【仏教用語/人物集 索引】

『教行信証』行巻03

投稿日:1224年1月1日 更新日:

 『浄土論』に曰わく、「我、修多羅真実功徳相に依りて、願偈総持を説きて仏教と相応せりと。仏の本願力を観ずるに、遇うて空しく過ぐる者無し。能く速やかに功徳の大宝海を満足せしむ」と。

 又曰わく(論)、「菩薩は四種の門に入りて自利の行成就したまえりと知るべしと。菩薩は第五門に出でて回向利益他の行成就したまえりと知るべし。菩薩は是くの如く五門の行を修して、自利利他して速やかに阿耨多羅三藐三菩提を成就することを得たまえるが故に」と。抄出

 『論の註』に曰わく、「謹んで龍樹菩薩の『十住毘婆沙』を案ずるに云わく、「菩薩、阿毘跋致を求むるに二種の道有り。一には難行道、二には易行道なり。」「難行道」は、謂わく、五濁の世・無仏の時に於いて、阿毘跋致を求むるを難とす。此の難に乃し多くの途有り。粗、五三を言うて、以て義の意を示さん。一には外道の相 偱醤の反 善は菩薩の法を乱る。二には声聞は自利にして大慈悲を障う。三には無顧の悪人、他の勝徳を破す。四には顚倒の善果、能く梵行を壊す。五には唯是れ自力にして他力の持つ無し。斯れ等の如きの事、目に触るるに皆是れなり。譬えば陸路の歩行は則ち苦しきが如し。「易行道」は、謂わく、但、信仏の因縁を以て、浄土に生まれんと願ず。仏願力に乗じて便ち彼の清浄の土に往生することを得しむ。仏力住持して即ち大乗正定の聚に入る。正定即ち是れ阿毘跋致なり。譬えば水路に船に乗じて則ち楽しきが如し。

 此の『無量寿経優婆提舎』は、蓋し上衍〔「衍」の字 口且の反。楽なり。〕の極致・不退の風航〔「航」の字 ほなり。〕なる者なり。「無量寿」は、是れ安楽浄土の如来の別号なり。釈迦牟尼仏、王舎城及び舎衛国に在して、大衆の中にして無量寿仏の荘厳功徳を説きたまう。即ち仏の名号を以て経の体とす。後の聖者婆藪槃頭菩薩、如来大悲の教を服膺 一升の反 して、経に傍えて願生の偈を作れり」と。已上

 又云わく(論註)、「又、所願、軽からず。若し如来、威神を加せずは、将に何を以てか達せん。神力を乞加す。所以に仰いで告げたまえり。「我一心」(論)は、天親菩薩の自督の詞なり〔「督」の字 勧なり。率なり。正なり。俗は「舛の下に目の字」に作る。〕。言うこころは、無碍光如来を念じて安楽に生まれんと願ず。心心相続して他想間雑無し。乃至

 「帰命尽十方無碍光如来」(論)は、「帰命」は即ち是れ礼拝門なり。「尽十方無碍光如来」は即ち是れ讃嘆門なり。何を以てか知らん、「帰命」、是れ礼拝なりとは。龍樹菩薩、阿弥陀如来の讃を造れる中に、或いは「稽首礼」(易行品)と言い、或いは「我帰命」(同)と言い、或いは「帰命礼」(同)と言えり。此の『論』の長行の中に、亦「五念門を修す」(論)と言えり。五念門の中に礼拝は是れ一なり。天親菩薩、既に往生を願ず。豈に礼せざるべけんや。故に知りぬ、「帰命」即ち是れ礼拝なりと。然るに礼拝は但是れ恭敬にして、必ず帰命ならず。帰命は是れ礼拝なり。若し此れを以て推するに、帰命〔「命」の字 眉病の反。使なり。教なり。道なり。信なり。計なり。召なり。〕は重とす。

 偈は己心を申ぶ、宜しく「帰命」と言うべし。『論』に偈義を解するに、汎く礼拝を談ず。彼此相成す。義に於いて弥いよ顕れたり。
 何を以てか知らん、「尽十方無碍光如来」、是れ賛嘆門なりとは。下の長行の中に言わく、「云何が讃嘆する。謂わく、彼の如来の名を称す〔「称」の字 処陵の反。軽重を知るなり。『説文』に曰わく、「銓なり。」是なり。等なり。俗は「秤」に作る。斤両を正すを云うなり。昌孕の反。昌陵の反。〕。彼の如来の光明智相の如く、彼の名義の如く、実の如く修行し相応せんと欲うが故に」と。乃至 天親、今、「尽十方無碍光如来」と言えり。即ち是れ彼の如来の名に依りて彼の如来の光明智相の如く讃嘆するが故に、知りぬ、此の句は是れ賛嘆門なりとは。

