【仏教用語/人物集 索引】

『教行信証』行巻04

投稿日:1224年1月1日 更新日:

 『安楽集』に云わく、「『観仏三昧経』に云わく、「父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたまう。父の王、仏に白さく、「仏地の果徳、真如実相第一義空、何に因りてか弟子をして之を行ぜしめざる」と。

 仏、父王に告げたまわく、「諸仏の果徳、無量深妙の境界・神通解脱有す。是れ凡夫の所行の境界に非ざるが故に、父王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたてまつる」と。
 父王、仏に白さく、「念仏の功、其の状、云何ぞ」と。

 仏、父王に告げたまわく、「伊蘭林の方四十由旬ならんに、一科の牛頭栴檀有り。根芽有りと雖も、猶未だ土を出でざるに、其の伊蘭林、唯臭くして香ばしきこと無し。若し其の華菓を噉ずること有らば、狂を発して死せん。後の時に栴檀の根芽、漸漸く生長して、纔かに樹に成らんと欲す。香気昌盛にして、遂に能く此の林を改変して、普く皆香美ならしむ。衆生見る者、皆、希有の心を生ぜんが如し。」

 仏、父王に告げたまわく、「一切衆生、生死の中に在りて、念仏の心も亦復是くの如し。但能く念を繫けて止まざれば、定んで仏前に生ぜん。一たび往生を得れば、即ち能く一切諸悪を改変して大慈悲を成ぜんこと、彼の香樹の、伊蘭林を改むるが如し。」」言う所の「伊蘭林」は、衆生の身の内の三毒・三障・無辺の重罪に喩う。「栴檀」と言うは、衆生の念仏の心に喩う。「纔かに樹と成らんと欲す」というは、謂わく、一切衆生、但能く念を積みて断えざれば、業道成弁するなり。

 問うて曰わく、一衆生の念仏の功を計して、亦一切知るべし。何に因りてか一念の功力、能く一切の諸障を断ずること、一の香樹の、四十由旬の伊蘭林を改めて、悉く香美ならしむるが如くならんや。

 答えて曰わく、諸部の大乗に依りて念仏三昧の功能の不可思議なるを顕さんとなり。何とならば、『華厳経』に云うが如し。「譬えば人有りて、師子の筋を用て、以て琴の絃とせんに、音声一たび奏するに、一切の余の絃、悉く皆断壊するが如し。若し人、菩提心の中に念仏三昧を行ずれば、一切の煩悩・一切の諸障、悉く皆断滅すと。亦人有りて、牛・羊・驢・馬一切諸乳を搆し取りて一器の中に置かんに、若し師子の乳一渧を将て之を投ずるに、直ちに過ぎて難無し。一切の諸乳、悉く皆破壊して、変じて清水と為るが如し。若し人、但能く菩提心の中に念仏三昧を行ずれば、一切の悪魔・諸障、直ちに過ぐるに難無し。」

 又彼の『経』(華厳経)に云わく、「譬えば人有りて、翳身薬を持ちて処処に遊行するに、一切の余行、是の人を見ざるが如し。若し能く菩提心の中に念仏三昧を行ずれば、一切の悪神・一切の諸障、是の人を見ず。諸の処処に随いて、能く遮障すること無きなり。何が故ぞとならば、能く此の念仏三昧を念ずるは、即ち是れ一切三昧の中の王なるが故なり」と。」

 又云わく(安楽集)、「『摩訶衍』(大智度論)の中に説きて云うが如し。「諸余の三昧、三昧ならざるには非ず。何を以ての故に。或いは三昧有り、但能く貪を除いて瞋痴を除くこと能わず。或いは三昧有り、但能く瞋を除いて痴貪を除くこと能わず。或いは三昧有り、但能く痴を除いて瞋を除くこと能わず。或いは三昧有り、但能く現在の障を除いて過去・未来の一切諸障を除くこと能わず。若し能く常に念仏三昧を修すれば、現在・過去・未来の一切諸障を問うこと無く、皆除くなり。」」

 又云わく(安楽集)、「『大経の賛』(讃阿弥陀仏偈)に云わく、「若し阿弥陀の徳号を聞きて、歓喜賛仰し、心、帰依すれば、下、一念に至るまで大利を得。則ち功徳の宝を具足すとす。設い大千世界に満てらん火をも、亦直ちに過ぎて仏の名を聞くべし。阿弥陀を聞かば復た退せず。是の故に心を至して稽首し礼したてまつる」と。」

 又云わく(安楽集)、「又『目連所問経』の如し。「仏、目連に告げたまわく、「譬えば万川長流に草木有りて、前は後を顧みず、後は前を顧みず、都て大海に会するが如し。世間も亦爾なり。豪貴富楽自在なること有りと雖も、悉く生老病死を勉るることを得ず。只、仏経を信ぜざるに由りて、後世に人と為りて更に甚だ困劇して、千仏の国土に生まるることを得ること能わず。是の故に我説かく、無量寿仏国は往き易く取り易くして、人、修行して往生すること能わず。反って九十五種の邪道に事う。我、是の人を説きて「眼無き人」と名づく、「耳無き人」と名づく」と。」経教、既に爾なり。何ぞ難を捨てて易行道に依らざらん」と。已上

