仏教を本気で学ぶ 止観(しかん) 止観とは、止めて観ることで、心を練って一切の外境や乱想に動かされず、心を特定の対象にそそいで心の働きを静めるのを「止」といい、それによって正しい智慧を起こし、対象を如実に観るのを「観」といいます。互いに他を成立させ、仏道を全うさせる不離の関係にあります。・「バラモンが二つの事柄(止と観)について彼岸に達した(完全になった)ならば、彼はよく知る人であるので、彼の束縛は全て消え失せるであろう。」(ダンマパダ 384偈)<< 戻る 2000.04.23 仏教を本気で学ぶ
仏教を本気で学ぶ 常住物(じょうじゅうもつ) 常住物とは、寺に住む僧が勝手に私有したり売却してはならない共有物で、長く寺に備えて僧の受用に供すべきもの。・「また大宋宏智禅師の会下、天童は常住物千人の用途なり。然れば、堂中七百人、堂外三百人にて千人につもる常住物なるによりて、長老の住したる間、諸方の僧雲集して堂中千人なり。」(『正法眼蔵随聞記』41、故僧正云く、衆各用いる所の衣粮等)・「況んや学仏道の人には、施主の供養あり、常の乞食に比すべからず。常住物これあり、私の営みにもあらず。」(『正法眼蔵随聞記』3、学道の人、衣食を貪る事なかれ)<< 戻る 1999.12.03 仏教を本気で学ぶ
仏教を本気で学ぶ 衆僧(しゅそう) 衆僧とは、修行道場における一般の修行僧のことです。多くの修行僧のことで、大衆ともいいます。5人もしくは5人以上の比丘が和合しているのを梵語(サンスクリット語)のsamgha、もしくは、巴語(パーリ語)のSangha(サンガ)を音写して「僧伽」といい、漢訳で「衆」といいます。衆僧という言葉はその音写と意訳とを重ねた語ということが分かります。・「人天の導師、莆菜の化益を為すべき者なり。又た衆僧の得失を見るべからず、衆僧の老少を顧みるべからず。」(『典座教訓』14、修行は日々の足下にある)・「見在大宋国の寺院に、比丘尼の掛搭せるが、もし得法の声あれば、官家より尼寺の住持に補すべき詔をたまふには、即寺... 1999.10.29 仏教を本気で学ぶ
仏教を本気で学ぶ ブッダ最後の旅【 第1章 】2、修行僧たちに教える こちらのページを閲覧するには、メンバー登録が必要です。詳細はリンク先でご確認ください。なお、定期的にパスワードは変更されます。また、セキュリティの観点から一定時間を経ると再度パスワード入力が必要になります。 << 戻る 1999.02.15 仏教を本気で学ぶ
仏教を本気で学ぶ ブッダ最後の旅【 第3章 】13、死別の運命 こちらのページを閲覧するには、メンバー登録が必要です。詳細はリンク先でご確認ください。なお、定期的にパスワードは変更されます。また、セキュリティの観点から一定時間を経ると再度パスワード入力が必要になります。 << 戻る 1999.02.15 仏教を本気で学ぶ
仏教を本気で学ぶ ブッダ最後の旅【 第6章 】24、死を悼む こちらのページを閲覧するには、メンバー登録が必要です。詳細はリンク先でご確認ください。なお、定期的にパスワードは変更されます。また、セキュリティの観点から一定時間を経ると再度パスワード入力が必要になります。 << 戻る 1999.02.15 仏教を本気で学ぶ
人物 ジャイアント馬場(ジャイアントばば) プロレスラー、プロ野球選手、テレビタレント、三条市名誉市民。 本名・旧リングネーム・プロ野球選手時代の登録名は馬場正平(ばば しょうへい)。生誕 1938年1月23日命日 1999年1月31日顕峰院法正日剛大居士<< 戻る 1999.01.31 人物
人物 司馬遼太郎(しば りょうたろう) 小説家、ノンフィクション作家、評論家。本名、福田 定一(ふくだ ていいち)。筆名の由来は「司馬遷に遼に及ばざる日本の者」から来ている。 大阪府大阪市生まれ。産経新聞社記者として在職中に、『梟の城』で直木賞を受賞。歴史小説に新風を送る。代表作に『竜馬がゆく』『燃えよ剣』『国盗り物語』『坂の上の雲』などがある。生誕 1923年(大正12年)8月7日命日 1996年(平成8年)2月12日遼望院釋浄定<< 戻る 1996.02.12 人物
