仏教を本気で学ぶ

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五重塔(ごじゅうのとう)

五重塔(ごじゅうのとう)とは、仏教寺院の五重の屋根をもつ塔のことです。元来は仏舎利(ぶっしゃり・お釈迦様の遺骨)を安置するためのもので、インドのストゥーパが起源です。我が国最古は法隆寺のもの、京都市にある東寺のものは高さ約57mで最も高いものです。<< 戻る
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小さな魚メダカだと思っていた魚二匹種類はまだはっきりしない子どもの観察用の水槽を時々洗っていると粘液が柔らかく固まっている汚れかなとも思ったけれど粘液だろうと思っていた今朝観察していると石や草の模型に粘液で家をつくっていたあんな小さな身体でこんな大きなものをエサをどれだけにすればいいのだろうか知識としてはあった寝る時に粘液で寝袋をつくる魚がいると寄生虫や天敵から身を守るためにしかし寝袋を作る淡水魚で検索してもでてこない幼魚なのか成魚なのかもわからない小さな魚<< 戻る
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三蔵法師(さんぞうほうし)

三蔵法師(さんぞうほうし)とは、仏教の経蔵・律蔵・論蔵の三蔵に精通した高僧のことです。また、訳経僧を指していう場合もあります。日本では中国の小説『西遊記』に登場する人物「三蔵法師」として有名ですが、三蔵法師というのは一般名詞なので、そう呼ばれる人は他にもいるということになります。<< 戻る
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地獄(じごく)

(1)最初期の仏教の頃より、地獄とはこの世に見られるものだということが示されています。・「凡夫は欲望と貪りとに執著しているが、眼ある人はそれを捨てて道を歩め。この世の地獄を超えよ。」(スッタニパータ 706偈)次の(2)(3)のようにこの世とは切り離された別の世界のこととして示されるのは学問的解釈、文学的解釈の広がりによると思われます。(2)地獄とは、仏教で説く六道世界の1つです。地下の牢獄を意味し、罪をおかした人間が苦しみ、なやむおそろしい世界が表現されています。紅蓮地獄。反対語としてよく使われるのは極楽(ごくらく)です。(3)キリスト教では、天国に対して地獄を亡失の国として、大罪をおかした...
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巡礼(じゅんれい)

巡礼とは、信仰をもつ人が、聖地や寺・霊場を参拝して歩くことです。キリスト教・イスラム教・仏教の信徒の間で行われており、これらの地をおとずれると、多くのご利益があると信しんじられています。日本でも平安時代から行われ、熊野詣(くまのもうで)・四国八十八か所巡りなどが有名です。<< 戻る
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ふと手を止めると聴こえてくるのは秋の虫三種類くらい確認できたところでツクツクボウシが混声走り去る車の音はじめに聴こえてきた鈴虫がまだ鳴いている鳥も二種類くらい遠くで物音もする草刈り機の音は大きいなそれでも虫の音は止まらないこれ全て見ていない部屋の中だから見えないつながっているから聴こえてくる境目なんてないから聴こえてくる人だって音を利用している音は人だけのものじゃない作業に戻るとまた聴こえなくなるだろう意識していないだけかまあそれもいい<< 戻る
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ダライ・ラマ

チベット仏教(ラマ教)において、政治的な立場もかねる、宗教的きな最高指導者です。ダライ・ラマとは「大海のような徳をもった高僧」の意味の称号です。観音菩薩の化身といわれ、代々前代のダライ・ラマの生まれ変かわりとされる子ども(転生活仏・てんせいかつぶつ)を探し、次のダライ・ラマが選ばれます。15世紀初はじめの高僧ゲドゥン・トゥプを初代として、1642年、第5代のダライ・ラマがチベットを統一して法王と国王をかね、ポタラ宮を造営しました。その後、第14代ダライ・ラマ(テンジン・ギャツォ)の1950年、中華人民共和国軍がチベットへ進駐しチベットを併合します。1959年3月のラサ暴動をきっかけにダライ・ラ...
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寺請制度(てらうけせいど)

