buddhism

仏教を本気で学ぶ

草の勝ち

しゃがんで草抜きをしていたせいか左足の疲労感が取れない足の回復よりも草がのびる方が早いどうにも皮肉なようだけれどそうやって草も生存競争を勝ち抜いてきたのだろう手で抜いていたら追いつけないそこをねぐらや日よけにしているものたちも今日の安心を得られただろうか<< 戻る
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廃寺(はいじ)

廃寺とは、廃止されたお寺、またはお寺を廃止することです。経済的、政策的、天災、戦争など、様々な理由でお寺は廃止されてきました。地方の人口減少による廃寺(経済的)、明治時代の廃仏毀釈による廃寺(政策的)、阪神淡路大震災や東日本大震災による廃寺(天災)、武士が台頭する世の中での廃寺(戦争)、この他の理由によるものも含めて、お寺を廃止することが歴史上にも現代にもあります。地域の貴重な史跡として廃寺が扱われることも多くあります。<< 戻る
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障子の向こう側で物音がする外かないや中だどうやら蜂が入り込んだ外に面した廊下の窓を開ける蜂はこっちにこない目の前の光に向かって外に出ようとするのみちょっと待ってみた音がしなくなったから見にいくとまだいた羽は黒く中くらいの蜂ミツバチでもクマバチでもスズメバチでもない名前は分からないが蜂がいるちょっと弱ったのか本人も早く出たいだろうしこっちも早く出ていってほしいそうだ子どもの虫取り網を持ってきて蜂をすくった上手い具合に入り窓の外で網を振るするとまっすぐまっすぐに離れて飛んでいったお礼はいらないよとこの場を借りてお伝えします<< 戻る
便り

「心の時代」で放映されたものより(曹洞宗 正伝の仏法)

・・・僧堂にお迎えする師家として、余語老師とのお出会いがあって、で、余語翠巖老師は大雄山最乗寺の山主でいらっしゃいましたね。その余語老師に御出会いして25年間でしたが、尼僧堂の堂長として20年お越し頂きました。有り難いご縁でした。老師におねだりして書いて頂いた一つがこの「梅熟」です。これは道元様の『正法眼蔵』の「行持」の巻ですね。「行持」の巻にある馬祖道一の弟子の大梅法常の話ですね。一人の雲水が、手杖の材料を取りに山へ入って道に迷って、迷ってヒョイと出たところに小さな小屋があって、何年も山を下らずに修行しているらしきお方がいるんですね。「道に迷ってしまったけど、どうやったら里へ帰れるか」と聞き...
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今日よく読まれている記事

今日よく読まれている記事を表示しているパソコンなら右側にスマホなら下側に表示される日によって傾向が全然違う時々のぞいてはその日需要があるページの情報を追加しているここが目的地じゃなくても人とお寺との結び目にここがなっていたらそれでいいgoogleやyahoo!などの検索画面にここが表示されたらここなら大丈夫だろうとそう思われるような結び目に<< 戻る
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お寺の情報

お寺の情報ネット上にはいろいろある間違うのは仕方ないけれどそのままにはしたくない住所や地図を載せることがあるけれどどちらも変わるずっと同じじゃないそもそも間違ったまま転載されていることもあるここでもそうなっていたらごめんなさい🙇直す意思はあるので見つけたら教えてね今日地図を載せようとしても出てこないお寺があった廃寺かな住所間違えかな検索してもなかなか出てこない元々の住所録が間違ったまま広まっていたようだ正しく入力すればちゃんと出てくるちょっと前の情報だけど便りに追記しておいた最新記事には上がらないお寺の情報をコツコツ積み上げています他でも掲載している情報だからと間違ったまま掲載はしたくないそん...
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暮らし

水は高いところから低いところへ流れるそんなこと当たり前だと言うでも当たり前のことが当たり前のようにできないのが人だ流し台やお風呂の水回り濡れたままだと水垢が残るカビも生える純水なんて生活の中にはないから放っておけばそうなる1日1度は拭くなり乾燥させるなり掃除をしてそのものが機能しているか変わったことがないか確かめてあげたいだから確かめられるだけの空間で暮らす<< 戻る
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生活

流し台横の洗い物トレー今日はつまようじで細かい汚れまで取ってもらったからきれいでしょと夕食準備に忙しくそんなことは忘れていた私の視線を奪う私もきれいにした甲斐があったと二度見する手がかかるほど大事にしたいのはものも人も同じこと<< 戻る
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無駄にはならない

