平安時代末期から鎌倉時代初期の天台宗の僧侶。歴史書『愚管抄』を記したことで知られます。諡号は慈鎮和尚、通称に吉水僧正、また『小倉百人一首』では前大僧正慈円と紹介されています。 父は摂政関白・藤原忠通、母は藤原仲光女加賀、摂政関白・九条兼実は同母兄にあたります。
幼くして青蓮院に入寺し、仁安2年(1167年)天台座主・明雲について受戒します。治承2年(1178年)に法性寺座主に任ぜられ、養和2年(1182年)に覚快法親王の没後、空席になった青蓮院を継ぎました。
建久3年(1192年)、38歳で天台座主になります。その後、慈円の天台座主就任は4度に及びました。吉田兼好の『徒然草』には、「一芸ある者なら身分の低い者でも召しかかえてかわいがった」とあります。
後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げようとしていた時には、西園寺公経と共に反対し、『愚管抄』もそれを諌めるために書かれたとされます。
その承久の乱(じょうきゅうのらん)によって後鳥羽上皇の配流と共に兼実の曾孫である仲恭天皇(道家の甥)が廃位されたことに衝撃を受け、鎌倉幕府を非難して仲恭帝復位を願う願文を納めています。 また、『門葉記』に採録された覚源(藤原定家の子)の日記には、没後に慈円が四条天皇を祟り殺したとする噂を記載しています。
天台座主としての法会や伽藍の整備のほか、政治的には兄・兼実の孫・九条道家の後見人を務めると共に、道家の子・藤原頼経が将軍として鎌倉に下向することに期待を寄せるなど、公武の協調を理想としました。
また、当時異端視されていた専修念仏の法然の教義を批判する一方で、その弾圧にも否定的で法然や弟子の親鸞を庇護しています。なお、親鸞は治承5年(1181年)9歳の時に慈円について得度を受けています。
歌人としても有名で家集に『拾玉集』があり、『千載和歌集』などに名が採り上げられています。『沙石集』巻五によると、慈円が西行に天台の真言を伝授してほしいと申し出たとき、西行は和歌の心得がなければ真言も得られないと答えました。そこで慈円は和歌を稽古してから再度伝授を願い出たといいます。
また、『井蛙抄』に残る逸話に、藤原為家に出家を思いとどまらせて藤原俊成・藤原定家の跡をますます興させるようにしたといいます。
『小倉百人一首』では、「おほけなく うきよのたみに おほふかな 我がたつそまに すみぞめのそで」の歌で知られます。
生誕 久寿2年4月15日(1155年5月17日)
命日 嘉禄元年9月25日(1225年10月28日)
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