寺請制度(てらうけせいど)とは、江戸時代に、どの家も仏教のいずれかの宗派に所属させ、寺院の檀家とした制度です。幕府がキリスト教禁止をねらいとして宗門改(しゅうもんあらため)を行ったことから確立したものです。寺院にその檀家の家族全員について、出生地・生年月日をとどけさせ、婚姻・旅行・就職・移住などに際しては、キリシタン信徒ではなく、寺の檀家であるという証明書を出させました。<< 戻る
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大仏様=天竺様(だいぶつよう=てんじくよう)

鎌倉時代に南宋(中国)からつたえられた仏教建築の一様式。天竺様は鎌倉時代初期に東大寺再建のため、南宋に行った経験のある大勧進俊乗坊重源(ちようげん)が取り入れた建築様式で、そのため大仏様(だいぶつよう)ともいいます。<< 戻る
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道教(どうきょう)

道教(どうきょう)とは、中国で、不老不死などこの世での幸福を願うそぼくな民間の信仰や、宗教です。老子・荘子の教えと神秘思想がむすびついておこり、のち仏教の影響を受けて宗教としての形をとるようになりました。唐代には宮廷に保護され、日本にも道教の経典や儀礼、ならわしをつたえました。ブッダやキリストの教えまでとりいれながら、民衆の間に今日も根強い人気があります。禅宗の勉強をしていると道教の影響を受けたという説が出てくることがあり気になっていましたが、道教側から見ると仏教の影響を受けて宗教として形を成してきたということで、状況的には日本の神道と仏教の関係にも似ています。神道は仏教の影響を受けて宗教とし...
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312

2001年9月11日の米同時多発テロその同じ年911より前2001年3月12日に起きた出来事をすぐに思い出せる人はいるだろうか バーミヤン石窟イスラム過激派勢力による世界最大の大仏立像の爆破5世紀ころつくられた高さ55mと38mの大仏が爆破された大仏は仏教の象徴であり911で崩れ去ったワールドトレードセンタービルはアメリカ繁栄の象徴だった目の前で起きている自分に関係ないと思っていることは実は関係あるそれぞれの立場がそれぞれに主張しているだけで宇宙のいのち地球という生命のそれぞれの姿関係あるなしは人が勝手に決めている312あって911あり<< 戻る
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本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ)

本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ)とは、日本で仏教と神道の関係を現わしていて、仏や菩薩が衆生をすくうために神という仮のすがたであらわれたという考え方。仏や菩薩が本来のすがた(本地)ではなく、神という仮のすがた(垂迹身)となって人々をすくうという神仏同体説で、平安時代の初めから広まりました。たとえば熊野権現(くまのごんげん)の本地は阿弥陀如来というように中世には全ての神社に本地仏が定められました。明治の神仏分離でこの説せつは衰おとろえました。<< 戻る
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梵語(サンスクリット語・梵字・悉曇)

梵語(ぼんご・サンスクリット語)とは、古代インドの文章語であり、北伝の仏教(説一切有部とその分派、ならびに大乗仏教の諸部派)に使われている言葉です(⇔南伝・巴語)。「サンスクリット」とは「完成された」「洗練された」を意味する言葉です。また、梵字は梵語を書き表すのに使われた一種の表音文字です。いろいろな字体がありますが、日本にはその中の、6世紀から9世紀にかけて中央インドを中心に用いられた流行書体である悉曇文字(しったんもじ)という字体が仏教と共につたえられました。悉曇文字には、「成就・完成」という意味があり、特に密教では、悉曇は大日如来から相承した神聖な文字であると説かれています。また、梵字は...
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独坐/独座(どくざ)

