仏教を本気で学ぶ

人物

スニーダ・バラモン

スニーダ・バラモンは『ブッダ最後の旅【第1章】4、パータリ村にて』内に登場します。マガダ国の大臣で、お釈迦様を食事に招待します。<< 戻る
人物

アンバパーリー

アンバパーリーは『ブッダ最後の旅【 第2章 】8、遊女アンバパーリー』内に登場し、ヴァイシャリに住むお釈迦様の女性の弟子(比丘尼)です。漢訳仏典には、菴摩羅、菴没羅などの音訳があり、㮈女、柰女、非浄護などの意訳も見られます。マンゴー林に捨てられた子であり、その番人に育てられたことから、「アンバパーリー」すなわち「マンゴー林の番人の子」と言われるようになりました。アンバパーリーは、遠くの町にまで名声が伝わるような遊女で、美貌と容姿、魅力に恵まれ、他にも踊りや歌、音楽も巧み、当然言い寄る客が引けを取らずとなって舞台等で莫大な稼ぎを得ていたそうです。お釈迦様に帰依し、みずからも出家し比丘尼となり、阿...
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今日のキジ

外がざわついている何の音だろうかと家の裏を見るとキジの若鳥が足りまわっていた母キジは警戒音を出している若鳥のオスはトサカが少し赤い大人になるともっと大きく主張する赤になる若鳥のオス二羽で追いかけっこ元気そうで何よりだ毎日どこかで稲の刈り取りそういう季節だキジも人のスケジュールによってその日の活動範囲を変えているのだろう毎日でも来てくれていいんだよそう心に思って窓を閉じた<< 戻る
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須臾(しゅゆ)

須臾とは、「しばらく」「少しの間」「瞬時」の意味を持ち、時間の単位を表します。『大毘婆沙論』『倶舎論』では、牟呼栗多(むこりった)と表記されています。それによると、1昼夜 = 30牟呼栗多(須臾)1牟呼栗多(須臾) = 30臘縛(ろうばく)『摩訶僧祇律』では、1昼夜 = 30須臾1須臾 = 20羅予(らよ)1昼夜とは24時間で、1440分 = 30須臾よって、1須臾は約48分を表します。ただし、上記は一例で、この単位が表す時間の程度には使われ方によって幅があります。<< 戻る
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風と草

風が強く吹くと草が揺れる風が草の存在を教えてくれる 草が大きく傾くと風が当たっている草が風の存在を教えてくれる 風が私に当たると私の隙間を縫って吹き抜ける風が私の存在を教えてくれる 草を私が引っこ抜くと私の力が草に伝わる草が私の存在を教えてくれる<< 戻る
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広い世界

草抜きをしていると足元の世界に気付く草刈り機だと人の目線だから足元の世界は見えないだろうしゃがんでいると彼らの生きざまを見ることが出来る草を抜いたのに驚いたミミズが出てくるあっちに行けばいいもののこっちに向かってきたりする草に付いていたのかバッタが急にとび出すあっちの草にお引越しこっちが気付いていなかっただけ砂利の間から出てきたクモが動き回る隠れるのが得意こっちに来ることはほとんどない草を抜いて持ち上がった石の下からアリの巣が出現タマゴを抱えて右往左往コウロギも鈴虫も足元の世界で共存している人のように壁をつくったり決まりごとを決めたりそんなことをしなくても共存しているその方が広い世界で住めるの...
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キジの子育て

裏の麦畑刈られる前はキジの子育てが見られた母キジがちょっと高いところから首を長くして子どもたちに気を配っている子育て前は窓を開けるとちょっとした物音で逃げて行ったのに子育て中は子どもたちを見守り動かないたまに父キジも合流していた父キジは物音がしたら子育て中でも逃げる子どもたちも中くらいになると結構足が速い麦が刈られた直後には食べに来ていたけれど暑くなると姿を見せなくなっていた今朝少し離れた刈り入れ前の稲穂が実る田圃の畦道に中くらいのキジがいた彼らかな元気な姿を見られてよかったよありがとう<< 戻る
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太陽と月との共演

すっかり草抜きの季節を謳歌している夕べ雨が降った湿り気を帯びた土は草が伸びるのを促す今朝は太陽が山から顔を出す前に白い月が西へと歩みを進めていた日は上り太陽と月との共演だ毎日が天体ショーなんだな確かに毎日が本番だどうでもいい日は存在しない<< 戻る
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思い通りにならない世界から

