【仏教用語/人物集 索引】

「正法眼蔵」諸悪莫作(しょあくまくさ)

投稿日:1240年1月1日 更新日:

古仏云、諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教(諸悪を作すこと莫れ、衆善奉行すべし、自ら其の意を浄む、是れ諸仏の教なり)。

これ七仏祖宗の神通戒として、前仏より後仏に正伝す、後仏は前仏に相嗣せり。ただ七仏のみにあらず、是諸仏教なり。この道理を功夫参究すべし。いはゆる七仏祖の法道、かならず七仏祖の法道のごとし。相伝相嗣、なほ箇裡の神通消息なり。すでに是諸仏教なり、百千万仏の教行証なり。

いまいふところの諸悪者、善性悪性無記性のなかに悪性あり。その性これ無生なり。善性無記性等もまた無生なり、無漏なり、実相なりといふとも、この三性の箇裡に、許多般の法あり。諸悪は、此界の悪と他界の悪と同不同あり、先時と後時と同不同あり、天上の悪と人間の悪と同不同なり。いはんや仏道と世間と、道悪道善道無記、はるかに殊異あり。善悪は時なり、時は善悪にあらず。善悪は法なり、法は善悪にあらず。法等悪等なり、法等善等なり。

しかあるに、阿耨多羅三藐三菩提を学するに、聞教し、修行し、証果するに、深なり、遠なり、妙なり。この無上菩提を或従知識してきき、或従経巻してきく。はじめは、諸悪莫作ときこゆるなり。諸悪莫作ときこえざるは、仏正法にあらず、魔説なるべし。

しるべし、諸悪莫作ときこゆる、これ仏正法なり。この諸悪つくることなかれといふ、凡夫のはじめて造作してかくのごとくあらしむるにあらず。菩提の説となれるを聞教するに、しかのごとくきこゆるなり。

しかのごとくきこゆるは、無上菩提の言葉にてある道著なり。すでに菩提語なり、ゆゑに語菩提なり。無上菩提の説著となりて聞著せらるるに転ぜられて、諸悪莫作とねがひ、諸悪莫作とおこなひもてゆく。諸悪すでにつくられずなりゆくところに、修行力たちまち現成す。この現成は、尽地尽界、尽時尽法を量として現成するなり。その量は、莫作を量とせり。

正当恁麼時の正当恁麼人は、諸悪つくりぬべきところに住し往来し、諸悪つくりぬべき縁に対し、諸悪つくる友にまじはるににたりといへども、諸悪さらにつくられざるなり。

莫作の力量現成するゆゑに。諸悪みづから書悪と道著せず、諸悪にさだまれる調度なきなり。一拈一放の道理あり。正当恁麼時、すなはち悪の人ををかさざる道理しられ、人の悪をやぶらざる道理あきらめらる。

みづからが心を挙して修行せしむ、身を挙して修行せしむるに、機先の八九成あり、脳後の莫作あり。なんぢが心身を拈来して修行し、たれの身心を拈来して修行するに、四大五蘊にて修行するちから驀地に見成するに、四大五蘊の自己を染汚せず、今日の四大五蘊までも修行せられもてゆく。

如今の修行なる四大五蘊のちから、上項の四大五蘊を修行ならしむるなり。山河大地、日月星辰までも修行せしむるに、山河大地、日月星辰、かへりて我らを修行せしむるなり。一時の眼睛にあらず、諸時の活眼なり。眼睛の活眼にてある諸時なるがゆゑに、諸仏諸祖をして修行せしむ、聞教せしむ、証果せしむ。

諸仏諸祖、かつて教行証をして染汚せしむることなきがゆゑに、教行証いまだ諸仏諸祖を罜礙することなし。このゆゑに仏祖をして修行せしむるに、過現当の機先機後に回避する諸仏諸祖なし。衆生作仏作祖の時節、ひごろ所有の仏祖を罜礙せずといへども、作仏祖する道理を、十二時中の行住坐臥に、つらつら思量すべきなり。作仏祖するに衆生をやぶらず、うばはず、うしなふにあらず。しかあれども脱落しきたれるなり。

善悪因果をして修行せしむ。いはゆる因果を動ずるにあらず、造作するにあらず。因果、あるときは我らをして修行せしむるなり。この因果の本来面目すでに分明なる、これ莫作なり。無生なり、無常なり、不昧なり、不落なり。脱落なるがゆゑに。かくのごとく参究するに、諸悪は一条にかつて莫作なりけると現成するなり。この現成に助発せられて、諸悪莫作なりと見得徹し、坐得断するなり。

正当恁麼のとき、初中後、諸悪莫作にて現成するに、諸悪は因縁生にあらず、ただ莫作なるのみなり。諸悪は因縁滅にあらず、ただ莫作なるのみなり。諸悪もし等なれば諸法も等なり。諸悪は因縁生としりて、この因縁のおのれと莫作なるをみざるは、あはれむべきともがらなり。仏種従縁起なれば縁従仏種起なり。