独坐とは、ひとりで座っていること。身を遠ざけて、奥まったところに坐すこと。孤座。・「独坐と禅定を捨てることなく、諸々の事柄について常に理法に従って行い、諸々の生存には患いのあることを確かに知って、サイの角のようにただ独り歩め。」(スッタニパータ 69偈)<< 戻る
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俯して視る

俯して視る(ふしてみる)とは、初期仏教の時代、仏教に限るわけではなく修行者が、歩きながら虫を踏むことのないように注意すること。謙遜の意味ではなく、脚下照顧という趣旨でもない。・「俯して視、とめどなくうつろうことなく、諸々の感官を防いで守り、心を護り慎しみ、煩悩の流れ出ることなく、煩悩の火に焼かれることもなく、サイの角のようにただ独り歩め。」(スッタニパータ 63偈)<< 戻る
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濁り(にごり)

愛執の濁り、嫌悪の濁り、身体の濁り、言葉の濁り、心の濁り、の5つをのこと。・「貪ることなく、詐ることなく、渇望することなく、見せかけで覆うことなく、濁りと迷妄とを除き去り、全世界において妄執のないものとなって、サイの角のようにただ独り歩め。」(スッタニパータ 56偈)<< 戻る
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残像

言葉はその人の残像その言葉を思い出せばその人の声やその時の状況普段意識にのぼらないそんなことを思い出して脳内で再生される人に教えてもらうと記憶に残りやすいその人の声やその時の状況は仕事や勉強にとって重要な情報じゃないかもしれないしかしそのノイズその人の残像と深く結びつき記憶に残るだから要点だけを知ってもつまらない頭に入らない<< 戻る
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蘇る

文字や数字、記号外国語の文字を見ても何ら分からないでも日本語なら分かるそれはそれが意味することを知っているから1に多くの意味を持たせたら例えば衣類という意味食べるという意味住むという意味どの意味で1を使っているのか判断するのは難しいだから衣には衣類という意味食には食べるという意味住には住むという意味それぞれの文字にそのような意味を持たせているその結果たくさんの文字を知っていなくてはいけない誰かが語ったことを文字にしてみるその人が蘇る<< 戻る
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911

それを知ったのは田園都市線の車内友人とのメールだったと思う凄いことが起きてんで米同時多発テロを伝えるそのメールの文字だけでは伝わり切らない文字の限界も同時に知った夜だったそれは映像の衝撃本当のことかどうなのか何が起きているのか21世紀は心の世紀だと誰かが言っていたその幕は残念ながらまだ開いていない<< 戻る
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交わり

初期仏教で言われるところの「交わり」とは、5種類ある。会うこと、声を聞くこと、身体で触れること、おしゃべり、享楽。・「交わりをしたならば愛情が生じる。愛情に従ってこの苦しみが起こる。愛情から禍いの生じることを観察して、サイの角のようにただ独り歩め。」(スッタニパータ 36偈)<< 戻る
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サイの角(さいのつの)

サイ(犀)の角が一つしかないように、求道者は、他の人々からのほめたりけなしたりする世評に煩わされることなく、ただ一人でも自分の確信に随って暮らすようにという意味が込められている。「サイの角」の譬喩によって「独り歩む修行者」「独り覚った人」の心境、生活を『スッタニパータ【第1 蛇の章】3、サイの角』で述べている。以上は初期仏教の話で、後代の仏教教学で考えた「独覚」とは必ずしも一致しないと考えられている。・スッタニパータ【第1 蛇の章】3、サイの角<< 戻る
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悪魔パーピマン

・悪魔パーピマンが言った、「子のある者は子について喜び、また牛ある者は牛について喜ぶ。人間の執著する元のものは喜びである。執著する元のない人は、実に喜ぶことがない。」(スッタニパータ 33偈)・師は答えた、子のある者は子について憂い、また牛ある者は牛について憂う。実に人間の憂いは執著する元のものがない人は、憂うることがない。」(スッタニパータ 34偈)<< 戻る
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眼ある方