掃除や片付けを進んでやるようになると時々自分ばかりやっていると感じてしまう何で置きっぱなしなのかな何で拭いていないのかなそんな風にそれはきっと掃除に疲れているそんなときやめてしまおうと思うかもしれない自分の思いと他人との違いを感じたとき思い通りになっていないそのことそれを知れば十分だやめなくていい他人の手癖も包み込む自分が置いたときのように自分が濡らしたときのように自然と続きをはじめてみてもいいしそのまま任せてもいいどんなこともはじまりはここ終わりはそこというものは一人ひとり違っている掃除がはじまりの人もいれば掃除が終わりの人もいるそれさえも包み込む思い通りにならない世界からなるならないを包み...
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満月

夜食器の洗い物を終えると小さな窓の網戸越しに月が見えた満月だ網戸を開け妻を呼ぶ妻は子を呼ぶ山から上る満月はオレンジ色時間が経つにつれ輝きを増していくこの日の満月を誰が名づけたかハーベストムーンというらしい満月という方がしっくりくる満月だと感じた時にはそれしかない誰かに伝えるとき誰かと共有したいときはじめて満月という言葉になるそのものがはじめで情報は後からついてくる<< 戻る
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朝山の描線が美しく見えた台風が大陸に向かう風が雲を追いやったのだろう空と山の境界線いつもある境界線ここからは見えたり見えなかったり時間が経つとその線は姿を消した人が消したのならば苦情が来るだろう美しかったのにとそんな世の中だ苦言は人と人の間だけそんなもんだ自然には通用しない言ったって仕方ない人も自然の一部だ言ったって仕方ない美しいかどうかも自然にとっては構うもんじゃないそこにいつもそうやってある気付くか気づかないかはこっちの話<< 戻る
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自分をともしびとして

お釈迦様は最後の旅の途中このような言葉を残している自灯明法灯明自分をともしびとして仏法をともしびとして生きていく自分が照らさなければ仏法は見えない仏法を照らすことで自分の姿が見える必要だから見えてくるともしびで照らし合って生きていくきのうの私は誰かを照らしていましたか?明日の私は誰かを照らしていますか?今私は生きている<< 戻る
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他人の行動

他人の行動を変えることは難しいまずは他人を気にしないことそれでも一緒に住んでいたり一緒に働いていたり多くの時間多くの場所を共有していると否応なしに見えてくる自分ならこう動くけど他人のもの他人の行動に手を出せない見て見ぬふりでいいのか他人が気にしていないならそれでいいのかもしれない他人はそれがそのようにあるのに見ていない重要でないものになっているそれは動かせない事実だ自分が見えているものと他人が見えているものは違うだから他人の行動を変えることは難しい<< 戻る
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メダカ

メダカだよと言ってこどもが二匹持ってきた小さな魚図鑑で見比べ網目があるのが特徴と書いてある網目はあるけど胸びれの形はどうだろうと覗き込む懸命に優雅に泳いでいるメダカじゃないかもしれないじゃあ何なんだろう?細かく細かく特徴を見ていったら分類は人の勝手な型だと分かる形にはまるかどうか分からなければ分からないまま懸命に優雅に泳ぐ姿を愛でたい<< 戻る
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一呼吸

いつも元気にあいさつああなりたいないつも一言多いああはなりたくないなないたい自分もなりたくない自分も意識すれば探し出す無意識の内に見つけてしまう自分のも他人のもああはなりたくないなを積み重ねてもストレスがたまりそうああはなりたくないなを鏡に映してみればああなりたいな一呼吸置いて微笑みを<< 戻る
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太陽

太陽が顔を出すと辺りは暖かく輝き出す顔を出すのを待っていたわけではないけれどその方向へ身心を向ける光に包まれ今日を開いていく<< 戻る
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来客とお経

夏のある日お寺の呼び鈴がなる弟子が出ると名乗った上でよろしくお願いしますとだけ言われお布施を差し出されるお師匠さんに来客を告げると顔だけだしお墓の前でお経を読んできなさいと弟子に言う急いで衣を整え携帯用の木魚と鈴を手に持ち境内墓地へあるお墓の前で般若心経を読む読経と回向が終わると来客が般若心経を読み始めたお師匠さんの読み方とも違いCDか何かを再生しているようなそのような印象で横で聞いていて上手いなと感じつつ気まずい気持ちの方が大きかっただろう後でお師匠さんに聞くと交通事故のその相手のお墓だったのだ毎年命日にお参りに来るとのことそういうことは先に言ってほしいとは弟子はお師匠さんに言えない聞いてい...
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掃除

