【仏教用語/人物集 索引】

『教行信証』信巻05

投稿日:1224年1月1日 更新日:

 又、一切往生人等に白さく、今更に行者の為に一の譬喩〔「喩」の字 さとす。〕を説きて、信心を守護して、以て外邪異見の難を防がん。何者か是れや。譬えば、人有りて西に向かいて行かんと欲するに百千の里ならん。忽然として中路に二の河有り。一には是れ火の河、南に在り、二には是れ水の河、北に在り。二河各おの闊さ百歩、各おの深くして底無し。南北、辺無し。正しく水火の中間に一の白道有り。闊さ四五寸許りなるべし。此の道、東の岸より西の岸に至るに、亦長さ百歩、其の水の波浪、交わり過ぎて道を湿す。其の火焰〔「焰」 けむりあるなり。「炎」 けむりなきほのおなり。〕、亦来たりて道を焼く。水火、相交わりて、常にして休息無けん。此の人、既に空曠の迥かなる処に至るに、更に人物無し。多く群賊・悪獣有りて、此の人の単独なるを見て、競い来たりて此の人を殺せんと欲す。死を怖れて、直ちに走りて西に向かうに、忽然として此の大河を見て、即ち自ら念言すらく、「此の河、南北、辺畔を見ず。中間に一の白道を見る。極めて是れ狭少なり。二の岸、相去ること近しと雖も、何に由りてか行くべき。今日、定んで死せんこと疑わず。正しく到り回らんと欲すれば、群賊・悪獣、漸漸に来たり逼む。正しく南北に避り走らんと欲すれば、悪獣・毒虫、競い来たりて我に向かう。正しく西に向かいて道を尋ねて去かんと欲すれば、復た恐らくは、此の水火の二河に堕せんことを。」時に当たりて惶怖すること、復た言うべからず。即ち自ら思念すらく、「我、今回らば亦死せん、住まらば亦死せん、去かば亦死せん。一種として死を勉れざれば、我、寧く此の道を尋ねて、前に向かいて去かん。既に此の道有り。必ず度すべし」と。此の念を作す時、東の岸に忽ちに人の勧むる声を聞く。「仁者、但決定して此の道を尋ねて行け。必ず死の難無けん。若し住まらば即ち死せん」と。又、西の岸の上に人有りて喚ぼうて言わく、「汝、一心に正念にして直ちに来たれ。我、能く汝を護らん。衆て水火の難に堕することを畏れざれ」と。此の人、既に此に遣わし彼に喚ばうを聞きて、即ち自ら正しく身心に当たりて、決定して道を尋ねて直ちに進みて、疑怯退心を生ぜずして、或いは行くこと一分二分するに、東の岸の群賊等、喚ぼうて言わく、「仁者、回り来たれ。此の道、嶮悪なり。過ぐることを得じ。必ず死せんこと疑わず。我等衆て、悪心あって相向かうこと無し」と。此の人、喚ぶ声を聞くと雖も、亦回顧みず。一心に直ちに進みて、道を念じて行けば、須臾に即ち西の岸に到りて、永く諸難を離る。善友、相見えて慶楽すること已むこと無からんが如し。此れは是れ喩なり。

 次に喩〔「喩」の字 おしえなり。〕を合せば、「東岸」と言うは、即ち此の娑婆の火宅に喩うるなり。「西岸」と言うは、即ち極楽宝国に喩うるなり。「群賊・悪獣、詐り親しむ」と言うは、即ち衆生の六根・六識・六塵・五陰・四大に喩うるなり。「無人空迥の沢」と言うは、即ち常に悪友に随いて、真の善知識に値わざるに喩うるなり。「水火二河」と言うは、即ち衆生の貪愛は水の如し、瞋憎は火の如しと喩うるなり。「中間の白道四五寸」と言うは、即ち衆生の貪瞋煩悩の中に能く清浄願往生の心を生ぜしむるに喩うるなり。乃し貪瞋強きに由るが故に、即ち水火の如しと喩う。善心微なるが故に、白道の如しと喩う。又「水波、常に道を湿す」というは、即ち愛心、常に起こりて能く善心を染汚するに喩うるなり。又「火焰、常に道を焼く」というは、即ち瞋嫌の心、能く功徳の法財を焼くに喩うるなり。「人、道の上を行きて直ちに西に向かう」と言うは、即ち諸の行業を回して、直ちに西方に向かうに喩うるなり。「東の岸に、人の声、勧め遣わすを聞きて、道を尋ねて直ちに西に進む」と言うは、即ち釈迦、已に滅したまいて後の人、見たてまつらず。由、教法有りて尋ぬべきに喩う。即ち之を声の如しと喩うるなり。「或いは行くこと一分二分するに、群賊等、喚び回す」と言うは、即ち別解・別行・悪見の人等、妄説し見解をもって迭いに相惑乱し、及び自ら罪を造りて退失すと喩うるなり。「西の岸の上に、人有りて喚ばう」と言うは、即ち弥陀の願意に喩うるなり。「須臾に西の岸に到りて、善友、相見えて喜ぶ」と言うは、即ち衆生、久しく生死に沈みて、曠劫より淪回し迷倒して、自ら纏うて解脱に由無し。仰いで、釈迦発遣して指えて西方に向かえたまうことを蒙り、又、弥陀の悲心招喚したまうに藉りて、今、二尊の意に信順して、水火二河を顧みず、念念に遺るること無く、彼の願力の道に乗じて、捨命已後、彼の国に生ずることを得て、仏と相見えて慶喜すること、何ぞ極まらんと喩うるなり。

 又、一切の行者、行住座臥に、三業の所修、昼夜時節を問うこと無く、常に此の解を作し、常に此の想を作すが故に、「回向発願心」と名づく。又「回向」と言うは、彼の国に生じ已りて、還りて大悲を起こして、生死に回入して衆生を教化する、亦「回向」と名づくるなり。

 三心、既に具すれば、行として成ぜざる無し。願・行、既に成じて、若し生まれずは、是の処有ること無しと。又、此の三心、亦定善の義を通摂すと知るべし」と。已上

 又云わく(般舟讃)、「敬いて一切往生の知識等に白さく、大きに須く慙愧すべし。釈迦如来は、実に是れ慈悲の父母なり。種種の方便をして、我等が無上の信心を発起せしめたまえり」と。已上

(「信巻」続く)

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