諸悪なきにあらず、莫作なるのみなり。諸悪あるにあらず、莫作なるのみなり。諸悪は空にあらず、莫作なり。諸悪は色にあらず、莫作なり。諸悪は莫作にあらず、莫作なるのみなり。

たとへば、春松は無にあらず有にあらず、つくらざるなり。秋菊は有にあらず無にあらず、つくらざるなり。諸仏は有にあらず無にあらず、莫作なり。露柱燈籠、払子挂杖等、有にあらず、無にあらず、莫作なり。自己は有にあらず無にあらず、莫作なり。恁麼の参学は、見成せる公案なり、公案の見成なり。

主より功夫し、賓より功夫す。すでに恁麼なるに、つくられざりけるをつくりけるとくやしむも、のがれず、さらにこれ莫作の功夫力なり。

しかあれば、莫作にあらばつくらまじと趣向するは、あゆみをきたにして越にいたらんとまたんがごとし。諸悪莫作は、井の驢をみるのみにあらず、井の井をみるなり。驢の驢をみるなり、人の人をみるなり、山の山をみるなり。説箇の応底道理あるゆゑに、諸悪莫作なり。

仏真法身、猶若虚空、応物現形、如水中月(仏の真法身は、猶し虚空のごとし、物に応じて形を現はすこと、水中の月の如し)なり。応物の莫作なるゆゑに、現形の莫作あり、猶若虚空、左拍右拍なり。如水中月、被水月礙(水月に礙へらる)なり。これらの莫作、さらにうたがふべからざる現成なり。

衆善奉行。この衆善は、三性のなかの善性なり。善性のなかに衆善ありといへども、さきより現成して行人をまつ衆善いまだあらず。作善の正当恁麼時、きたらざる衆善なし。万善は無象なりといへども、作善のところに計会すること、磁鐵よりも速疾なり。そのちから、毘嵐風よりもつよきなり。大地山河、世界国土、業増上力、なほ善の計会を罜礙することあたはざるなり。

しかあるに、世界によりて善を認ずることおなじからざる道理、おなじ認得を善とせるがゆゑに、如三世諸仏、説法之儀式(三世諸仏の説法の儀式の如し)。おなじといふは、在世説法ただ、時なり。寿命身量また時に一任しきたれるがゆゑに、説無分別法なり。

しかあればすなはち、信行の機の善と、法行の機の善と、はるかにことなり。別法にあらざるがごとし。たとへば、声聞の持戒は菩薩の破戒なるがごとし。

衆善これ因縁生、因縁滅にあらず。衆善は諸法なりといふとも、諸法は衆善にあらず。因縁と生滅と衆善と、おなじく頭正あれば尾正なり。衆善は奉行なりといへども、自にあらず、自にしられず。他にあらず、他にしられず。自他の知見は、知に自あり、他あり、見の自あり、他あるがゆゑに、各々の活眼睛、それ日にもあり、月にもあり。これ奉行なり。奉行の正当恁麼時に、現成の公案ありとも、公案の始成にあらず、公案の久住にあらず、さらにこれを奉行といはんや。

作善の奉行なるといへども、測度すべきにはあらざるなり。いまの奉行、これ活眼睛なりといへども、測度にはあらず。法を測度せんために現成せるにあらず。活眼睛の測度は、余法の測度とおなじかるべからず。

衆善、有無、色空等にあらず、ただ奉行なるのみなり。いづれのところの現成、いづれの時の現成も、かならず奉行なり。この奉行にかならず衆善の現成あり。奉行の現成、これ公案なりといふとも、生滅にあらず、因縁にあらず。奉行の入住出等も又かくのごとし。衆善のなかの一善すでに奉行するところに、尽法全身、真実地等、ともに奉行せらるるなり。

この善の因果、おなじく奉行の現成公案なり。因はさき、果はのちなるにあらざれども、因円満し、果円満す。因等法等、果等法等なり。因にまたれて果感ずといへども、前後にあらず、前後等の道あるがゆゑに。

自浄其意といふは、莫作の自なり、莫作の浄なり。自の其なり、自の意なり。莫作の其なり、莫作の意なり。奉行の意なり、奉行の浄なり、奉行の其なり、奉行の自なり。かるがゆゑに是諸仏教といふなり。

いはゆる諸仏、あるいは自在天のごとし。自在天に同不同なりといへども、一切の自在天は諸仏にあらず。あるいは転輪王のごとくなり。しかあれども、一切の転輪聖王の諸仏なるにあらず。かくのごとくの道理、功夫参学すべし。諸仏はいかなるべしとも学せず、いたづらに苦辛するに相似せりといへども、さらに受苦の衆生にして、行仏道にあらざるなり。莫作および奉行は、驢事未去、馬事到来なり。