掃除をしていると自分の内面も掃除される台所の洗い物が終わると水が飛び散っている布巾でそれを拭くシンクであってもタイルであっても拭いておけば水垢は残らないそれどころか輝いて見える大切にしたいものは濡れたままにせず拭き取るこれで元通り輝いて見えるのは自分の内面にも大切にしたいものを置いているから拭いて磨いて手を掛ければ大切なものが大切なままでいられる大切なものがよく見えるようになる片づければ良いという訳ではないそんな掃除をしていると自分の内面も掃除される<< 戻る
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砂利

玄関を出ると直径3センチほどの砂利が敷き詰めてあるこの家を建てた人が良かれと思って敷いたものだ砂利の隙間を縫って草が芽生える部活で運動場を慣らすトンボがあれば禅寺の枯山水気分で砂利を扱えたかもしれない毎日砂利を慣らせば草は生えないだろうかそう思うのも毎日の車の出し入れでロードローラーで固めるがごとく砂利が目的通りに機能していないからだ草にとっても砂利は力強い相棒だ砂利と砂利の間にしっかりと根を張ることで種を確実に増やしているそれを横目に草を抜きながら釜で砂利を掘り返す地表に砂利として姿を現す砂利は敵か味方か今は味方でいてもらおう<< 戻る
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水切りかごに入っているもの

水切りかごにはコップお皿茶碗汁椀箸スプーン割れやすいものなら丁寧に扱ってそうでもないスプーンなら磨くように強くものによって扱い方は違うこれが誰のものかによって扱い方が変わるのが人例えば私のものなら丁寧に他人のものなら雑にその逆も然り人の判断は時にものの生命を奪う人もものもその時、その時めい一杯の姿を見せている<< 戻る
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日本語

日本語で読む、見る、考える同じものを見ても外国語で考えるのと日本語で考えるのと印象が変わるパンデミックと言うのか大流行と言うのかその言葉を伝えることでわかることがありわからないこともあり多くの人に伝えたいのなら新しい言葉より昔からある言葉長い時間をかけて言葉は定着していく急に新しいカタカナ語を並べられても分からない人は多い分かる人は分からない人を低く見る自分が高くいたいそのために使う急に世間に知らされた新型コロナの大流行パンデミックという言葉は不安をあおっていた知識人のあおり運転だもっと危険なことがあるカタカナ語で満足して日本語にしていない思考停止だ知識人の思考停止矛盾<< 戻る
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足元の世界

草抜きに果てはない日向での草抜きは避けている熱中症を避けるそれと同時に家族や近所の人に心配されるからだお互い気を付けたい砂利にも大小あるが砂利が敷いてあるからといって草が生えない訳ではない調子に乗ってポンポン抜いていると根が強く張っているもの根から取れずに葉だけ取れるもの草と言っても多種多様だ腰をかがめ普段とは違う足元の世界を覗き見る草だけ見ている訳ではない葉や砂利の陰に隠れている虫がいる草抜きをするものだから虫も引越しを余儀なくされるクモコガネムシバッタコオロギミミズ名も知らぬ虫たちお互い大変だ<< 戻る
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自分のもの

お金なら江戸時代の寛永通宝だって残っているこのお金は誰のものですか幕府や政府が発行したもの持ち主のものとも言えるこの身心は誰のものですか父母の縁によるものでも自分で管理しなければいけないもの人の細胞は何年かで全部入れ替わるこの身心は自分のものだと言ったところで何年かしたら別物になっているもっと芯があって本質があって変わらないものがあってそんな自分がどこかにあるようなそんな気がするけれどこれが自分ですそんなものは出しようがない食べて飲んで必要がなくなったら出して流してしまう変わっていく身心自分の細胞すら自分のものにできない勝手にできて勝手になくなるこの身心のなかに自分という点がどこかにあるのだろ...
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知っているということは 最強だ

知らないことがあれば誰かに助けてもらおう世の中には様々な仕事があるではないか水回りの不具合で水道屋さんに来てもらった自分で微調整している時には分からなかったこと蛇口の締りを調整する場所カッターの先でふたを開けトイレのタンクを調整する場所回す場所は長年使っていなかったら硬くなる調整する場所は見えていても素人は無理に回すと危なそうだと感じるものプロがやれば怖くないそれをいとも簡単にやってのける職人だ知っているということは最強だ無明に捕らわれていてはいけない知らないことがあれば誰かに助けてもらおう誰かが困っていたらあなたが助けてあげようきっと人はそうやって生命をつないできた<< 戻る
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灯台下暗し

