【仏教用語/人物集 索引】

『法句経』ダンマパダ【 第25章 修行僧 】

投稿日:0202年5月30日 更新日:

360 眼について慎しむのは善い。耳について慎しむは善い。鼻について慎しむのは善い。舌について慎しむのは善い。

361 身について慎むのは善い。言葉について慎しむのは善い。心について慎しむのは善い。あらゆることについて慎しむのは善いことである。修行僧はあらゆる事柄について慎しみ、全ての苦しみから脱れる。

362 手をつつしみ、足をつつしみ、言葉をつつしみ、最高につつしみ、内心に楽しみ、心を安定統一し、ひとりで居て、満足している、その人を修行僧と呼ぶ。

363 口をつつしみ、思慮して語り、心が浮わつくことなく、事がらと真理とを明らかにする修行僧、彼の説くところは優しく甘美である。

364 真理を喜び、真理を楽しみ、真理をよく知り分けて、真理に従っている修行僧は、正しいことわりから堕落することがない。

365 托鉢によって自分の得たものを軽んじてはならない。他人の得たものをうらやむな。他人をうらやむ修行僧は心の安定を得ることが出来ない。

366 たとい得たものは少なくても、修行僧が自分の得たものを軽んずることが無いならば、怠ることなく清く生きるその人を、神々も称讃する。

367 名称と形態について「我がもの」という想いが全く存在しないで、何ものも無いからとて憂えることの無い人、彼こそ修行僧と呼ばれる。

368 仏の教えを喜び、慈しみに住する修行僧は、動く形成作用の静まった、安楽な、静けさの境地に到達するであろう。

369 修行僧よ。この舟(個人存在)から水(誤った思考)を汲み出せ。あなたが水を汲み出したならば、舟は軽やかにやすやすと進むであろう。貪りと怒りとを断ったならば、あなたはニルヴァーナに赴くであろう。

370 五つの束縛を断て。五つの束縛を捨てよ。さらに五つの働きを修めよ。五つの執著を超えた修行僧は、激流を渡った者と呼ばれる。

371 修行僧よ。瞑想せよ。なおざりになるな。あなたの心を欲情の対象に向けるな。なおざりのゆえに鉄丸を呑むな。灼熱した鉄丸で焼かれる時に、「これは苦しい!」といって泣き叫ぶな。

372 明らかな知慧の無い人には精神の安定統一が無い。精神が安定統一していない人には明らかな知慧が無い。精神の安定統一と明らかな知慧とがそなわっている人こそ、すでにニルヴァーナの近くにいる。

373 修行僧が人のいない空家に入って心を静め真理を正しく観ずるならば、人間を超えた楽しみがおこる。

374 個人存在を構成している諸要素の生起と消滅とを正しく理解するに従って、その不死のことわりを知り得た人々にとって喜びと悦楽なるものを、彼は体得する。

375 これは、この世において明らかな知慧のある修行僧の初めのつとめである。感官に気を配り、満足し、戒律をつつしみ行ない、怠らないで、淨らかに生きる善い友と付き合え。

376 その行ないが親切であれ。何ものでも分かち合え。善いことを実行せよ。そうすれば、喜びに満ち、苦悩を減するであろう。

377 修行僧らよ。ジャスミンの花が萎れた花びらを捨て落とすように、貪りと怒りとを捨て去れよ。

378 修行僧は、身も静か、言葉も静か、心も静かで、よく精神統一をなし、世俗の享楽物を吐き捨てたならば、安らぎに帰した人と呼ばれる。

379 みずから自分を励ませ。みずから自分を反省せよ。修行僧よ。自己を護り、正しいおもいを保てば、あなたは安楽に住するであろう。

380 実に自己は自分の主である。自己は自分の帰趨(よるべ)である。故に自分を整えよ。商人が良い馬を調教するように。

381 喜びにみちて仏の教えを喜ぶ修行僧は、動く形成作用の静まった、幸いな、安らぎの境地に達するであろう。

382 たとい年の若い修行僧でも、仏の道にいそしむならば、雲を離れた月のように、この世を照らす。

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※このページは学問的な正確性を追求するものではありません。前知識のない一般の方でも「読んでみよう!」と思ってもらえるよう、より分かりやすく読み進めるために編集しています。漢字をひらがなに、旧字体を新字体に、送り仮名を現代表記に、( )にふりがなをつけるなど、原文に忠実ではない場合があります。

なお、底本としてパーリ語経典の『ダンマパダ』を使用していますが、学問的な正確性を追求する場合、参考文献である『「ブッダの真理の言葉 感興の言葉」中村元訳 岩波文庫』を読むようおすすめします。なお、章題/節題は比較しやすいよう同じにしました。

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