仏教を本気で学ぶ

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義淵の弟子玄昉が入唐

717年(養老元年) 入唐した義淵の弟子玄昉(げんぼう)も、ともに濮陽の智周に師事して法相宗を修め、帰国後これを広めた。なかでも玄昉は興福寺にあって当宗を興隆し、興福寺法相宗の基をきずき、興福寺伝または北伝と言われる。<< 戻る
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義浄(ぎじょう)

義浄は、唐(中国)の僧侶。671年、広州から海路でインドにおもむき、695年に約400部の仏教経典をもって海路で帰国しました。その翻訳のほか、旅行記『南海寄帰内法伝(なんかいききないほうでん)』と、インド求法僧(ぐほうそう)の伝記『大唐西域求法高僧伝(だいとうせいいきぐほうこうそうでん)』をのこしました。生誕 635年(貞観9年)命日 713年2月16日(先天2年1月17日)<< 戻る
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智鳳、智雄らが入唐

703年(大宝3年) 智鳳、智雄らが入唐して法相宗などを学ぶ。<< 戻る
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三論宗(大安寺流)が伝わる

701年(大宝元年)、道慈(智蔵の弟子)が三論宗(大安寺流)伝えました。三論宗はインドの龍樹の中論・十二門論、その弟子提婆の百論の三論を所依(基盤とする)の経典とする論宗(経を所依とせず、論を所依とする)です。空を唱える事から、空宗ともいわれます。その他、無相宗・中観宗・無相大乗宗の呼び方もあります。中国隋代に嘉祥大師吉蔵(549年 - 623年)が大成しました。吉蔵の『三論玄義』は三論宗の立場で書かれた仏教概論です。<< 戻る
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道昭(どうしょう)

道昭とは、玄奘三蔵が師であり、弟子に行基がいる河内国丹比郡船連(ふねのむらじ)(現・大阪府堺市)出身の法相宗の僧です。父は船恵尺。道紹や道照とも表記されます。出家して元興寺において戒行を修しました。白雉4年(653年)、遣唐使の一員として定恵らと共に入唐し、大慈恩寺の玄奘三蔵より法相宗の教えを受けました。また、玄奘の紹介で禅宗第二祖の慧可の孫弟子である隆化寺の慧満より禅の教えを授かったといわれています。斉明天皇6年(660年)頃に帰国し、同時に持ち帰った多くの経論・経典類は、天智1年 (661年) 元興寺の境内に禅院を建立し安置しました。日本における法相宗の初伝で、この法系を南寺伝と呼びます。...
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三論宗(空宗)が伝わる

天武天皇2年(673年)に僧正となった中国(呉)出身の智蔵(恵灌の弟子)は元興寺で恵灌に三論を学んだ後に入唐し、恵灌の師であり三論宗の大成者でもある吉蔵に直接師事して伝えた三論宗は、法隆寺の空宗とも呼ばれます。三論宗はインドの龍樹の中論・十二門論、その弟子提婆の百論の三論を所依(基盤とする)の経典とする論宗(経を所依とせず、論を所依とする)です。空を唱える事から、空宗ともいわれます。その他、無相宗・中観宗・無相大乗宗の呼び方もあります。中国隋代に嘉祥大師吉蔵(549年 - 623年)が大成しました。吉蔵の『三論玄義』は三論宗の立場で書かれた仏教概論です。<< 戻る
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玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)

玄奘三蔵とは、中国(唐)の訳経僧です。玄奘とは僧名で、また諱でもあります。僧の最高峰である「三蔵」の号を得た高僧で、初代三蔵の鳩羅摩什(くまらじゅう)と共に「二聖」、あるいは真諦と不空金剛を含めて「四大訳経家」とも呼ばれます。法師、三蔵などが付いているのは尊称です。現在の河南省に生まれ、俗名は陳褘(ちんき)、諡(おくりな)は大遍覚(だいへんがく)です。629年に陸路でインドに向かい、645年に経典657部や仏像などを持ち帰った旅が『大唐西域記』として残されています。法相宗の開祖です。10歳で父を亡くした玄奘は、次兄の長捷(陳素)が出家して浄土寺(洛陽)に住むようになり、自身も浄土寺に学び、11...
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倶舎宗が伝わる

元興寺禅院の開祖の道昭が661年に帰朝の際、倶舎論および注疏を招来したと考えられています。その後、倶舎宗という宗派が公的に制定されるのは、天平勝宝年間(749年~757年)の東大寺において大仏開眼供養にちなんで南都六宗の一つとして自宗関係の多数の経論を転読講説しています。奈良時代以後は元興寺(南寺)と興福寺(北寺)を中心とする法相宗の付宗として伝統が伝えられました。倶舎宗とは、世親の阿毘達磨倶舎論およびその注釈書を中心として諸経論を研究・講義し、師資相承する学僧たちのグループです。毘曇宗、抑舎宗、倶舎衆、薩婆多(さっばた)宗などとも呼ばれます。<< 戻る
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智通・智達等も法相宗を広める

