【仏教用語/人物集 索引】

『伝光録』第三十三祖。大鑑禅師。

投稿日:2004年1月12日 更新日:

【本則】

第三十三祖。大鑑禅師。師在黄梅碓坊服労。大満禅師有時。夜間入碓坊示曰。米白也師曰。白あれ未有篩在。満以て杖打臼を参下す。師以箕米参簸入室。

【機縁】

師者姓盧氏。其先范陽人。父行瑫。武徳中左官于南海之新州。遂占籍止焉。喪父。其母守志鞠養。及て長に家尤貧窶師樵采以給。一日負薪至市中。聞客読金剛経。至応無所住而生其心と云に感悟。師問其客曰。此何経そ。得於何人客曰。此名金剛経。得黄梅忍大師。師遽告其母。以為法尋師之意。直抵韶州遇高行士劉志略。結為交友。尼無尽蔵即志略之姑也。常読涅槃経。師暫聴之。即為解説其義。尼遂執卷問字。師曰。字不識。義即請問。尼曰。字尚不識。曷能会義。師曰。諸仏妙理非関文字。尼驚異之。告郷里耆艾曰。能是有道人。宜請供養。於是居人競来瞻礼。近有宝林古寺旧地。衆議営緝。俾師居之。四衆如雲霧集。俄成宝坊。師一日忽自念曰。我求大法。豈可中道而止。明日遂行至昌楽縣西岩室間。遇智遠禅師。師遂請益。遠曰。観子神資爽拔殆非常人。吾聞西域菩提達磨伝心印于黄梅。汝当往彼参決。師辞去直造黄梅。参謁五祖大満禅師。祖問曰。自何来。師曰。嶺南。祖曰。欲須何事。師曰唯求作仏。祖曰。嶺南人無仏性。若為得仏。師曰。人即有南北。仏性豈然。祖知是異人。乃訶曰。著槽廠去。能礼足而退。便入碓坊。服労於杵臼之間。昼夜不息経八月。祖知付授時至。遂告衆曰。正法難解。不可徒記吾言持為己任。汝等各自随意述一偈。若語意冥符。則衣法皆附。時会下七百余僧上座神秀者。学通内外。衆所宗仰。咸共推称曰。若非尊秀疇敢当之。神秀竊聆衆譽。不復思惟。作偈成已数度欲呈。行至堂前。心中恍愡遍身汗流。擬呈不得。前後経四日。一十三度呈偈不得。秀乃思惟。不如向廊下書著。従他和尚看見。忽若道好。出礼拝云是秀作。若道不堪枉向山中数年。受人礼拝更修何道。是夜参更不使人知。自執灯書偈於南廊壁間呈心所見。偈曰。身是菩提樹。心如明鏡臺。時時勤払拭。勿使惹塵埃。祖経行忽見此偈。知是神秀所述。乃讃歎曰。後代依之修行亦得勝果。各令誦念。師在碓坊忽聆誦偈。乃問同学。是何章句。同学曰。汝不知和尚求法嗣。令各述心偈。此則秀上座所述。和尚深加歎賞。必将附法伝衣也。師曰。其偈云何。同学為誦。師良久曰。美則美矣。了則未了。同学訶曰。庸流何知。勿発狂言。師曰。子不信耶。願以一偈和之。同学不答。相視而笑。師至夜告一童子。引至廊下。師自秉燭令童子於秀偈之側写一偈。曰。菩提本非樹。明鏡亦非臺。本来無一物。何処惹塵埃。この偈をみて。一山の上下皆曰。是実に肉身の菩薩の偈なり。内外かまびそしく称す。祖これ盧能が偈なりと知りて。すなはち曰く。これたれかなせるぞ。未見性人なりといひて。すなはちかきけす。これによりて一衆悉くかへりみず。夜におよんて祖竊入碓坊。問曰。米白也未。師曰。白也。未有篩在。祖以杖打臼参下。師以箕米参簸入室。祖示曰。諸仏出世為一大事故。随機大小引導之。遂有十地参乗頓漸等旨。以為教門。然以無上微妙秘密円明真実正法眼蔵。附于上首大迦葉尊者。展転伝授二十八世。至達磨。屆于此土得可大師。承襲以至于吾。今以法宝及所伝袈裟用附於汝。善自保護無令断絶。師跪受衣法。啓曰。法則既受。衣附何人。祖曰。昔達磨初至。人未信。故伝衣以明得法。今信心已熟。衣乃争端。止於汝身不復伝也。且当遠隠俟時行化。所謂受衣人命如懸絲也。師曰。当隠何処。祖曰。逢懷即止。遇会且蔵。師礼足已捧衣而出。黄梅のふもとにわたしあり。祖みづからおくりてここにいたる。師揖曰。和尚すみやかにかへるべし。我すでに得道す。まさに自渡るべし。祖曰。汝すでに得道すといへども。われなをわたすべしといひて。みつから竿をとりて彼の岸にわたしおはり。祖独り寺に帰る。一衆みなしることなし。それより後五祖不上堂。衆きたりて咨問することあれば。わか道はゆきぬ。あるが問。師の衣法何人か得る。祖曰。能者ゑたり。於是衆議すらく。盧行者名能。尋訪するに既失。懸知彼得。すなはち共にはしり逐ふ。時に四品将軍発心して恵明といふありき。為衆人先。趁大庾嶺にして及師。師曰。此衣表信。可以力争耶。置其衣鉢於盤石上。而隠草間。恵明いたりてこれをあげんとするに。力を尽せども揚らず。時に恵明おほきにおののきて曰。我為法来る。不為衣来。師遂出坐盤石上。恵明作礼曰。望行者為我示法要。師曰。不思善不思悪。正与麼時。那箇是明上座本来面目。明言下大悟。復問曰。上来密語密意外。還更有密意否。師曰。与汝語者即非密也。汝若返照。密有汝辺。明曰。恵朗雖在黄梅。実未省自己面目。今蒙指示。如人飲水冷暖自知。今行者即恵明師也。師曰。汝若如是。吾与汝同師黄梅。明礼謝してかへる。後に出世せし時。恵明を改道明。避師上字。参ずるものあれば。悉く師に参ぜしむ。師は衣法伝受の後。四縣の猟師の中にかくれて。十年をへて後。至儀鳳元年丙子正月八日屆南海。遇印宗法師於法性寺講涅槃経。師寓止廊廡間。暴風颺刹旛。聞二僧対論。一曰旛動。一曰風動。往復酬答未会契理。師曰。可容俗流輒領高論否。直以風旛非動仁者心動耳。印宗竊聆此語。竦然異之。翌日邀師入室。徴風旛之義。師具以理告。印宗不覚起立曰。行者定非常人。師為是誰。師更無所隠。直舒得法因由。於是印宗執弟子之礼。請受禅要。乃告四衆曰。印宗具足凡夫。今遇肉身菩薩。即指座下盧居士曰。即此是也因請出所伝信衣。悉令瞻礼。至正月十五日。会諸名徳為之剃髮二月八日就法性寺智光律師受満分戒。其戒壇即宋朝求那跋陀三蔵之所置也。三蔵記曰。後当有肉身菩薩在此壇受戒。又梁末真諦三蔵於壇之側。手植二菩提樹謂衆曰。却後一百二十年有大開士。於此樹下演無上乗度無量衆。師具戒已。於此樹下開東山法門。宛如宿契。明年三月八日忽謂衆曰。吾不願此居。要帰旧隠。時印宗与緇白千余人送師帰宝林寺。韶州刺史韋拠請於大梵寺転妙法輪。并受無相心地戒。門人記録目為壇経盛行世。然返曹谿雨大法雨。覚者不下千数。寿七十六沐浴して坐化す。

