【仏教用語/人物集 索引】

「正法眼蔵」三界唯心(さんがいゆいしん)

投稿日:2020年7月1日 更新日:

釈迦大師道、
三界唯一心、心外無別法。
心仏及衆生、是三無差別。

一句の道著は一代の挙力なり、一代の挙力は尽力の全挙なり。たとひ強為の為なりとも、云為の為なるべし。このゆゑに、いま如来道の三界唯心は、全如来の全現成なり。全一代は全一句なり、三界は全界なり。

三界はすなはち心といふにあらず。そのゆゑは、三界はいく玲瓏八面も、なほ三界なり。三界にあらざらんと誤著すといふとも、不著なり。内外中間、初中後際、みな三界なり。三界は三界の所見のごとし。三界にあらざるものの所見は、三界を見不正なり。三界には三界の所見を旧窠とし、三界の所見を新条とす。旧窠也三界見、新条也三界見なり。このゆゑに、

釈迦大師道、不如三界、見於三界。
この所見、すなはち三界なり、この三界は所見のごとくなり。三界は本有にあらず、三界は今有にあらず。三界は新成にあらず、三界は因縁生にあらず。三界は初中後にあらず。出離三界あり、今此三界あり。これ機関の機関と相見するなり、葛藤の葛藤を生長するなり。

今此三界は、三界の所見なり。いはゆる所見は、見於三界なり。見於三界は、見成三界なり、三界見成なり、見成公案なり。よく三界をして発心修行菩提涅槃ならしむ。これすなはち皆是我有なり。このゆゑに、

釈迦大師道、今此三界、皆是我有、其中衆生、悉是吾子。
いまこの三界は、如来の我有なるがゆゑに、尽界みな三界なり。三界は尽界なるがゆゑに、今此は過現当来なり。過現当来の現成は、今此を罣礙せざるなり。今此の現成は、過現当来を罜礙するなり。

我有は、尽十方界真実人体なり、尽十方界沙門一隻眼なり。衆生は尽十方界真実体なり。一々衆生の生衆なるゆゑに衆生なり。

悉是吾子は、子也全機現の道理なり。しかあれども、吾子ならず身体髪膚を慈父にうけて、毀破せず、虧闕せざるを、子現成とす。而今は父前子後にあらず、子先父後にあらず。父子あひならべるにあらざるを吾子の道理といふなり。

与授にあらざれどもこれをうく、奪取にあらざれどもこれをえたり。去来の相にあらず、大小の量にあらず、老少の論にあらず、老少を仏祖老少のごとく保任すべし。父少子老あり、父老子少あり。父老子老あり、父少子少あり。ちちの老を学するは子にあらず、子の少をへざらんはちちにあらざらん。子の老少と、父の老少と、かならず審細に功夫参究すべし、倉卒なるべからず。

父子同時に生現する父子あり、父子同時に現滅する父子あり。父子不同時に現生する父子あり、父子不同時に現滅する父子あり。慈父を罣礙せざれども吾子と現成せり、吾子を罜礙せずして慈父現成せり。有心衆生あり、無心衆生あり。有心吾子あり、無心吾子あり。

かくのごとく、吾子、子吾、ことごとく釈迦慈父の令嗣なり。十方尽界にあらゆる過現当来の諸衆生は、十方尽界の過現当の諸仏なり。諸仏の吾子は衆生なり、衆生の慈父は諸仏なり。しかあればすなはち、百草の花果は諸仏の我有なり、巖石の大小は諸仏の我有なり。安処は林野なり、林野は已離なり。

しかもかくのごとくなりといふとも、如来道の宗旨は吾子の道のみなり、其父の道いまだあらざるなり、参究すべし。

釈迦牟尼仏道、諸仏応化法身、亦不出三界。三界外無衆生、仏何所化。是故我言、三界外別有一衆生界蔵者、外道大有経中説、非七仏之所説(諸仏応化の法身も、また三界を出でず。三界の外に衆生無し、仏何の化する所かあらん。是の故に我れ言ふ、三界の外に別に一衆生界蔵有りといふは、外道大有経中の説なり、七仏の所説に非ずと)。

あきらかに参究すべし、諸仏応化法身は、みなこれ三界なり、無外なり。たとへば如来の無外なるがごとし、牆壁の無外なるがごとし。三界の無外なるがごとく、衆生無外なり。無衆生のところ、仏何所化なり。仏所化はかならず衆生なり。