人物 城達也(じょうたつや) 声優、俳優、ナレーター。劇団東京、タレント・エージェントを経て、東京俳優生活協同組合に所属し、在籍中は専務理事を務めた。FMラジオ局で放送されたイージーリスニングの音楽番組である『JET STREAM』(ジェット・ストリーム)でフランク・プゥルセル楽団の「ミスター・ロンリー」が始まると、「遠い地平線が消えて・・・」と印象的なナレーションの数々で有名で、「ローマの休日」など数多くの映画で世界的に人気を誇った名優グレゴリー・ペックの吹き替えでも有名です。生誕 1931年12月13日命日 1995年2月25日<< 戻る 1995.02.25 人物
人物 下村寅太郎(しもむらとらたろう) 哲学者・科学史家。『ライプニッツ』(弘文堂、1938年)、『自然哲学』(弘文堂、1939年)、『科学史の哲学』(弘文堂、1941年)、『無限論の形成と構造』(弘文堂、1944年)、『レオナルド・ダ・ヴィンチ』(勁草書房)、『西田幾多郎 人と思想』(東海大学出版会)、『ルネッサンスの芸術家』(筑摩書房、1969年)生誕 1902年(明治35年)8月17日命日 1995年(平成7年)1月22日<< 戻る 1995.01.22 人物
人物 昭和天皇(しょうわてんのう) 第124代天皇(在位:1926年(大正15年/昭和元年)12月25日 - 1989年(昭和64年)1月7日)。諱は裕仁(ひろひと)、称号は迪宮(みちのみや)。お印は若竹。 1921年11月25日から1926年12月25日までの5年余りに渡って、父帝・大正天皇の健康状態の悪化により、摂政宮となった。生誕 1901年(明治34年)4月29日命日 1989年(昭和64年)1月7日<< 戻る 1989.01.07 人物
人物 ジョン・レノン イギリス出身のシンガーソングライター・ギタリスト。ビートルズにおいてボーカル・ギターなどを担当しレノン=マッカートニー名義で作詞作曲をした。ビートルズ解散後はソロとして主に小野洋子と活動した。ビートルズを立ち上げたリーダーであるほか、ポール・マッカートニーと「レノン=マッカートニー」としてソングライティングチームを組み、多くの楽曲を製作しメイン・ヴォーカルを務めた。1970年のビートルズ解散後はアメリカをおもな活動拠点とし、ソロとして、また妻で芸術家の小野洋子と共に平和運動家としても活動した。1975年から約5年間音楽活動を休止したあと1980年に活動を再開するも、同年12月8日23時ごろ(米... 1980.12.08 人物
人物 東海林太郎(しょうじたろう) 歌手。ロイド眼鏡・燕尾服を着用し直立不動の姿勢で歌うという特徴があった。1965年、紫綬褒章受章。生誕 1898年(明治31年)12月11日命日 1972年(昭和47年)10月4日聲楽院釋太朗大居士<< 戻る 1972.10.04 人物
人物 ジグミ・ドルジ・ワンチュク – 第3代ブータン国王 ジグミ・ドルジ・ワンチュクは、第3代ブータン国王。第3代国王の20年の統治期は、近代国家としてのブータンの国際社会への出現に象徴される変革の歴史である。従来の鎖国政策を取りやめ、政治的統一、宗教的・社会的基盤の強化、経済発展などの実績から、「近代ブータンの父」と呼ばれ、現在でも国民の敬愛を受けている。外交面では、本格的な国際社会への参加を意味する国際連合加盟を果たした。ブータンの国際社会参加は1962年のコロンボ計画参加に始まる。1970年にインドの後押しを受け、国際連合加盟を申請。1971年7月21日正式に国際連合への加盟が承認された。ブータン古来の伝統文化を尊重し、ゾンカ語を国語に制定し、... 1972.07.21 人物
人物 志賀直哉(しがなおや) 明治から昭和にかけて活躍した日本の小説家。白樺派を代表する小説家のひとり。「小説の神様」と称せられ多くの日本人作家に影響を与えた。代表作に「暗夜行路」「和解」「小僧の神様」「城の崎にて」など。宮城県石巻生まれ、東京府育ち。生誕 1883年(明治16年)2月20日命日 1971年(昭和46年)10月21日<< 戻る 1971.10.21 人物
人物 正力松太郎(しょうりきまつたろう) 内務官僚、警察官、実業家、政治家。 読売新聞社社主、日本テレビ放送網代表取締役社長、読売テレビ会長、日本武道館会長等を歴任。また、読売ジャイアンツ創立者であり初代オーナー。 位階勲等は従二位勲一等。富山県高岡市の名誉市民であり、京成電鉄OBでもある。読売新聞社の経営者として、同新聞の部数拡大に成功し、「読売中興の祖」として大正力(だいしょうりき)と呼ばれる。日本におけるそれぞれの導入を強力に推進したことで、プロ野球の父、テレビ放送の父、原子力の父とも呼ばれる。1885年(明治18年)4月11日、富山県射水郡枇杷首村(後の大門町、射水市)に土建請負業を営む父・正力庄次郎、母・きよの次男として生ま... 1969.10.09 人物