 「願生安楽国」(論)は、此の一句は是れ作願門なり。天親菩薩、帰命の意なり。乃至
 問うて曰わく、大乗経論の中に処処に「衆生畢竟無生にして虚空の如し」と説けり。云何ぞ天親菩薩、「願生」と言うや。
 答えて曰わく、衆生無生にして虚空の如しと説くに二種有り。一には、凡夫の、実の衆生と謂う所の如く、凡夫の所見の実の生死の如し。此の所見の事、畢竟じて有らゆること無けん。亀毛の如し、虚空の如しと。二には、謂わく、諸法は因縁生の故に即ち是れ不生にして、有らゆること無きこと虚空の如しと。天親菩薩、願生する所は、是れ因縁の義なり。因縁の義なるが故に、仮に「生」と名づく。凡夫、実の衆生・実の生死有りと謂うが如きには非ざるなり。
 問うて曰わく、何の義に依りて往生と説くぞや。

 答えて曰わく、此の間の仮名の人の中に於いて、五念門を修せしむ。前念と後念と因と作る。穢土の仮名の人、浄土の仮名の人、決定して一を得ず、決定して異を得ず。前心・後心、亦是くの如し。何を以ての故に。若し一ならば則ち因果無けん。若し異ならば則ち相続に非ず。是の義、一異を観ずる門なり。『論』の中に委曲なり。第一行の三念門を釈し竟りぬと。乃至

 「我依修多羅 真実功徳相 説願偈総持 与仏教相応」(論)とのたまえりと。乃至 何れの所にか依る、何の故にか依る、云何が依ると。「何所依」は、修多羅に依るなり。「何故依」は、如来即ち真実功徳の相なるを以ての故に。「云何依」は、五念門を修して相応せるが故にと。乃至 「修多羅」は、十二部経の中の直説の者を「修多羅」と名づく。謂わく、四阿含三蔵等の外の大乗の諸経を、亦「修多羅」と名づく。此の中に「依修多羅」と言うは、是れ三蔵の外の大乗修多羅なり。阿含等の経には非ざるなり。

 「真実功徳相」は、二種の功徳有り。一には有漏の心より生じて法性に順ぜず。謂わゆる、凡夫人天の諸善・人天の果報、若しは因、若しは果、皆是れ顚倒す、皆是れ虚偽なり。是の故に「不実の功徳」と名づく。二には菩薩の智慧清浄の業より起こして仏事を荘厳す。法性に依りて清浄の相に入れり。是の法、顚倒せず、虚偽ならず。「真実の功徳」と名づく。云何が顚倒せざる。法性に依り二諦に順ずるが故に。云何が虚偽ならざる。衆生を摂して畢竟浄に入るが故なり。

 「説願偈総持 与仏教相応」は、「持」は不散不失に名づく。「総」は少を以て多を摂するに名づく。乃至 「願」は欲楽往生に名づく。乃至 「与仏教相応」は、譬えば函蓋相称するが如しと。乃至

 「云何が回向する。一切苦悩の衆生を捨てずして心に常に作願すらく、回向を首として大悲心を成就することを得たまえるが故に」(論)とのたまえり。回向に二種の相有り。一には往相、二には還相なり。往相は、己が功徳を以て一切衆生に回施して、作願して共に阿弥陀如来の安楽浄土に往生せしめたまえるなり」と。抄出

(「行巻」続く)

▶ 次に進む

◀ 前に戻る

🏠 『教行信証』の最初に戻る

※このページは学問的な正確性を追求するものではありません。前知識のない一般の方でも「読んでみよう!」と思ってもらえるよう、より分かりやすく読み進めるために編集しています。漢字をひらがなに、旧字体を新字体に、送り仮名を現代表記に、( )にふりがなをつけるなど、原文に忠実ではない場合があります。

あなたに おすすめページ💡 戒名授与 1万円のみ(故人/生前/法名授与も)

<< 戻る

-仏教を本気で学ぶ, 年表
-



Copyright © 1993 - 2024 寺院センター All Rights Reserved.