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三十三回忌法要(さんじゅうさんかいき)

三十三回忌とは、お亡くなりになってから32年後、同じ月、同じ日の祥月命日に行う法要です。様々な都合により、現在では祥月命日に行えないことも多くなっています。33回忌。無料や有料の法要依頼当ウェブサイトから行える法要依頼の詳細はリンク先へ。関連する宗派曹洞宗、臨済宗、浄土宗、浄土真宗、真言宗、天台宗、日蓮系宗派など。<< 戻る
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十七回忌法要(じゅうしちかいき)

十七回忌とは、お亡くなりになってから16年後、同じ月、同じ日の祥月命日に行う法要です。様々な都合により、現在では祥月命日に行えないことも多くなっています。17回忌。17回忌無料や有料の法要依頼当ウェブサイトから行える法要依頼の詳細はリンク先へ。関連する宗派曹洞宗、臨済宗、浄土宗、浄土真宗、真言宗、天台宗、日蓮系宗派など。<< 戻る
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二十三回忌法要(にじゅうさんかいき)

二十三回忌とは、お亡くなりになってから22年後、同じ月、同じ日の祥月命日に行う法要です。様々な都合により、現在では祥月命日に行えないことも多くなっています。23回忌。23回忌無料や有料の法要依頼当ウェブサイトから行える法要依頼の詳細はリンク先へ。関連する宗派曹洞宗、臨済宗、浄土宗、浄土真宗、真言宗、天台宗、日蓮系宗派など。<< 戻る
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二十七回忌法要(にじゅうしちかいき)

二十七回忌とは、お亡くなりになってから22年後、同じ月、同じ日の祥月命日に行う法要です。様々な都合により、現在では祥月命日に行えないことも多くなっています。27回忌。27回忌無料や有料の法要依頼当ウェブサイトから行える法要依頼の詳細はリンク先へ。関連する宗派曹洞宗、臨済宗、浄土宗、浄土真宗、真言宗、天台宗、日蓮系宗派など。<< 戻る
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十三回忌法要(じゅうさんかいき)

十三回忌とは、お亡くなりになってから12年後、同じ月、同じ日の祥月命日に行う法要です。様々な都合により、現在では祥月命日に行えないことも多くなっています。13回忌。13回忌無料や有料の法要依頼当ウェブサイトから行える法要依頼の詳細はリンク先へ。関連する宗派曹洞宗、臨済宗、浄土宗、浄土真宗、真言宗、天台宗、日蓮系宗派など。<< 戻る
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七回忌法要(しちかいき)

七回忌とは、お亡くなりになってから6年後、同じ月、同じ日の祥月命日に行う法要です。様々な都合により、現在では祥月命日に行えないことも多くなっています。無料や有料の法要依頼当ウェブサイトから行える法要依頼の詳細はリンク先へ。関連する宗派曹洞宗、臨済宗、浄土宗、浄土真宗、真言宗、天台宗、日蓮系宗派など。<< 戻る
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三回忌法要(さんかいき)

三回忌とは、お亡くなりになってから2年後、同じ月、同じ日の祥月命日に行う法要です。様々な都合により、現在では祥月命日に行えないことも多くなっています。無料や有料の法要依頼当ウェブサイトから行える法要依頼の詳細はリンク先へ。関連する宗派曹洞宗、臨済宗、浄土宗、浄土真宗、真言宗、天台宗、日蓮系宗派など。<< 戻る
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一周忌法要(いっしゅうき)

一周忌とは、お亡くなりになってから1年後、同じ月、同じ日の祥月命日に行う法要です。様々な都合により、現在では祥月命日に行えないことも多くなっています。無料や有料の法要依頼当ウェブサイトから行える法要依頼の詳細はリンク先へ。関連する宗派曹洞宗、臨済宗、浄土宗、浄土真宗、真言宗、天台宗、日蓮系宗派など。<< 戻る
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百箇日法要(ひゃっかにち)- 卒哭忌

百箇日とは、お亡くなりになられた当日を含めて100日目というのが一般的です。四十九日を過ぎた後の、故人を偲ぶ気持ちを表す法要です。百箇日は、卒哭忌(そっこくき)ともいいます。卒業の「卒」とあるように、学校での課程を終了するという意味があります。また、「哭」は泣くことです。ですから、「卒哭忌」とは、故人の死を泣き悲しむのを終える日という意味があります。無料や有料の法要依頼当ウェブサイトから行える法要依頼の詳細はリンク先へ。関連する宗派曹洞宗、臨済宗、浄土宗、浄土真宗、真言宗、天台宗、日蓮系宗派など。<< 戻る
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四十九日法要(しじゅうくにち)- 満中陰、大練忌