お寺のブログやSNSコロナ禍の坐禅や写経イベント情報中止や休みで途絶えてる何だかさみしい気がするけれど仕方ないのか他に手立てがないのか続けてきたものが止まってしまわないようにそっと覗いて見ています<< 戻る
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勧請開山(かんじょうかいさん)

勧請(かんじょう)とは、仏、神や高僧に、お願いして来ていただくことです。開山(かいさん)とは、お寺を創建することですが、転じて創建したお寺の初代住職も指します。よって、勧請開山(かんじょうかいさん)とは、本来の創建者でない高僧をそのお寺の開山とすることです。行基、役行者などの勧請開山はかなりの数があるようです(当センター調べで現在確認できているお寺はリンク先で確認出来ます)。また、臨済宗や曹洞宗の禅宗では、創建者のお師匠さんに敬意を表して生前・死後に関わらず勧請開山とする事例が多くあります。<< 戻る
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ガンダーラ美術

ガンダーラ美術とは、1世紀後半から数世紀にわたって、パキスタンの北西地方からアフガニスタン東部におよぶ地域で行われていた仏教美術です。仏教寺院を荘厳にするため制作された一連の彫刻類に代表されます。この地は、アレクサンドロス大王の東征を受けていたので、ヘレニズム文化がのこっており、当時の仏教界では例をみなかった制作が、ギリシャ彫刻の影響のもとに行われました。以後、クシャナ朝のカニシカ王の仏教保護のもと、仏像崇拝が広く流行するようになり、各地で仏像がつくられるようになりました。<< 戻る
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吉祥天女(きちじょうてんにょ)

吉祥天女とは、毘沙門天(びしゃもんてん)の妻で、福徳をつかさどる女神です。古代インド神話から仏教に取り入れられた女神で、造形は唐(中国)の貴婦人の形をとられることが多いようです。絵画では薬師寺の吉祥天女画像、彫刻では浄瑠璃寺の吉祥天立像が有名です。吉祥天(きっしょうてん・きちじょうてん)、功徳天、宝蔵天女ともいいます。ヒンドゥーの女神ラクシュミーが仏教に取り入れられたもので、ヒンドゥーではヴィシュヌ神の妻で、また愛神カーマの母とされています。仏教では、父は徳叉迦(とくさか)、母は鬼子母神(きしぼじん)、妹に黒闇天(こくあんてん)がいます。(吉祥天女 写真提供:薬師寺)<< 戻る
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呉音(ごおん)

呉音(ごおん)とは、漢字音の1つのことです。古代中国の呉・越地方の発音によったもので、仏教用語に多く使われています。例えば、「正」を「ショウ」、「行」を「ギョウ」と読むなど。<< 戻る
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五重塔(ごじゅうのとう)

五重塔(ごじゅうのとう)とは、仏教寺院の五重の屋根をもつ塔のことです。元来は仏舎利(ぶっしゃり・お釈迦様の遺骨)を安置するためのもので、インドのストゥーパが起源です。我が国最古は法隆寺のもの、京都市にある東寺のものは高さ約57mで最も高いものです。<< 戻る
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小さな魚メダカだと思っていた魚二匹種類はまだはっきりしない子どもの観察用の水槽を時々洗っていると粘液が柔らかく固まっている汚れかなとも思ったけれど粘液だろうと思っていた今朝観察していると石や草の模型に粘液で家をつくっていたあんな小さな身体でこんな大きなものをエサをどれだけにすればいいのだろうか知識としてはあった寝る時に粘液で寝袋をつくる魚がいると寄生虫や天敵から身を守るためにしかし寝袋を作る淡水魚で検索してもでてこない幼魚なのか成魚なのかもわからない小さな魚<< 戻る
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三蔵法師(さんぞうほうし)

三蔵法師(さんぞうほうし)とは、仏教の経蔵・律蔵・論蔵の三蔵に精通した高僧のことです。また、訳経僧を指していう場合もあります。日本では中国の小説『西遊記』に登場する人物「三蔵法師」として有名ですが、三蔵法師というのは一般名詞なので、そう呼ばれる人は他にもいるということになります。<< 戻る
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地獄(じごく)