トイレと洗面台の水回りの具合が悪いかれこれ半年くらいは調子が悪かったのだ微調整でだましだましやってきたついに業者に見てもらうことに今日見に来るという連絡が急いでトイレ掃除洗面台の片づけ収納スペースの物出しすると日頃から水回りの掃除はしていたものの下から見て横から見て斜めから見てようやく見えてくるものがある汚れが良く見える普段の自分の視点とは違う灯台下暗し盲点掃除出来てると思ってたのになまだまだ甘かった<< 戻る
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共有スペースをだらしなく使う人がいたら

他人を変えるより自分が変わった方が早いけれど例えば共有スペースをだらしなく使う人がいるとする指摘すると上手くいく場合とそうでない場合があるだろう大抵は後者だ返事だけして何もしないということも含まれるだからといって自分で片づけてしまえば何故かそれが自分の役割になってしまうことがあるそれで良いと思えばそれでいいのかもしれないがなんだかもやもやする人は見たいものだけを見ているらしい見たくないもの部屋が片付いていないことだらしなく使っていることそんなことに興味がなければ見えていないその人は見えていないのだ気になるなら自分で動くしかない 自分だけが自分のあるじである他人がどうしてあるじになることが出来る...
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草抜き

やらなければならないと思うと向き合えないものそれが、草抜きである最近は草刈り機で刈り揃えれば満足の人も多いだろうしかし、草の根は強い雨が降ればあれよあれよと草の根から葉が空を目指し始める私は断然草抜き派だ朝起きて余裕があれば草抜きに向かう禅僧が早朝に黙々と坐禅を組むように山から登る太陽が一日を開いていくどこからかお寺の鐘も聴こえてくる古に叩いた鐘のように草抜きは生命の結び目であるそこに宇宙が現状している<< 戻る
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リンリンリン♪ リンリンリンリン♬

鈴虫が外で鳴いている日中も、夜中もリンリン♬ と鳴いているようだけど鈴虫の鳴き声だと意識した時にしか聴こえてこない本当は聴こえているんだけど、夢のように忘れるのかな人は無意識のうち、その時に大事な音を選んでいるリンリン♬ という音も鈴虫にとっては生命をつなぐ大事なメッセージ頭ではそれは分かるけれど意識してリンリン♬ が聴こえないというより無意識の内に音は選ばれているなんだかすごいセンサーだ音のフィルターと言えばいいのかな無意識的にも意識的にも順番があるのかもしれない重要度の順番が音、香り、味、体感、見え方1番、2番、3番と厳密に順番があるのかないのかそんなことは考えなくていいその時々でこの身心...
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心の支えになってくれたもの

人の気持ちというのは変わりやすいものだ。映画を見て感動してやる気が出たのだが、その気持ちは続かない。これは私に限ったことではないらしい。人間の脳というのは常に何らかの信号を出している。赤は止まれ、青は進め、黄色は?3色の交通信号ならまだ分かりやすいのだが、人間の信号は不意打ちも多い。心は変わるもの。そんなことは分かっている。そう言えば、記憶も変わるらしい。案外、都合よく憶えているものだと思った。お寺では祈願や祈祷というものがある。太鼓の音、読経、護摩を焚いて煙モクモクということも。だが、新型コロナの流行でお寺の行事も自粛か敬遠する人が多い。ネットで家内安全や心願成就の祈願を依頼することが出来る...
人物

板橋興宗(いたばしこうしゅう)

曹洞宗の僧侶。閑月即眞禅師。大本山總持寺独住23世(貫首)。曹洞宗管長、總持寺祖院住職、大乗寺山主、御誕生寺住職を歴任。宮城県多賀城市出身。1927年(昭和2年)、宮城県多賀城市の農家の長男として生まれる。海軍による買い上げに遭い、塩竈市に移住し、旧制仙台第一中学校を経て、1944年(昭和19年)に海軍兵学校76期舞鶴分校機関科に入校。第二次世界大戦の敗戦後、栄養失調により肋膜炎で入院する。退院後、仙台工業専門学校に入るも退学し、1949年(昭和24年)に新制東北大学文学部宗教学科に第1期生として進学、石津照璽に師事。在学中に同級生の片野達郎(後に、東北大学名誉教授)の勧めで仙台市の輪王寺に下...
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「正法眼蔵」三界唯心(さんがいゆいしん)

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四聖句(しせいく)

四聖句(しせいく)とは、インドから中国へ禅宗を伝えた菩提達磨大師がお亡くなりになった後に中国の宋時代に禅宗で「達磨の四聖句」として定められたと伝えられています。禅とは、経典の言句によるのではなく、自身の体験によって経典の心を直に悟るものであると考えられています。それを分かりやすく表現されたものが、菩提達磨大師が残されたと言われる不立文字・教外別伝・直指人心・見性成仏の四聖句です。▶ 菩提達磨大師<< 戻る