三学(さんがく)とは、ブッダによって示された、修行者が必ず修めるべき3つの基本的な修行項目のことです。三勝学(さんしょうがく)ともいわれます。戒学、定学、慧学の3つを指して三学といいます。この戒、定、慧のそれぞれを次で見ていきましょう。
戒学(かいがく)戒により、悪をとどめ善を修めることで、身・口・意(しん・く・い)の三業(さんごう)が清らかになり、禅定に入りやすくなる。
定学(じょうがく)その禅定を修めることで、身心を静かに精神統一を行ない、雑念を払い思いが乱れないことで智慧が得られやすくなる。
慧学(えがく)その智慧を修めることで、正しく真実の姿を見極めることが出来るようになる。この戒・定・慧の三学の兼修が、仏道修行の完成をもたらすとされています。
最後に三学としてまだ整理されていない仏教最初期のテキストとして「スッタニパータ【第3 大いなる章】11、ナーラカ」の716-723偈を紹介しておきます。
716 師が言われた、
「あなたに聖者の道を説こう。食をとるには剃刀の刃のたとえのように用心せよ。舌で上口蓋を抑え、腹についてはみずから食を節すべし。
717 心が沈んでしまってはいけない。またやたらに多くのことを考えてはいけない。なまぐさい臭気なく(煩悩のない者となって)、こだわることなく、清らかな行いを究極の理想とせよ。(戒学)
718 独り坐することと道の人に奉仕することを学べ。聖者の道は独り居ることであると説かれている。独り居てこそ楽しめるであろう。(定学)
719 そうすれば彼は十方に光輝くであろう。欲望を捨てて瞑想している諸々の賢者の名声を聞いたならば、我が教えを聞く者はますます恥を知り、信仰を起こすべきである。
720 そのことを深い淵の河水と浅瀬の河水とについて知れ。河底の浅い小川の水は音を立てて流れるが、大河の水は音を立てないで静かに流れる。
721 欠けている足りないものは音を立てるが、満ち足りたものは全く静かである。愚者は半ば水を盛った水瓶のようであり、賢者は水の満ちた湖のようである。
722 道の人が理法にかない意義あることを多く語るのは、みずから知って教えを説くのである。みずから知って多くのことを語るのである。(慧学)
723 しかしみずから知って己れを制し、みずから知っているのに多くのことを語らないならば、彼は聖者として聖者の行にかなう。彼は聖者として聖者の行を体得した。」
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