四十九日法要とは、別名、満中陰(まんちゅういん)、大練忌(だいれんき)、尽中陰(じんちゅういん)、七七日(なななのか)ともいい、お亡くなりになられた当日を含めて49日目の日というのが一般的です。現在、様々な事情から葬儀告別式当日に「繰上四十九日法要」「式中四十九日法要」として行うことや、35日目に行ったり、四十九日前後の休みの日に行うことが多くなっています。また、関西ではお逮夜を重視して48日目にする場合があります。七七日の本尊は薬師如来です。この日で忌明けとなります。つまり遺族が日常生活に復帰する日です。この日に遺骨をお墓に納骨する場合が多く、親戚や知人を呼んで法要を営みます。また、四十九日...
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六七日(むなのか)- 檀弘忌

六七日のことを檀弘忌(だんこうき)とも言います。亡くなられた日から数えて42日目に行なわれます。また、関西ではお逮夜を重視して41日目にする場合があります。六七日の本尊・弥勒菩薩は智恵の菩薩です。無料や有料の法要依頼当ウェブサイトから行える法要依頼の詳細はリンク先へ。<< 戻る
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五七日(いつなのか)- 小練忌

五七日のことを小練忌(しょうれんき)とも言います。亡くなられた日から数えて35日目に行なわれます。また、関西ではお逮夜を重視して34日目にする場合があります。五七日の本尊・地蔵菩薩に苦しみを解いてもらい、正しい道に案内してもらえるように願います。亡くなられた日から七七日忌が3ヶ月にわたる場合には、この五七日忌をもって忌明けとすることが多いようです。この場合は七七日忌と同じように法事を営みます。無料や有料の法要依頼当ウェブサイトから行える法要依頼の詳細はリンク先へ。<< 戻る
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四七日(よなのか)- 阿経忌

四七日のことを阿経忌(あぎょうき)とも言います。亡くなられた日から数えて28日目に行なわれます。また、関西ではお逮夜を重視して27日目にする場合があります。四七日の本尊は普賢菩薩とされます。普賢菩薩は慈悲の菩薩です。亡くなった方を見守ってほしいと私たちが願う供養です。無料や有料の法要依頼当ウェブサイトから行える法要依頼の詳細はリンク先へ。<< 戻る
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三七日(みなのか)- 洒水忌

三七日のことを洒水忌(しゃすいき)とも言います。亡くなられた日から数えて21日目に行なわれます。また、関西ではお逮夜を重視して20日目にする場合があります。三七日の本尊は文珠菩薩とされます。文珠菩薩の智恵の水を灌いで頂き、生前の罪が消滅されるよう願う供養。また、それにより無事に三途の川を渡ることが出来るという例えです。『梵網経』(ぼんもうきょう)には、例え生前中に、悪い行いを重ねた人であっても、その遺族が七日毎に追善供養をすれば、死者もその功徳を受けるとあります。無料や有料の法要依頼当ウェブサイトから行える法要依頼の詳細はリンク先へ。<< 戻る
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二七日(ふたなのか)- 以芳忌

二七日のことを以芳忌(いほうき)とも言います。亡くなられた日から数えて14日目に行なわれます。また、関西ではお逮夜を重視して13日目にする場合があります。御先祖様と同じ処に向かうこと。つまり、三途の川の此岸から彼岸に渡る船に乗せてあげることを意味する供養。人の死後四十九日の間を中陰の期間と言って、古来インドから死者は姿、形のない、ただ意識だけの存在として六道輪廻の間をさまよう期間とされてきました。この期間に行なう供養を中陰供養といいます。また後の鎌倉時代から始まった十三仏信仰(『弘法大師逆修日記事』に書かれているのが初め)というものがあり、初七日から三十三回忌までの法要に合わせて13の本尊(初...
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初七日(しょなのか)- 初願忌

初七日とは、お亡くなりになられた当日を含めて7日目というのが一般的です。現在、葬儀告別式当日に「繰上初七日」「式中初七日」として行うことが多くなっています。初七日の次は二七日、三七日と続き七七日の四十九日まで続きます。初七日のことを初願忌(しょがんき)とも言います。関西では初七日の前夜を「お逮夜」といい、この日に法要を行なう場合があります。最近では諸事情により、葬儀後に初七日を同日にすることが一般的になりました。また、葬儀に一区切りつけるという意味でも重要です。初七日~七七日(四十九日)まではインドで行なわれていた仏教の法事でもあり、大乗仏教経典にも記載されています。とても大切な法要です。ここ...
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十八界(じゅうはっかい)

