【仏教用語/人物集 索引】

『教行信証』信巻04

投稿日:1224年1月1日 更新日:

 次下の文に云わく、「十方に各おの恒河砂等の諸仏有して、同じく「釈迦、能く五濁悪時・悪世界・悪衆生・悪見・悪煩悩・悪邪無信の盛りなる時に於いて、弥陀の名号を指讃して衆生を勧励せしめて、称念すれば必ず往生を得」と讃じたまう。」即ち其の証なり。

 又、十方仏等、衆生の、釈迦一仏の所説を信ぜざらんを恐畏れて、即ち共に同心・同時に、各おの舌相を出だして遍く三千世界に覆いて誠実の言を説きたまわく、「汝等衆生、皆、是の釈迦の所説・所賛・所証を信ずべし。」一切の凡夫、罪福の多少・時節の久近を問わず、但能く、上、百年を尽くし、下、一日・七日に至るまで、一心に弥陀の名号を専念して定んで往生を得ること、必ず疑無きなり。是の故に一仏の所説をば、即ち一切仏、同じく其の事を証誠したまうなり。此れを「人に就いて信を立つ」と名づくるなり。乃至

 又、此の正の中に就いて復た二種有り。一には、一心に弥陀の名号を専念して、行住座臥、時節の久近を問わず、念念に捨てざるは、是れを「正定の業」と名づく。彼の仏願に順ずるが故に。若し礼誦等に依るは、即ち名づけて「助業」とす。此の正・助二行を除きて已外の自余の諸の善は、悉く「雑行」と名づく。乃至 衆て「疎雑の行」と名づくるなり。故に「深心」と名づく。

 「三者回向発願心。」(観経)乃至 又、回向発願して生ずる者は、必ず決定して真実心の中に回向したまえる願を須いて得生の想を作せ。此の心、深信せること金剛の若くなるに由りて、一切の異見・異学・別解・別行の人等の為に動乱破壊せられず。唯是れ決定して一心に捉りて、正直に進みて彼の人の語を聞くことを得ざれ。即ち進退の心有りて怯弱を生じて回顧すれば、道に落ちて即ち往生の大益を失するなり。

 問うて曰わく、若し解行不同の邪雑の人等有りて、来たりて相惑乱して、或いは種種の疑難を説きて、「往生を得じ」と道い、或いは云わん、「汝等衆生、曠劫より已来、及以び今生の身口意業に、一切凡聖の身の上に於いて、具に十悪・五逆・四重・謗法・闡提・破戒・破見等の罪を造りて、未だ除尽すること能わず。然るに此れ等の罪は、三界悪道に繫属す。云何ぞ一生の修福念仏をして、即ち彼の無漏無生の国に入りて、永く不退の位を証悟することを得んや。」

 答えて曰わく、諸仏の教行、数、塵砂に越えたり。識を稟くる機縁、情に随いて一に非ず。譬えば世間の人、眼に見るべく信ずべきが如きは、明の能く闇を破し、空の能く有を含み、地の能く載養し、水の能く生潤し、火の能く成壊するが如し。此れ等の如きの事、悉く「待対の法」と名づく。即ち目に見つべし。千差万別なり。何に況んや仏法不思議の力、豈に種種の益無からんや。随いて一門を出ずるは、即ち一煩悩の門を出ずるなり。随いて一門に入るは、即ち一解脱智慧の門に入るなり。此れを為て〔「為」の字 定なり。用なり。彼なり。作なり。是なり。相なり。〕縁に随いて行を起こして、各おの解脱を求めよ。汝、何を以てか乃し将に有縁の要行に非ざるをもって我を障惑する。然るに我が所愛は即ち是れ我が有縁の行なり。即ち汝が所求に非ず。汝が所愛は即ち是れ汝が有縁の行なり。亦我が所求に非ず。是の故に各おの所楽に随いて其の行を修するは、必ず疾く解脱を得るなり。行者、当に知るべし。若し解を学ばんと欲わば、凡より聖に至るまで、乃至仏果まで、一切、碍無し。皆、学ぶことを得よとなり。若し行を学ばんと欲わば、必ず有縁の法に藉れ。少しき功労を用いるに、多く益を得ればなりと。

(「信巻」続く)

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