人物 志賀潔(しがきよし) 医学者・細菌学者である。 赤痢菌の発見者として知られ、朝鮮総督府医院長、京城医学専門学校校長、京城帝国大学総長などを歴任した。生誕 1871年2月7日(明治3年12月18日)命日 1957年(昭和32年)1月25日<< 戻る 1957.01.25 人物
人物 白井松次郎(しらいまつじろう) 松竹の創業者の一人(松竹株式会社社長)。興行師、劇場経営者として活躍し、旧態依然たる明治の興行界に近代的なシステムを導入したことで知られる。生誕 1877年12月13日命日 1951年1月23日<< 戻る 1951.01.23 人物
人物 島崎藤村(しまざきとうそん) 詩人、小説家。本名は島崎 春樹。信州木曾の中山道馬籠生まれ。 『文学界』に参加し、ロマン主義詩人として『若菜集』などを出版。さらに小説に転じ、『破戒』『春』などで代表的な自然主義作家となった。生誕 1872年3月25日〈明治5年2月17日〉命日 1943年〈昭和18年〉8月22日文樹院静屋藤村居士<< 戻る 1943.08.22 人物
人物 渋沢栄一(しぶさわえいいち) 武士、官僚、実業家、慈善家。位階勲等爵位は、正二位勲一等子爵。雅号は青淵(せいえん)。日本の近代資本主義の父。江戸時代末期に農民(名主身分)から武士(幕臣)に取り立てられ、明治政府では、大蔵少輔事務取扱となり、大蔵大輔・井上馨の下で財政政策を行った。退官後は実業家に転じ、第一国立銀行や理化学研究所、東京証券取引所といった多種多様な500もの会社の設立・経営に関わる。生誕 天保11年2月13日〈1840年3月16日〉命日 昭和6年〈1931年〉11月11日泰徳院殿仁智義譲青淵大居士<< 戻る 1931.11.11 人物
人物 ジョン万次郎(ジョンまんじろう)- 中浜万次郎 江戸時代末期から明治にかけてアメリカ合衆国と日本で活動した日本人である。アメリカ人からはジョン・マンという愛称でも呼ばれた。土佐国出身。帰国後は本名として 中浜 万次郎を名乗った。天保12年1月5日(1841年1月27日)早朝の宇佐浦(現・土佐市宇佐町)、14歳になっていた万次郎は、足摺岬沖での鯵鯖漁に出航する漁船に炊係(炊事と雑事を行う係)として乗り込んだ。仲間の構成は、船頭の筆之丞(38歳。のちにハワイで「伝蔵」と改名)を筆頭に、筆之丞の弟で漁撈係の重助(25歳)、同じく筆之丞の弟で櫓係を務める五右衛門(16歳)と、もうひとりの櫓係の寅右衛門(26歳)、そして炊係の万次郎(14歳)であった... 1898.11.12 人物
人物 清水次郎長(しみずのじろちょう) 幕末・明治の侠客、博徒。本名、山本 長五郎。米問屋山本次郎八の養子。養家没落に伴い、博徒となり,やくざ仲間で名をあげて清水に縄張りをもち、次郎長伯山と異名をとった三代目神田伯山の講談から広まり、広沢虎造の浪曲、その映画化で「海道一の親分」として取り上げられ人気を博する。 生誕 文政3年1月1日(1820年2月14日)命日 明治26年(1893年)6月12日碩量軒雄山義海居士<< 戻る 1893.06.12 人物
仏教を本気で学ぶ 『修証義』(しゅしょうぎ) 『修証義』(しゅしょうぎ)は、おもに道元禅師の著わされた『正法眼蔵』から、その文言を抜き出して編集されたものです(どの部分から抜き出されたか詳しく知りたい方は ▶ 『修証義』(しゅしょうぎ)『正法眼蔵』対応版へ)。明冶時代の中ごろ、各宗派では時代に適応した布教のあり方を考える流れがありました。曹洞宗では曹洞扶宗会(そうとうふしゅうかい)が結成され、多くの僧侶や信者の人々がそれに参加しました。そのメンバーであった大内青巒(おおうちせいらん)を中心として『洞上在家修証義』(とうじょうざいけしゅしょうぎ)が刊行されました。これは在家教化のためのすぐれた内容となっていたため、曹洞宗では、ときの大本山永... 1890.12.01 仏教を本気で学ぶ年表