「眼ある方」とは、仏の異名とされている。<< 戻る
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密教(みっきょう)

仏教の一派。秘密教ともいいます。仏の悟りの境地(きょうち)に達っするため、きびしい修行を行い、祈りやまじないを重んじましたが、その教えは直接、師から弟子に伝えられ、公開されませんでした。7~8世紀にインドにおこり、日本には平安時代初期に、唐(中国)から帰った空海・最澄らによって伝えられ、それぞれ真言宗・天台宗にとりいれられました。<< 戻る
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母胎に入ることはないであろう

この迷いの世界の内でまた生まれ変わることはないであろう、迷いの生存に戻ることはないであろう、との意味。・「牡牛のように結縛を断ち、臭い臭いのする蔓草を象のように踏みにじり、わたしくしはもはや母胎に入ることはないであろう。神よ、もし雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」(スッタニパータ 29スッタニパータ 29偈)・「諸々のよこしまな見解に捕らわれず、戒を保ち、洞察して見る働きを具えて、諸々の欲望に関する貪りを除いた人は、決して再び母胎に宿ることがないであろう。」(スッタニパータ 152偈)<< 戻る
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ムンジャ草

ムンジャ草とは、インド全域の平野に自生するサトウキビ属の草。中国にも分布し、高さ7メートルに達するものもある。若い穂は食用になるが、このワラで衣や敷具をつくった。柔らかい乾草。干し草。<< 戻る
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ラマ教(らまきょう)

チベット・モンゴルを中心として行われている密教色(みっきょうしょく)の強い仏教。チベット仏教の俗称。ラマとはチベット語で「上人」「師」を意味し、それぞれの宗教上に成立する師をさします。仏・法・僧の三宝のほかにラマをも尊崇するのでラマ教といいます。チベットへの仏教の伝来はソンツェン・ガンポ王(6世紀ころ)の時代とされ、仏教と古来チベットにあった民間信仰のボン教とが融合したものがラマ教です。さらに8世紀には、インドからシャーンタラクシタが戒律を、パドマサンババが密教系仏教を伝えました。また、中国からは大乗和尚が大乗仏教を伝え、インド僧カマラシーラとの間で論争が行われました。この論争に敗北した中国仏...
人物

プーラナ・カッサパ(不蘭那迦葉)

プーラナ・カッサパは『スッタニパータ【第3 大いなる章】6、サビヤ』に登場する仏教の側から見て異端だと見なされた六師外道の1人です。プーラナ・カッサパは、無道徳論、道徳否定論者で、善行も悪行もなく、善悪いずれの報いも存在しないと主張していました。<< 戻る
人物

ナーラカ

ナーラカは『スッタニパータ【第3 大いなる章】11、ナーラカ』内に登場するアシタ仙の甥にしてお釈迦様の弟子です。<< 戻る
人物

学生ウバシーヴァ

学生ウバシーヴァは『スッタニパータ【第5 彼岸にいたる道の章】7、学生ウバシーヴァの質問』内に登場するバーヴァリ・バラモンの弟子で、お釈迦様に質問します。<< 戻る
人物

マッカリ・ゴーサーラ(末迦梨瞿舎利)

マッカリ・ゴーサーラは『スッタニパータ【第3 大いなる章】6、サビヤ』に登場する仏教の側から見て異端だと見なされた六師外道の1人です。マスカリン・ゴーサーラという記述もあります。マッカリ・ゴーサーラは、裸形托鉢教団アージーヴィカ教を主導した自由思想家、運命決定論、宿命論者で、自己の意志による行いはなく、一切はあらかじめ決定されており、定められた期間流転する定めであると主張していました。<< 戻る
人物

学生ナンダ

学生ナンダは『スッタニパータ【第5 彼岸にいたる道の章】8、学生ナンダの質問』内に登場するバーヴァリ・バラモンの弟子で、お釈迦様に質問します。<< 戻る