658年(斉明天皇4年) 入唐した智通・智達等も法相宗を広めた。これらは同系統に属し、平城右京に元興寺が創建されると法相宗も移り、元興寺伝、南伝と言われた。<< 戻る
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道昭が入唐留学

653年(白雉4年) 道昭が入唐留学して玄奘に師事し、帰国後飛鳥法興寺で法相宗を広めた。<< 戻る
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蘇我馬子(そがのうまこ)

蘇我馬子とは、飛鳥時代の豪族。敏達天皇の下で大臣に就き、以降、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇の4代に仕え、54年に渡り権勢を振るい、蘇我氏の全盛時代を築きました。邸宅に島を浮かべた池があったことから嶋大臣とも呼ばれました。敏達天皇元年(572年)敏達天皇の即位時に大臣となりました。敏達天皇13年(584年)百済から来た鹿深臣が石像一体、佐伯連が仏像一体を持っていたのを馬子がもらい受け、司馬達等と池邊氷田を派遣して修行者を探させたところ、播磨国(一説によると赤穂郡矢野庄)で高句麗人の恵便という還俗者を見つけ出したという。馬子はこれを師として、司馬達等の娘の嶋を得度させて尼とし善信尼となし、更に善信...
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三論宗(元興寺流)が伝わる

625年(推古33年)に高句麗の僧の恵灌が三論宗(元興寺流)を伝えました。インドの龍樹の中論・十二門論、その弟子提婆の百論の三論を所依(基盤とする)の経典とする論宗(経を所依とせず、論を所依とする)です。空を唱える事から、空宗ともいわれます。その他、無相宗・中観宗・無相大乗宗の呼び方もあります。中国隋代に嘉祥大師吉蔵(549年 - 623年)が大成しました。吉蔵の『三論玄義』は三論宗の立場で書かれた仏教概論です。<< 戻る
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鞍作鳥(くらつくりのとり)

鞍作鳥とは、7世紀初はじめごろ、飛鳥時代の代表的な仏像彫刻師です。鞍作止利とも表記されます。渡来人で仏教をつたえたと言われる司馬達等(しばたっと)の孫で、止利仏師(とりぶっし)ともいわれ、聖徳太子に用いられました。その作風には北魏(ほくぎ・中国)の影響が見られます。代表作に法隆寺金堂の釈迦三尊像(623年)があります。<< 戻る
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聖徳太子(しょうとくたいし)

厩戸皇子(うまやどのみこ、うまやどのおうじ)、厩戸王(うまやとおう)とも呼ばれ、飛鳥時代の皇族・政治家。用明天皇の第二皇子、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女。「聖徳太子」は後世の尊称ないし諡号。推古天皇のもと、蘇我馬子と協力して政治を行い、国際的緊張のなかで遣隋使を派遣するなどして進んでいる中国の文化・制度を学び冠位十二階や十七条憲法を定めるなど大王(天皇)や王族が中心である中央集権国家体制の確立を図ったほか仏教や儒教を取り入れ神道と共に信仰し興隆に努めたと言われる。生誕 574年2月7日(敏達天皇3年1月1日)命日 622年4月8日(推古天皇30年2月22日)<< 戻る
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『三経義疏』(さんぎょうぎしょ)

『三経義疏』は聖徳太子によって著されたと伝承されている『法華義疏』(推古天皇23年(615年))・『勝鬘経義疏』(推古天皇19年(611年))・『維摩経義疏』(推古天皇21年(613年))の総称です。それぞれ『法華経』・『勝鬘経』・『維摩経』の三経の注釈書(義疏・注疏)です。<< 戻る
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『法華義疏』(ほっけぎしょ)

『法華義疏』は聖徳太子によって推古天皇23年(615年)に著されたと伝承されています。また、『三経義疏』(さんぎょうぎしょ)の一つです。<< 戻る
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『維摩経義疏』(ゆいまきょうぎしょ)

『維摩経義疏』は聖徳太子によって推古天皇21年(613年)に著されたと伝承されています。また、『三経義疏』(さんぎょうぎしょ)の一つです。<< 戻る
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『勝鬘経義疏』(しょうまんきょうぎしょ)

『勝鬘経義疏』は聖徳太子によって推古天皇19年(611年)に著されたと伝承されています。また、『三経義疏』(さんぎょうぎしょ)の一つです。<< 戻る
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十七条の憲法を定める

604年、十七条の憲法を定める。朝廷に仕える役人の心得。<< 戻る
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智顗(ちぎ)

智顗とは、中国の南北朝時代から隋にかけての僧侶。天台教学の大成者であり、天台宗の開祖ですが、慧文、慧思に次いで第三祖ともされています(龍樹を開祖とし慧文を第二、慧思を第三、智顗を第四祖とする場合もある)。天台大師、智者大師ともいいます。その晩年を杭州の南の天台山で過ごし、弟子の養成に努めたことから「天台大師」と諡(おくりな)され、またその教学は天台教学と称されました。これが天台宗の起源であり、智顗を高祖と唱えるのはこのためです。お釈迦様の説いた教えは、東南アジア、ガンダーラからヒマラヤを越えて中央アジアへと広まり、やがて中国へと伝わりました。多くの求法の僧により、数々の経典が中国に伝えられまし...
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仏教興隆の詔