(1)最初期の仏教の頃より、地獄とはこの世に見られるものだということが示されています。・「凡夫は欲望と貪りとに執著しているが、眼ある人はそれを捨てて道を歩め。この世の地獄を超えよ。」(スッタニパータ 706偈)次の(2)(3)のようにこの世とは切り離された別の世界のこととして示されるのは学問的解釈、文学的解釈の広がりによると思われます。(2)地獄とは、仏教で説く六道世界の1つです。地下の牢獄を意味し、罪をおかした人間が苦しみ、なやむおそろしい世界が表現されています。紅蓮地獄。反対語としてよく使われるのは極楽(ごくらく)です。(3)キリスト教では、天国に対して地獄を亡失の国として、大罪をおかした...
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巡礼(じゅんれい)

巡礼とは、信仰をもつ人が、聖地や寺・霊場を参拝して歩くことです。キリスト教・イスラム教・仏教の信徒の間で行われており、これらの地をおとずれると、多くのご利益があると信しんじられています。日本でも平安時代から行われ、熊野詣(くまのもうで)・四国八十八か所巡りなどが有名です。<< 戻る
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ふと手を止めると聴こえてくるのは秋の虫三種類くらい確認できたところでツクツクボウシが混声走り去る車の音はじめに聴こえてきた鈴虫がまだ鳴いている鳥も二種類くらい遠くで物音もする草刈り機の音は大きいなそれでも虫の音は止まらないこれ全て見ていない部屋の中だから見えないつながっているから聴こえてくる境目なんてないから聴こえてくる人だって音を利用している音は人だけのものじゃない作業に戻るとまた聴こえなくなるだろう意識していないだけかまあそれもいい<< 戻る
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ダライ・ラマ

チベット仏教(ラマ教)において、政治的な立場もかねる、宗教的きな最高指導者です。ダライ・ラマとは「大海のような徳をもった高僧」の意味の称号です。観音菩薩の化身といわれ、代々前代のダライ・ラマの生まれ変かわりとされる子ども(転生活仏・てんせいかつぶつ)を探し、次のダライ・ラマが選ばれます。15世紀初はじめの高僧ゲドゥン・トゥプを初代として、1642年、第5代のダライ・ラマがチベットを統一して法王と国王をかね、ポタラ宮を造営しました。その後、第14代ダライ・ラマ(テンジン・ギャツォ)の1950年、中華人民共和国軍がチベットへ進駐しチベットを併合します。1959年3月のラサ暴動をきっかけにダライ・ラ...
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寺請制度(てらうけせいど)

寺請制度(てらうけせいど)とは、江戸時代に、どの家も仏教のいずれかの宗派に所属させ、寺院の檀家とした制度です。幕府がキリスト教禁止をねらいとして宗門改(しゅうもんあらため)を行ったことから確立したものです。寺院にその檀家の家族全員について、出生地・生年月日をとどけさせ、婚姻・旅行・就職・移住などに際しては、キリシタン信徒ではなく、寺の檀家であるという証明書を出させました。<< 戻る
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大仏様=天竺様(だいぶつよう=てんじくよう)

鎌倉時代に南宋(中国)からつたえられた仏教建築の一様式。天竺様は鎌倉時代初期に東大寺再建のため、南宋に行った経験のある大勧進俊乗坊重源(ちようげん)が取り入れた建築様式で、そのため大仏様(だいぶつよう)ともいいます。<< 戻る
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道教(どうきょう)

道教(どうきょう)とは、中国で、不老不死などこの世での幸福を願うそぼくな民間の信仰や、宗教です。老子・荘子の教えと神秘思想がむすびついておこり、のち仏教の影響を受けて宗教としての形をとるようになりました。唐代には宮廷に保護され、日本にも道教の経典や儀礼、ならわしをつたえました。ブッダやキリストの教えまでとりいれながら、民衆の間に今日も根強い人気があります。禅宗の勉強をしていると道教の影響を受けたという説が出てくることがあり気になっていましたが、道教側から見ると仏教の影響を受けて宗教として形を成してきたということで、状況的には日本の神道と仏教の関係にも似ています。神道は仏教の影響を受けて宗教とし...
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312

2001年9月11日の米同時多発テロその同じ年911より前2001年3月12日に起きた出来事をすぐに思い出せる人はいるだろうか バーミヤン石窟イスラム過激派勢力による世界最大の大仏立像の爆破5世紀ころつくられた高さ55mと38mの大仏が爆破された大仏は仏教の象徴であり911で崩れ去ったワールドトレードセンタービルはアメリカ繁栄の象徴だった目の前で起きている自分に関係ないと思っていることは実は関係あるそれぞれの立場がそれぞれに主張しているだけで宇宙のいのち地球という生命のそれぞれの姿関係あるなしは人が勝手に決めている312あって911あり<< 戻る
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本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ)

