集諸経礼懺儀』上下、大唐西崇福寺の沙門智昇の撰なり。貞元十五年十月二十三日に准えて勘編して入ると云云。『懺儀』の上巻は、智昇、諸経に依りて『懺儀』を造る中に、『観経』に依りては、善導の『礼懺』の日中の時の礼を引けり。下巻は比丘善導の集記云云。」
彼の『懺儀』に依りて要文を鈔して云わく、「「二には深心。」(観経)即ち是れ真実の信心なり。自身は是れ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。今、弥陀の本弘誓願は、名号を称すること、下至十声聞等に及ぶまで、定んで往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで疑心有ること無し。故に「深心」と名づくと。乃至 其れ彼の弥陀仏の名号を聞くことを得ること有りて、歓喜して一心を至せば、皆、当に彼に生ずることを得べし」と。抄出
『往生要集』に云わく、「「入法界品」に言わく、「譬えば、人有りて不可壊の薬を得れば、一切の怨敵、其の便を得ざるが如し。菩薩摩訶薩も亦復是くの如し。菩提心不可壊の法薬を得れば、一切の煩悩・諸魔・怨敵、壊すること能わざる所なり。譬えば人有りて、住水宝珠を得て其の身に瓔珞とすれば、深き水中に入りて没溺せざるが如し。菩提心住水宝珠を得れば、生死海に入りて沈没せず。譬えば金剛は、百千劫に於いて水中に処して爛壊し亦異変無きが如し。菩提の心も亦復是くの如し。無量劫に於いて生死の中・諸の煩悩業に処するに、断滅すること能わず。亦損減無し」と。」已上
又云わく(往生要集)、「我、亦、彼の摂取の中に在れども、煩悩、眼を障えて見たてまつるに能わずと雖も、大悲、倦きこと無くして、常に我が身を照らしたまう」と。已上
爾れば、若しは行、若しは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまう所に非ざること有ること無し。因無くして他の因の有るには非ざるなりと知るべし。
問う。如来の本願、已に至心・信楽・欲生の誓を発したまえり。何を以ての故に、論主(天親)、「一心」と言うや。
答う。愚鈍の衆生、解了易からしめんが為に、弥陀如来、三心を発したまうと雖も、涅槃の真因は、唯、信心を以てす。是の故に論主、三を合して一と為したまえるか。
私に三心の字訓を闚うに、三即ち一なるべし。其の意、何んとなれば、「至心」と言うは、「至」は即ち是れ真なり、実なり、誠なり。「心」は即ち是れ種なり、実なり。
「信楽」と言うは、「信」は即ち是れ真なり、実なり、誠なり、満なり、極なり、成なり、用なり、重なり、審なり、験なり、宣なり、忠なり。
「楽」は即ち是れ欲なり、願なり、愛なり、悦なり、歓なり、喜なり、賀なり、慶なり。
「欲生」と言うは、「欲」は即ち是れ願なり、楽なり、覚なり、知なり。
「生」は即ち是れ成なり、作なり〔「作」の字 則羅の反。則落の反。蔵洛の反。為なり。起なり。行なり。役なり。始なり。生なり。〕、為なり、興なり。
明らかに知りぬ。「至心」即ち是れ真実誠種の心なるが故に、疑蓋、雑わること無きなり。「信楽」即ち是れ真実誠満の心なり、極成用重の心なり、審験宣忠の心なり、欲願愛悦の心なり、歓喜賀慶の心なるが故に、疑蓋、雑わること無きなり。「欲生」即ち是れ願楽覚知の心なり、成作為興の心なり、大悲回向の心なるが故に、疑蓋、雑わること無きなり。
(「信巻」続く)
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