しるべし、三界外に一衆生界蔵を有せしむるは、外道大有経なり、七仏経にあらざるなり。唯心は一二にあらず、三界にあらず。出三界にあらず、無有錯謬なり。有慮知念覚なり、無慮知念覚なり。牆壁瓦礫なり、山河大地なり。心これ皮肉骨髓なり、心これ拈花破顔なり。有心あり、無心あり。有身の心あり、無身の心あり。身先の心あり、身後の心あり。

身を生ずるに胎卵湿化の種品あり、心を生ずるに胎卵湿化の種品あり。青黄赤白これ心なり、長短方円これ心なり。生死去来これ心なり、年月日時これ心なり。夢幻空花これ心なり、水沫泡焔これ心なり。春花秋月これ心なり、造次顛沛これ心なり。しかあれども毀破すべからず、かるがゆゑに諸法実相心なり、唯仏与仏心なり。

玄沙院宗一大師、問地蔵院真応大師云(玄沙院宗一大師、地蔵院真応大師に問うて云く)、三界唯心、汝作麼生会。
真応指椅子曰、和尚喚遮箇作什麼(真応、椅子を指して曰く、和尚遮箇を喚んで什麼とか作す)。
大師云、椅子。
真応曰、和尚不会三界唯心(和尚三界唯心を会せず)。
大師云、我喚遮箇作竹木、汝喚作什麼(我れ遮箇を喚んで竹木と作す、汝喚んで什麼とか作す)。
真応曰、桂琛亦喚作竹木(桂琛も亦た喚んで竹木と作す)。
大師云、尽大地覓一箇会仏法人不可得(尽大地一箇の会仏法人を覓むるに不可得なり)。

いま大師の問取する三界唯心、汝作麼生会は、作麼生会、未作麼生会、おなじく三界唯心なり。このゆゑに未三界唯心なるべし。

真応このゆゑに椅子をさしていはく、和尚喚遮箇作什麼。しるべし、汝作麼生会は、喚遮箇作什麼なり。

大師道の椅子は、且道すべし、これ会三界語なりや、不会三界語なりや。三界語なりや、非三界語なりや。椅子道なりや、大師道なりや。かくのごとく試道看の道究すべし。試会看の会取あり、試参看の参究あるべし。

真応いはく、和尚不会三界唯心。
この道、たとへば道趙州するなかの東門南門なりといへども、さらに西門北門あるべし。さらに東趙州南趙州あり。たとひ会三界唯心ありとも、さらに不会三界唯心を参究すべきなり。さらにまた会不会にあらざる三界唯心あり。

大師道、我喚遮箇作竹木。
この道取、かならず声前句後に光前絶後の節目を参徹すべし。いはゆる我喚遮箇作竹木、いまの喚作よりさきは、いかなる喚作なりとかせん。従来の八面玲瓏に、初中後ともに竹木なりとやせん。いまの喚作竹木は、道三界唯心なりとやせん、不道三界唯心なりとやせん。しるべし、あしたに三界唯心を道取するには、たとひ椅子なりとも、たとひ唯心なりとも、たとひ三界なりとも、ゆふべに三界唯心を道取するには、我喚遮箇作竹木と道取せらるるなり。

真応道の桂琛亦喚作竹木、しるべし、師資の対面道なりといふとも、同参の頭正尾正なるべし。しかありといへども、大師道の喚遮箇作竹木と、真応道の亦喚作竹木と、同なりや不同なりや、是なりや不是なりやと参究すべきなり。

大師云、尽大地覓一箇会仏法人不可得。
この道取をも審細に弁肯すべし。
しるべし、大師もただ喚作竹木なり、真応もただ喚作竹木なり。さらにいまだ三界唯心を会取せず、三界唯心を不会取せず。三界唯心を道取せず、三界唯心を不道取せず。

しかもかくのごとくなりといへども、宗一大師に問著すべし、覓一箇会仏法人不可得はたとひ道著すとも、試道看、なにを喚作してか尽大地とする。
おほよそ恁麼参究功夫すべきなり。

爾時寛元元年癸卯閏七月初一日在越宇禅師峰頭示衆
同年月廿五日書写于院主坊 懐奘

正法眼蔵三界唯心第四十一

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