本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ)とは、日本で仏教と神道の関係を現わしていて、仏や菩薩が衆生をすくうために神という仮のすがたであらわれたという考え方。仏や菩薩が本来のすがた(本地)ではなく、神という仮のすがた(垂迹身)となって人々をすくうという神仏同体説で、平安時代の初めから広まりました。たとえば熊野権現(くまのごんげん)の本地は阿弥陀如来というように中世には全ての神社に本地仏が定められました。明治の神仏分離でこの説せつは衰おとろえました。<< 戻る
便り

最勝院の仁王像、県内最古と判明 内側に墨書き

青森県弘前市銅屋町の最勝院で参拝者を見守ってきた仁王像が県内最古の仁王像と判明したと10日、同院が発表した。修復の過程で、1653年(承応2年)に制作されたことを示す墨書きが見つかった。市は指定文化財にあたるかどうか専門家による審議を始める。最勝院は1532年の開山と伝えられる。現在の弘前城が築城された慶長年間に城下に造営され、明治維新の廃仏毀釈(きしゃく)に伴って1871年、旧大円寺があった現在の場所に移転した。ただ、高さ270センチあまりの仁王像の制作年代や来歴は、わかっていなかった。2017年秋に阿形(あぎょう)像の左目が老朽化で落ちてしまったことから調査したところ、対をなす吽形(うんぎ...
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梵語(サンスクリット語・梵字・悉曇)

梵語(ぼんご・サンスクリット語)とは、古代インドの文章語であり、北伝の仏教(説一切有部とその分派、ならびに大乗仏教の諸部派)に使われている言葉です(⇔南伝・巴語)。「サンスクリット」とは「完成された」「洗練された」を意味する言葉です。また、梵字は梵語を書き表すのに使われた一種の表音文字です。いろいろな字体がありますが、日本にはその中の、6世紀から9世紀にかけて中央インドを中心に用いられた流行書体である悉曇文字(しったんもじ)という字体が仏教と共につたえられました。悉曇文字には、「成就・完成」という意味があり、特に密教では、悉曇は大日如来から相承した神聖な文字であると説かれています。また、梵字は...
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独坐/独座(どくざ)

独坐とは、ひとりで座っていること。身を遠ざけて、奥まったところに坐すこと。孤座。・「独坐と禅定を捨てることなく、諸々の事柄について常に理法に従って行い、諸々の生存には患いのあることを確かに知って、サイの角のようにただ独り歩め。」(スッタニパータ 69偈)<< 戻る
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俯して視る

俯して視る(ふしてみる)とは、初期仏教の時代、仏教に限るわけではなく修行者が、歩きながら虫を踏むことのないように注意すること。謙遜の意味ではなく、脚下照顧という趣旨でもない。・「俯して視、とめどなくうつろうことなく、諸々の感官を防いで守り、心を護り慎しみ、煩悩の流れ出ることなく、煩悩の火に焼かれることもなく、サイの角のようにただ独り歩め。」(スッタニパータ 63偈)<< 戻る
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濁り(にごり)

愛執の濁り、嫌悪の濁り、身体の濁り、言葉の濁り、心の濁り、の5つをのこと。・「貪ることなく、詐ることなく、渇望することなく、見せかけで覆うことなく、濁りと迷妄とを除き去り、全世界において妄執のないものとなって、サイの角のようにただ独り歩め。」(スッタニパータ 56偈)<< 戻る
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残像

言葉はその人の残像その言葉を思い出せばその人の声やその時の状況普段意識にのぼらないそんなことを思い出して脳内で再生される人に教えてもらうと記憶に残りやすいその人の声やその時の状況は仕事や勉強にとって重要な情報じゃないかもしれないしかしそのノイズその人の残像と深く結びつき記憶に残るだから要点だけを知ってもつまらない頭に入らない<< 戻る
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蘇る

文字や数字、記号外国語の文字を見ても何ら分からないでも日本語なら分かるそれはそれが意味することを知っているから1に多くの意味を持たせたら例えば衣類という意味食べるという意味住むという意味どの意味で1を使っているのか判断するのは難しいだから衣には衣類という意味食には食べるという意味住には住むという意味それぞれの文字にそのような意味を持たせているその結果たくさんの文字を知っていなくてはいけない誰かが語ったことを文字にしてみるその人が蘇る<< 戻る