十八界とは、人間存在の十八構成要素です。六根(眼・耳・鼻・舌・身・意の六つの知覚機官)と六境(色・声・香・味・触・法の対象の世界)と六識(眼・耳・鼻・舌・身・意の認識作用)とを合わせて十八となります。これらが個人存在を構成しています。三科の一つ。18界。十二処の内の六つの内的な場(六入処)における識別作用をそれぞれ別に数えて、それらの間における対応関係を明示したものです。①眼と色・かたちと資格②耳と音声と聴覚③鼻と香りと嗅覚④舌と味と味覚⑤皮膚と触れられるべきものと触覚⑥心と考えられるものと心の識別作用・眼界・耳界・鼻界・舌界・身界・意界・色界・声界・香界・味界・触界・法界・眼識界・耳識界・鼻...
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四向四果(しこうしか)

四向四果とは、初期の仏教での聖者の位を、預流(よる)、一来(いちらい)、不還(ふげん)、阿羅漢(あらかん)という四つの聖位に分けられており(四双/しそう)、その一つ一つの位について向と果がありました。向とは修行の目標として進みつつある位、また、果は到達した境地を示します。それにより八つの位に分けられることから八輩(はっぱい)、四双八輩(しそうはっぱい)ともいいます。修行の目標として進みつつある位四向(しこう)とは、預流向(よるこう)、一来向(いちらいこう)、不還向(ふげんこう)、阿羅漢向(あらかんこう)のことです。また、到達した境地を示す四果(しか)は、預流果(よるか)、一来果(いちらいか)、...
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テクノ法要(てくのほうよう)

テクノ法要とは、電子音楽の中でもテクノのトラックをお勤めに用い、そのリズムに乗せてお経を読み上げる法要のことです。「極楽浄土は光の世界」という認識を基に、音楽と照明で阿弥陀如来や極楽浄土の時空を超えた世界観を表現する為に、お経の文字や仏像の映像がプロジェクション・マッピングで投影され、レーザー・ビームなど最新鋭の視覚効果も使用されることもあります。2016年5月3日に「極楽音楽花まつり」を開催し、第1回テクノ法要が勤修されました。会場となった福井県福井市の照恩寺・朝倉行宣住職は龍谷大学在学中から、クラブ営業とライブハウス営業をしていたお店で、DJと並行して照明のオペレーターとしての仕事もしてい...
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畢竟(ひっきょう)

畢竟とは、絶対的な、究極の、とどのつまり、断じて、要するに、つまり、結局のところ、といった意味があります。・「若し道心なき者は、徒らに辛苦を労して、畢竟に益無し。『禅苑清規』に云く、「すべからく道心を運らして時に随って改変し、大衆をして受用安楽ならしむべし」と。」(『典座教訓』1、職を勤める姿が仏の姿)・「いはゆる畢竟とは、仏果菩提なり。阿耨多羅三藐三菩提と初発菩提心と、格量せば劫火、螢火のごとくなるべしといへども、自未得度先度他の心をおこせば、二無別なり。」(「正法眼蔵」発菩提心)<< 戻る
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専念寺(せんねんじ)

開山は戦国時代。門徒は当時、この地にあった銀山の労働者達。信長と本願寺が争った石山合戦では、軍資金として、本願寺に銀100両を送った。これに感謝した本願寺は、専念寺に御本尊(阿弥陀如来)と当時は全国で4枚しかなかったとされる親鸞聖人の絵(寺宝)を贈った。なお、専念寺の鐘楼は、檀家で後に人間国宝になった名工・山本嘉作が昭和53年に製作した。・新潟名刹紀行番組ブログ 専念寺(せんねんじ)
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宝鏡寺(ほうきょうじ)

室町時代に本間・佐渡守(さどのかみ)の娘によって開かれる。曹洞宗だが訪れると、各宗派の要素が融合しているのが見て取れる。本尊は、曹洞宗の場合、お釈迦様であることが多い。しかし寺を開いた娘さんの御本尊である阿弥陀如来(浄土宗・浄土真宗に多い)が祀られている。また本堂は真言宗のもの。これは明治時代、一旦、廃寺になった後、再興した時に使用した影響だ。(リンク先より)・新潟名刹紀行番組ブログ 宝鏡寺(ほうきょうじ)
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常念寺(じょうねんじ)

戦国時代に、浄土宗の総本山、京都・知恩院で修行した行然上人が開山した。寺宝は、檀家が寄進し続けた「千体仏」と呼ばれる小さな仏様達。その時代の経済状況などが影響し、サイズは、ほぼ同じであるが、色や塗りが異なる。その他の寺宝に、開祖、法然上人の一生を鮮やかな色彩で描いた「法然上人絵伝」がある。製作の詳しい年月日は不明だが、江戸時代の可能性も指摘される。なお、常念寺では数多くの木魚があり、法事などでは、住職と檀家さんが一緒に打ちならし、先祖を供養している。(リンク先より)・新潟名刹紀行番組ブログ 常念寺(じょうねんじ)
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高士(こうし)