 光明寺の和尚(善導)の云わく(往生礼讃)、「又『文殊般若』に云うが如し。「一行三昧を明かさんと欲う。唯勧めて独り空閑に処して諸の乱意を捨て、心を一仏に係けて、相貌を観ぜず専ら名字を称すれば、即ち念の中に於いて彼の阿弥陀仏及び一切仏等を見ることを得」といえり。

 問うて曰わく、何が故ぞ観を作さしめずして直ちに専ら名字を称せしむるは、何意か有るや。
 答えて曰わく、乃し衆生、障重くして、境は細なり、心は麁なり。識颺り神飛びて、観、成就し難きに由りてなり。是を以て大聖悲憐して、直ちに勧めて専ら名字を称せしむ。正しく称名易きに由るが故に、相続して即ち生ずと。〔「由」の字 以周の反。行なり。経なり。従なり。用なり。〕

 問うて曰わく、既に専ら一仏を称せしむるに、何が故ぞ境、現ずること即ち多き。此れ豈に邪正相交り、一多雑現するに非ずや。
 答えて曰わく、仏と仏と斉しく証して、形、二の別無し。縦使い一を念じて多を見ること、何の大道理にか乖かんや。

 又『観経』に云うが如し。「勧めて座観・礼念等を行ぜしむ。皆須く面を西方に向かうは最勝なるべし。」樹の先より傾けるが倒るるに、必ず曲れるに随うが如し。故に必ず事の碍有りて西方に向かうに及ばずは、但、西に向かう想を作す、亦得たり。

 問うて曰わく、一切諸仏、三身同じく証し、悲智果円かにして亦無二なるべし。方に随いて一仏を礼念し課称せんに、亦生を得べし。何が故ぞ偏に西方を嘆じて専ら礼念等を勧むる、何の義か有るや。

 答えて曰わく、諸仏の所証は平等にして是れ一なれども、若し願行を以て来たし取るに因縁無きに非ず。然るに弥陀世尊、本、深重の誓願を発して、光明名号を以て十方を摂化したまう。但、信心をして求念せしむれば、上、一形を尽くし、下、十声・一声等に至るまで、仏願力を以て往生を得易し。是の故に釈迦及以び諸仏、勧めて西方に向かうるを別異とすならくのみと。亦是れ余仏を称念して障を除き罪を滅すること能わざるには非ざるなりと知るべし。

 若し能く上の如く念念相続して畢命を期とする者は、十即十生、百即百生なり。何を以ての故に。外の雑縁無し。正念を得たるが故に。仏の本願と相応することを得るが故に。教に違せざるが故に。仏語に随順するが故なり」と。已上

 又云わく(往生礼讃)、「唯、念仏の衆生を観そなわして、摂取して捨てたまわざるが故に「阿弥陀」と名づく」と。已上

 又云わく(往生礼讃)、「弥陀の智願海は深広にして涯底無し。名を聞きて往生せんと欲えば、皆悉く彼の国に到ると。設い大千に満てらん火にも、直ちに過ぎて仏の名を聞け。名を聞きて歓喜し讃ずれば、皆、当に彼に生ずることを得べし。万年に三宝滅せんに、此の経、住すること百年せん。爾の時、聞きて一念せん。皆、当に彼に生ずることを得べし」と。抄要

 又云わく(往生礼讃)、「現に是れ生死の凡夫、罪障深重にして六道に輪回せり。苦、言うべからず。今、善知識に遇いて弥陀本願の名号を聞くことを得たり。一心称念して往生を求願せよと。願は仏の慈悲、本弘誓願を捨てたまわざれば、弟子を摂受したまうべし」と。已上

 又云わく(往生礼讃)、「問うて曰わく、阿弥陀仏を称念し礼観して、現世に何なる功徳利益か有るや。
 答えて曰わく、若し阿弥陀仏を称すること一声するに、即ち能く八十億劫の生死の重罪を除滅す。礼念已下も亦是くの如し。

(「行巻」続く)

▶ 次に進む

◀ 前に戻る

🏠 『教行信証』の最初に戻る

※このページは学問的な正確性を追求するものではありません。前知識のない一般の方でも「読んでみよう!」と思ってもらえるよう、より分かりやすく読み進めるために編集しています。漢字をひらがなに、旧字体を新字体に、送り仮名を現代表記に、( )にふりがなをつけるなど、原文に忠実ではない場合があります。

あなたに おすすめページ💡 戒名授与 1万円のみ(故人/生前/法名授与も)

<< 戻る

-仏教を本気で学ぶ, 年表
-



Copyright © 1993 - 2024 寺院センター All Rights Reserved.