【仏教用語/人物集 索引】

『教行信証』行巻05

投稿日:1224年1月1日 更新日:

 『十往生経』に云わく、「若し衆生有りて、阿弥陀仏を念じて往生を願ずれば、彼の仏、即ち二十五菩薩を遣わして行者を擁護して、若しは行、若しは座、若しは住、若しは臥、若しは昼、若しは夜、一切時・一切処に、悪鬼・悪神をして其の便を得しめざるなり。」

 又『観経』に云うが如し。「若し阿弥陀仏を称礼念して彼の国に往生せんと願えば、彼の仏、即ち無数の化仏、無数の化観音・勢至菩薩を遣わして、行者を護念したまう。復た前の二十五菩薩等と、百重千重、行者を囲遶して、行住座臥・一切時処、若しは昼、若しは夜を問わず、常に行者を離れたまわず。」今既に斯の勝益有す。憑むべし。願わくは諸の行者、各おの至心を須いて往くことを求めよ。

 又『無量寿経』に云うが如し。「若し我成仏せんに、十方の衆生、我が名号を称せん。下、十声に至るまで、若し生まれずは、正覚を取らじ」と。彼の仏、今現に在して成仏したまえり。当に知るべし、本誓重願、虚しからず、衆生称念すれば必ず往生を得と。

 又『弥陀経』に云うが如し。「「若し衆生有りて、阿弥陀仏を説くを聞きて、即ち名号を執持すべし。若しは一日、若しは二日、乃至七日、一心に仏を称して乱れざれ。命終らんと欲る時、阿弥陀仏、諸の聖衆と、現じて其の前に在さん。此の人、終らん時、心、顚倒せず、即ち彼の国に往生することを得ん。」仏、舎利弗に告げたまわく、「我、是の利を見るが故に、是の言を説く。若し衆生有りて、是の説を聞かん者は、当に願を発し彼の国に生まれんと願ずべし。」」

 次下に説きて云わく、「東方如恒河沙等の諸仏、南西北方及び上下、一一の方に如恒河沙等の諸仏、各おの本国にして其の舌相を出だして、遍く三千大千世界に覆いて誠実の言を説きたまわく、「汝等衆生、皆、是の一切諸仏の護念したまう所の経を信ずべし。」」云何が「護念」と名づくると。若し衆生有りて、阿弥陀仏を称念せんこと、若しは七日、一日・下至一声・乃至十声・一念等に及ぶまで、必ず往生を得と。此の事を証成せるが故に「護念経」と名づく。

 次下の文に云わく、「若し仏を称して往生する者は、常に六方恒河沙等の諸仏の為に護念せらる。故に「護念経」と名づく。」今既に此の増上の誓願有す。憑むべし。諸の仏子等、何ぞ意を励まして去らざらんや」と。智昇法師『集諸経礼懺儀』下巻は、善導和尚の『礼懺』なり。之に依る。

 又云わく(玄義分)、「「弘願」と言うは、『大経』の説の如し。一切善悪の凡夫、生を得るは、皆、阿弥陀仏の大願業力に乗じて〔「乗」の字 食陵の反。又宝証の反。駕なり。勝なり。登なり。守なり。覆なり。〕増上縁とせざるは莫きなり」と。

 又云わく(玄義分)、「「南無」と言うは、即ち是れ帰命なり、亦是れ発願回向の義なり。「阿弥陀仏」と言うは、即ち是れ其の行なり。斯の義を以ての故に、必ず往生を得」と。

 又云わく(観念法門)、「「摂生増上縁」と言うは、『無量寿経』の四十八願の中に説くが如し。仏の言わく、「若し我成仏せんに、十方の衆生、我が国に生まれんと願じて、我が名字を称すること、下、十声に至るまで、我が願力に乗じて、若し生まれずは、正覚を取らじ」と。此れ即ち是れ、往生を願ずる行人、命終らんと欲る時、願力摂して往生を得しむ。故に「摂生増上縁」と名づく。」

 又云わく(観念法門)、「善悪の凡夫、回心し起行して尽く往生を得しめんと欲す。此れ亦是れ証生増上縁なり」と。已上

 又云わく(般舟讃)、「門門不同にして八万四なり。無明と果と業因とを滅せん為の利剣は、即ち是れ弥陀の号なり。一声称念するに、罪皆除こると。微塵の故業と随智と滅す。覚えざるに〔「覚」の字 教の音。〕真如の門に転入す。娑婆長劫の難を免るることを得ることは、特に知識釈迦の恩を蒙れり。種種の思量巧方便をもって、選びて弥陀弘誓の門を得しめたまえり。」已上抄要

(「行巻」続く)

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