高士とは、すぐれた人のことをいいます。また、菩薩の旧約でもあります。・「上古有道の高士、自ら手ずから精しく至り、之を修することこの如し。」(『典座教訓』4、心を他のことに移さない)<< 戻る
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五上分結(ごじょうぶんけつ)

五上分結とは、三界のうち上方(色界と無色界)に結びつける五つの煩悩のことです。結は束縛のことであり、煩悩の異名。上分は色界と無色界のこと。三界のうち上二界である色界と無色界とに衆生を結び付ける五種の煩悩、すなわち色界における貧、無色界における貧・掉挙・慢・無明をいいます。衆生を色界と無色界とに結び付けて解脱させない煩悩なので、上分結と名づけられています。これを断滅すると阿羅漢果を得るというのが、説一切有部などの伝統的見解でした。梵語(サンスクリット語) ūrdhvabhāgīya saṃyojana ウールドヴァバーギーヤ・サンヨージョナ巴語(パーリ語) uddhambhāgiya saṃyo...
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五下分結(ごげぶんけつ)

五下分結とは、欲界に属する五つの煩悩のことです。結は束縛のことであり、煩悩の異名。下分は欲界のこと。三界のうち最下の欲界(感覚で知ることのできる下界)に衆生を結び付けて、束縛している五種の煩悩、すなわち欲界における貧・瞋恚・有身見・戒禁取見・疑のことです。この五下分結がある限り、衆生は欲界に生を受け、これらを断滅すると、欲界に帰らぬ不還果を得るというのが、説一切有部などの伝統的見解でした。梵語(サンスクリット語) āvarabhāgīya saṃyojana アーヴァラバーギーヤ・サンヨージョナ巴語(パーリ語) orambhāgiya-saṃyojana オーランバーギヤ・サンヨージャナ・「五...
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信仰(しんこう)

巴語(パーリ語) saddha サッダー信仰(saddha)とは、正しいことを信じるということです。仏教における「信」の特質とされます。・「老いた日に至るまで戒しめをたもつことは楽しい。信仰が確立していることは楽しい。明らかな知慧を体得することは楽しい。諸々の悪事をなさないことは楽しい。」(ダンマパダ 333偈)<< 戻る
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師僧(しそう)

師僧とは、師と仰がれる僧のこと、師弟関係における師匠のことです。また、和尚さん、お坊さんという程度で使われる場合もあります。・「時に奘云く、真実求法の為には、有漏の父母師僧の障縁をすつべき道理、然るべし。」(『正法眼蔵随聞記』96、先師全和尚入宋せんとせし時)<< 戻る
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功徳(くどく)

功徳とは、すぐれた徳性、よい性質、価値ある特性といった意味を持ちます。善を積んで得られるものとされています。福。福徳。善いこと。善い行い。善い行いの結果として報いられる果報。善を積み、また、修行の結果得られる恵み。・「月は、諸々の星の内で最上のものである。太陽は、輝くものの内で最上のものである。修行僧の集いは、功徳を望んで供養を行う人々にとって最上のものである。」(スッタニパータ 569偈)・「すでに虚妄な論議をのりこえ、憂いと苦しみを渡り、何ものをも恐れず、安らぎに帰した、拝むに相応しいそのような人々、諸々のブッダまたその弟子たちを供養するならば、この功徳はいかなる人でもそれを計ることが出来...
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六入(ろくにゅう)

六入とは、精神活動がそれを通じて起こる六つの領域で、対象をとらえる六つの場(眼、耳、鼻、舌、身、意)です。心と五官。内の六入とは六根、外の六入とは六境を意味し、合わせて十二入(または十二処)といいます。六つの感受機能。十二因縁の第五支。六入処(ろくにゅうしょ)、六処(ろくしょ)ともいいます。6入。・「雪山に住むものよ。六つのもの(眼、耳、鼻、舌、身、意)があるとき世界が生起し、六つのものに対して親しみ愛し、世界は六つのものに執著しており、世界は六つのものに悩まされている。」(スッタニパータ 169偈)<< 戻る
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三科(さんか)

三科とは、一切諸法を三種に分けた分類のことです。五蘊(または五陰)・十二処(または十二入)・十八界についての名称です。略して蘊処界、または陰界入ともいいます。また、六根・六境・六識のことをいうこともあります。3科。<< 戻る
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六識(ろくしき)

六識とは、眼・耳・鼻・舌・身・意の六種の認識の働きです。眼・耳・鼻・舌・身・意の六根を拠り所として、色(形あるもの)・声・香・味・触(ふれられるもの)・法(概念や直観の対象)の六境に対し、見・聞・嗅・味・触・知の了別作用をするところの眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識をいいます。これら識と境と根との三つが同時に存在することが必要とされます。三科の一つ。十八界の一つ。6識。<< 戻る