人物 島津久光(しまづひさみつ) 江戸時代末期から明治時代初期にかけての日本の政治家。幕末の薩摩藩における事実上の最高権力者で、公武合体運動を推進した。明治政府の内閣顧問、左大臣。重富島津家当主、のち玉里島津家初代当主。 位階・勲等・爵位は従一位大勲位公爵。字は君輝、邦行。雅号は幼少時が徳洋、以後は大簡・双松・玩古道人・無志翁と号した。島津家第27代当主(薩摩藩10代藩主)島津斉興の五男で庶子。同28代当主(11代藩主)島津斉彬は異母兄、同29代当主(12代藩主)島津忠義は長男。次男・久治は宮之城家、四男・珍彦は重富家、五男・忠欽は今和泉家、と島津家の旧来の分家をそれぞれ相続した。生誕 文化14年10月24日(1817年12月... 1887.12.06 人物
仏教を本気で学ぶ 神仏分離令、廃仏毀釈(しんぶつぶんりれい、はいぶつきしゃく) 1868(明治元)年3月、祭政一致の制を復活。政府は神仏分離令出す。廃仏毀釈によって、寺院仏像などの破却・焼打が各地で起こる。廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)はゆきすぎた仏教廃止運動でした。明治維新の復古思想から神道を国教とする考えがあり、神仏分離令がだされ、神社から仏教的なものがのぞかれました。神官を先頭とする群衆が寺をおそって仏像や仏具を焼いてしまいました。奈良の興福寺の五重塔は、わずか25円(一説には250円)で売りにだされたといいます。<< 戻る 1868.03.01 仏教を本気で学ぶ年表
人物 島津斉彬(しまづなりあきら) 江戸時代後期から幕末の大名で、薩摩藩11代藩主。島津氏28代当主。今和泉島津家出身で斉彬の養女・天璋院は江戸幕府13代将軍・ 徳川家定の正室。 薩摩藩による富国強兵や殖産興業に着手し国政改革にも貢献した幕末の名君である。西郷隆盛ら幕末に活躍する人材も育てた。生誕 文化6年3月14日(1809年9月28日)命日 安政5年7月16日(1858年8月24日)順聖院殿英徳良雄大居士<< 戻る 1858.07.16 人物
人物 十返舎一九(じゅっぺんしゃいっく) 十返舎一九は、江戸時代の戯作者で『東海道中膝栗毛』の作者として知られています。生誕 1765年(明和2年)命日 1831年(天保2年)8月7日67歳心月院一九日光信士辞世の句は「此世をば どりやおいとまに せん香と ともにつひには 灰左様なら 」。浅草の東陽院に葬られ、墓碑は東京都中央区勝どき4丁目に移転した同院に残っています。<< 戻る 1831.08.07 人物
人物 式亭三馬(しきていさんば) 江戸時代後期の地本作家で薬屋、浮世絵師。滑稽本『浮世風呂』『浮世床』などで知られる。名は菊地泰輔、字は久徳。通称は西宮太助。生誕 安永5年(1776年)命日 文政5年閏1月6日(1822年2月27日)歓誉喜楽奏天信士(深川雲光院)<< 戻る 1822.01.06 人物
人物 渋川春海(しぶかわはるみ/しゅんかい) 江戸時代前期の天文暦学者、囲碁棋士、神道家。幼名は六蔵、諱は都翁、字は春海、順正、通称は助左衛門、号は新蘆、霊社号は土守霊社。貞享暦の作成者。姓は安井から保井、さらに渋川と改姓した。暦道の最高責任者でもあった泰福を説得して大和暦の採用に同意させ、3度目の上表によって大和暦は朝廷により採用されて貞享暦となった。生誕 寛永16年閏11月3日(1639年12月27日)命日 正徳5年10月6日(1715年11月1日)<< 戻る 1715.10.06 人物
人物 島津忠恒(しまづ ただつね/家久/いえひさ) 安土桃山時代から江戸時代前期の武将、外様大名。薩摩藩初代藩主。通称は又八郎。『絵本太閤記』には島津亦七郎忠常とある。 戦国大名として島津氏を成長させた島津貴久の孫にあたり、島津義弘の子。最初の妻・亀寿は島津義久の娘で、初め忠恒の兄である久保と結婚したが、久保の死後に忠恒と結婚した。後に家久(いえひさ)と改名するが、同名の叔父が存在する区別のために初名の忠恒で呼ばれることが多い。生誕 天正4年11月7日(1576年11月27日)命日 寛永15年2月23日(1638年4月7日)慈眼院殿花心琴月大居士<< 戻る 1638.02.23 人物
人物 柴田勝家(しばたかついえ) 戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。織田信長の筆頭家老。戦上手で勇猛果敢、情に厚い性格だったと伝わる。織田信長の妹「お市の方」の再婚相手。生誕 大永2年(1522年)命日 天正11年4月24日(1583年6月14日)摧鬼院殿台岳還道大居士幡岳寺殿籌山勝公大居士<< 戻る 1583.04.24 人物