【拈提】

すなはち瀉瓶の時に曰く。米白也未この米粒まさにこれ法王の霊苗。聖凡の命根。会て荒田にありてくさぎらざれども。をのづがら長ず。脱白露浄にして汚染をうけず。雖然如是尚簸ざることあり。もし簸来り簸去れば。内に通じ外に通ず。上にうごき下にうごく。臼を打つこと参下するに。米粒をのづからそろひて。心機たちまちにあらはる。米をひること参下して。祖風すなはち伝はる。爾しより打臼の夜未明。授手の日未曛。おもふに夫れ大師は嶺南の樵夫。碓房盧行者也。昔は斧伐を事として山中に遊歴し。遂ひに明窓下。古教照心の学解なかりしかども。なを一句の聞経に。無所住の心生じ。いま杵臼にたづさはりて。碓坊に勤労すといへども。かつて席末に参じて。参禅問道決擇なかりしかども。わづかに八け月の精勤に。明鏡非臺の心を照せしかば。夜半附授おこなはれ。列祖の命脈つたはる。必らずしも多年の功行によらざれども。ただ一旦精細を尽し来ることあきらけし。諸仏の成道もとより久近の時節をもてはかるべからず。祖師の伝道なんぞ古今の分域をもて弁ずることあらんや。しかも今夏九十日。横説竪説古今を批判し。麁言軟語仏祖を指注す。微にいり細にいり。二にをち参にをちて。宗風をけがし。家醜をあぐ。これによりて諸人悉く理を通ずとおもひ。力をえたりと思へり。然れども親切に未た祖意に冥符せざるがごとし。行状すべて先聖に相似ならず。宿縁多幸なるによりて如是相見す。もし一志に弁道せば。すべからく成弁すべきに。いまだ涯涘にいたらざるおをし。なを堂奧をうかがはざるあり。聖を去ること時遠く。道業いまだ成ぜず。身命たもちがたし。なんぞ後日を期せん。初秋夏末すでに或は東或は西の時節にあたれり。依旧彼に散じ。此に行ん。なんぞみだりに一言半句を記持して。わが這裏の法道といひ。わづかに一知半解を挙拈して。大乗門の運載とせんや。たとひ十分にその力をゑたりとも。家醜なを外に揚ん。なにいはんや妄称胡乱の説道をや。もし真実にこのところに精到せんとおもはば。昼夜いたづらにすてず。身心みだりにはこばざるべし。

【頒古】

打臼声高虚碧外。簸雲白月夜深清。

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