594年、推古天皇が仏教を盛んにする詔を出す。これにより仏法僧の三宝を興隆させ、氏寺の建立が盛んになったといわれている。594年という年代は推古2年で、初めての女性天皇である推古天皇のもと、聖徳太子はその摂政(せっしょう)として、大臣の蘇我馬子らの協力により政治を行い、その中でも仏教興隆の詔を公式に出したことで、臣下たちは「各々君親の恩のため競ひて仏舎を造る」(『日本書紀』)ようになったと記録されている。飛鳥時代の仏教は、単なる個人救済を目的としたものではなく、国の君主であったり、家の長である親への報恩の誠を捧げて、国と家の繁栄を祈ることに重点があったと読み取れる。仏教興隆の詔は、三宝興隆の詔...
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厩戸王(聖徳太子)の誕生

574年、厩戸王(聖徳太子)の誕生。<< 戻る
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仏教伝来

552年、 百済から仏教が伝わる(538年の説もある)。<< 戻る
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梁の武帝、盂蘭盆斎を設ける

梁の武帝の大同4年(538年)に帝自ら同泰寺で盂蘭盆斎を設けたことが、1269年に南宋の志磐が編纂した『仏祖統紀』に書かれています。
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仏教伝来

538年、 百済から仏教が伝わる(552年の説もある)。<< 戻る
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菩提達磨大師(ぼだいだるまたいし)

お釈迦さまから28代目の祖師である菩提達磨大師は、西インドから中国に至り、大乗仏教をもたらしたインド人僧侶です。震旦初祖、円覚大師とも呼ばれ、達摩と表記される場合もあります。般若多羅尊者に就いて嗣法。弟子には慧可、道育、尼総持、道副がいます。達磨大師の伝記に関しては諸説ありますが、禅宗の伝統的な見解では、中国の梁の時代・普通8(527)年に南海より広州(広東省)に上陸し、梁の都・建康(南京)に来て、武帝(蕭衍)と問答を交わし、帝との機縁がかなわず北に渡り、洛陽(河南省)郊外の嵩山少林寺というところで面壁九年の坐禅を修行され、不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏の宗旨を標榜し、禅宗の初祖と仰が...
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『盂蘭盆経』(うらぼんきょう)

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ナーランダ/ナーランダ大学

ナーランダ大学とは、427年に建てられた世界最古の大学であったと考えられており、インド仏教の最重要拠点であった僧院です。5世紀初頭のインド、グプタ王朝のクマーラグプタ1世(シャークラ・ディティヤ王)が創建しました。ナーランダは「蓮のある場所」「知識の提供者」という意味です。それから12世紀ごろまで栄え、数千人の僧侶が学んでいたと伝えられ、多い時には1万人の学僧が集まったという記述もあります。現在はその一部が発掘、整備され公園になっています。また、ラージギル(王舎城)まで15km、ブッダガヤまで82kmほどという位置関係です。下の写真は、この地方出身と伝えられるブッダ十大弟子の1人であるサーリプ...
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『梵網経』(ぼんもうきょう)

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敦煌莫高窟

敦煌莫高窟(とんこうばっこうくつ)は、敦煌の町の南東方約20kmに4世紀中ごろから13世紀にかけて造営された仏教遺跡です。甘粛省敦煌市内の莫高窟と西千仏洞の総称で甘粛省にある敦煌石窟の代表でもあり、中国佛教の有名な3大石窟の一つです。730余の石窟があり,塑造仏(そぞうぶつ)・壁画などの仏教美術遺品のほか、無数の古写経典や古文書類が発見されています。東西文化交流史上、また中国仏教史上にも重要な存在です。<< 戻る
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『般若心経』(はんにゃしんぎょう)

『般若心経』は、正式には『般若波羅蜜多心経(はんにゃはらみったしんぎょう)』といい、さらに略して『心経(しんぎょう)』と呼ばれることもあります。サンスクリット語では、प्रज्ञापारमिताहृदय(Prajna-paramita-hṛdaya、プラジュニャーパーラミター・フリダヤ)で、現在一般的に広まっているのは玄奘三蔵が漢訳した『般若心経』(掲載のもの)です。成立年代や成立場所がはっきりしていないものの紀元後300年から400年の間にインド文化圏で成立したと考えられています。なお、現存するテキストで最古のものは、鳩摩羅什(くまらじゅう)が漢訳した『摩訶般若波羅蜜大明呪経』一巻で、402...
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『正法華経』

286年、『法華経』の梵語(サンスクリット語)を竺法護(中国・西晋時代の西域僧)が『正法華経』10巻26品に漢訳する。<< 戻る