唐の白居易は、仏光如満禅師の俗弟子なり。江西大寂禅師の孫子なり。杭州の刺史にてありしとき、鳥窠の道林禅師に参じき。ちなみに居易とふ、如何是仏法大意。
道林いはく、諸悪莫作、衆善奉行。
居易いはく、もし恁麼にてあらんは、三歳の孩児も道得ならん。
道林いはく、三歳孩児縱道得、八十老翁行不得なり。
恁麼いふに、居易すなはち拝謝してさる。

まことに居易は、白将軍がのちなりといへども、奇代の詩仙なり。人つたふらくは、二十四生の文学なり。あるいは文殊の号あり、あるいは弥勒の号あり。風情のきこえざるなし、筆海の朝せざるなかるべし。しかあれども、仏道には初心なり、晩進なり。いはんやこの諸悪莫作、衆善奉行は、その宗旨、ゆめにもいまだみざるがごとし。

居易おもはくは、道林ひとへに有心の趣向を認じて、諸悪をつくることなかれ、衆善奉行すべしといふならんとおもひて、仏道に千古万古の諸悪莫作、衆善奉行の亙古亙今なる道理、知らずきかずして、仏法のところをふまず、仏法のちからなきがゆゑにしかのごとくいふなり。たとひ造作の諸悪をいましめ、たとひ造作の衆善をすすむとも、現成の莫作なるべし。

おほよそ仏法は、知識のほとりにしてはじめてきくと、究竟の果上もひとしきなり。これを頭正尾正といふ。妙因妙果といひ、仏因仏果といふ。仏道の因果は、異熟等流等の論にあらざれば、仏因にあらずは仏果を感得すべからず。道林この道理を道取するゆゑに仏法あるなり。

諸悪たとひいくかさなりの尽界に弥綸し、いくかさなりの尽法を呑却せりとも、これ莫作の解脱なり。衆善すでに初中後善にてあれば、奉行の性相体力等を如是せるなり。

居易かつてこの蹤跡をふまざるによりて、三歳の孩児も道得ならんとはいふなり。道得をまさしく道得するちからなくて、かくのごとくいふなり。

あはれむべし、居易、なんぢ道甚麼なるぞ。仏風いまだきかざるがゆゑに。三歳の孩児をしれりやいなや。孩児の才生せる道理をしれりやいなや。もし三歳の孩児をしらんものは、三世諸仏をもしるべし。いまだ三世諸仏をしらざらんもの、いかでか三歳の孩児をしらん。対面せるはしれりとおもふことなかれ、対面せざればしらざるとおもふことなかれ。

一塵をしれるものは尽界をしり、一法を通ずるものは万法を通ず。万法に通ぜざるもの、一法に通ぜず。通を学せるもの神通徹のとき、万法をもみる、一法をもみるがゆゑに、一塵を学するもの、のがれず尽界を学するなり。三歳の孩児は仏法をいふべからずとおもひ、三歳の孩児のいはんことは容易ならんとおもふは至愚なり。そのゆゑは、生をあきらめ死をあきらむるは仏家一大事の因縁なり。

古徳いはく、なんぢがはじめて生下せりしとき、すなはち獅子吼の分あり。獅子吼の分とは、如来転法輪功徳なり、転法輪なり。
又古徳いはく、生死去来、真実人体なり。

しかあれば、真実体をあきらめ、獅子吼功徳あらん、まことに一大事なるべし、たやすかるべからず。かるがゆゑに、三歳孩児の因縁行履あきらめんとするに、さらに大因縁なり。それ三世の諸仏の行履因縁と、同不同あるがゆゑに。

居易おろかにして三歳の孩児の道得をかつてきかざれば、あるらんとだにも疑著せずして、恁麼道取するなり。道林の道声の雷よりも顕赫なるをきかず、道不得をいはんとしては、三歳孩児還道得といふ。これ孩児の獅子吼をもきかず、禅師の転法輪をも蹉過するなり。

禅師あはれみをやむるにあたはず、かさねていふしなり、三歳の孩児はたとひ道得なりとも、八十の老翁は行不得ならんと。

いふ心は三歳の孩児に道得の言葉あり、これをよくよく参究すべし。八十の老翁に行不得の道あり、よくよく功夫すべし。孩児の道得はなんぢに一任す、しかあれども孩児に一任せず。老翁の行不得はなんぢに一任す、しかあれども老翁に一任せずといひしなり。仏法はかくのごとく弁取し、説取し、宗取するを道理とせり。

正法眼蔵悪莫作第卅一

爾時延応庚子月夕在雍州宇治県観音導利興聖宝林寺示衆
寛元元年癸卯三月下旬七日於侍司寮書写之 懐奘

※このページは学問的な正確性を追求するものではありません。より分かりやすくする為に漢字をひらがなに、旧字体を新字体に、( )にふりがなをつけるなど、原文に忠実ではありません。

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